誠にお世話になりました
加藤宣幸さんにお目にかかれたのは自分がもっとも後の方のひとりであったのかもしれません。初岡昌一郎さんが主催されてきた「ソーシャル・アジア研究会」の席上で2006年頃だったように思います。しばらくして、1960年代(自分の学生時代)に選挙ポスターでみたこともあった戦前からの社会運動家・加藤勘十さん、また加藤シズエさんのお子さんであること、そして社会党の機関紙局でお仕事をなさっていたことも知りました。
また、1985年頃の「平和経済計画会議」での年次報告書作成のための研究会(事務局は蛯名保彦さん)で、社会党から曽我裕次さんと森永永悦さんという大物に毎回参加いただき、ご意見をいただいておりましたが、その森永永悦さんと加藤さんが社会党時代に組んで活躍しておられたことも後になって知りました。
お目にかかったときには、すでに月刊メール・マガジン『オルタ』の編集を長く手がけられてきており、時折、顔が合うことがあると投稿するよう勧めてくれました。おかげさまで何回かの執筆の機会をいただきました。その後には「オルタ懇談会」も組織され、いまだ第一線の分析家、あるいは近年でも影響力と観察力のある政治家(たとえば河野洋一氏)など、なかなかうかがう機会が難しい講演会を企画していただいておりました。
いずれの会合でも、加藤さんはもの静かななかに広く温かい包容力で人に接され、さらにあの雑務の多い、また加藤さんならではの広い人脈で編集・運営を行うという実務力、統率力をおもちでした。
お目にかかる毎に敬服の念を深めざるをえなかったわけです。そして、その加藤さんは、今年喜寿となる自分よりもさらにひとまわり以上も歳上なのに、煩瑣で新技術でもあるコンピュータ操作をやすやすとこなし、どうみても高齢者にはみえない柔軟な方でした。「人生100 年時代」の先端におられたのです。
だから、敬服の念はいつしか自分も加藤さんのように生きていかなければならないとの思いにつながっていきました。同時に、加藤さんについては「永遠の命」のある例外的な方だと自分は思い込んでしまっていたのです。社会ボランティアの仕事をしながらの立派な「別れ」、自分の人生のめざすべき最後の目標となりそうです。
誠に御世話になりました。有り難うございました。
(島根県立大学名誉教授)
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