【自由へのひろば】

被ばく医師・肥田舜太郎が語る福島と広島(2)

山口 光男


 それから、今でも不思議なんですけれども、若い奥さんでしたが、松江で前の年に結婚して、松江の県庁の役人だった夫が広島県庁に転勤になって、4月に広島に来て、おなかが大きくなって、7月25日に松江の実家に帰ってお産をしたと。広島に特殊な爆弾が落ちて相当な被害が出たと聞いて、心配してたら、広島から来たという人がしゃべったのが噂になって、広島は1軒も家が立っとらん、人はみんな死んだというんでびっくりしてね、赤ん坊をお母さんに預けて広島に出てきたんです。
 1週間、焼け跡を踏み砕いて、女の足でよくやったと思うんですが、何かご主人のものはないかと思って探したと。同じように探している人から、生きてりゃこんなところにおらんと、探したけりゃ村へ行けというんで、戸坂村に来て、逃げてきただんなさんにばったり会ったというんですね。

 農家の土蔵の中が涼しいから重症室になっているんですが、僕の受け持ちの中にその土蔵があって、そこに20数人重症の人が入っていたんです。その日、朝行ったときにはいなかったのに、お昼にきれいな着物を着た女の人が仰向けに寝てたんです。でも重症者で忙しいですから、注意もしないで出ようとしたら、入口で寝ていた兵隊さんが、私の服を引っ張って、「軍医殿、忙しくて悪いけど、あの奥さんが熱を出しているので診てあげてください」と言うから、しょうがないんでそこにしゃがみ込んで、「どうしたんですか」と聴診器当てて、喉をちょっと診て風邪だろうと思って、解熱剤を1包み渡して、「風邪でしょうから、飲んでいなさい。すぐ治りますよ」と言って、そのまま出ちゃったんです。
 3日目になってもまだ寝ていましたが、その翌日見たら、顔が真っ青なんですね。びっくりしてそばに寄ってみたら、奥さんの胸元の白い肌に紫色の斑点が出ていました。これは死んでいく人と同じ紫斑ですから、びっくりして、そこで初めて詳しい話を聞いたわけです。それでも私は風邪だと思って、何で紫斑が出たのか分からないから、変だな、変だなと思っているうちに、だんだんだんだん症状が重くなっていって、最後は吐血をして、抜け落ちた毛を鮮血に染めて亡くなりました。

 そういう強烈な印象を受けたまま、ずうっと治療を続けていったんですね。だれもそんなこと説明する人もいないし、当時は分かる人はだれもいなかったんです。それがそこにいたときの一番の印象です。

 その年の暮れに戸坂村から山口県の柳井に病院が移って、それから、東京の荻窪、埼玉の行田などで治療活動をつづけました。どこに行ってもいつの間にか私が被ばくした医師だと言うことが伝わって、患者さんに被爆者の方が大勢来ましたね。
 でも、はじめは何も言わないんです。私の顔を見て確かめてから、小さい声で広島で被爆したのだと言う。当時、広島、長崎の被爆者は自分で名乗る人は一人もいなかったんです。
 なぜかというと、それはマッカーサーがしゃべってはいけないという命令を出したからで、これはデマで伝わったのかどうか知らないけど、マッカーサーは口頭で「広島、長崎の原爆のことは軍の機密だから、被爆者はそこで体験したことを一切しゃべってはいけない。もし、しゃべったら、重罪に処す」と言ったんですね。彼はずるいから、これは文書に残してないんですよ。そしてそれが末端に伝わってくると、「重罪に処す」が「銃殺に処す」になっちゃった。だから、自分の経験したことをしゃべると銃殺になると。当時はまだ占領下でアメリカの軍隊がいますから、怖くてだれも言わないんですね。

 そういう中で私を訪ねて来た何人かが、みんな本当に悲惨な死に方でした。それは政府が被爆者手帳を発行して、被爆者であるということを公然と認めるまでに、それから12年もかかったからなんですね。この期間は、どんなに苦しもうと、死んで行こうと、何しようと、政府が全く構わなかったのは事実なんです。

 私の診察は、要するに人生相談みたいなもんなんですよ。聴診器も何もしないで、話を聞くことが一番の仕事でした。というのは、もうみんな大きな病院で診てもらっているんです。そして診断がつかなくて、あなたは何でもないと言って帰されるんですね。で、気の利いた人は、教授が書いてくれる診断書を持って来た。それを読んでみると、確かにちゃんと診察してあって、異常がないと書いてある。だけど、本人は辛いから来るわけですね。なぜ、自分がこうなったかを僕に聞きたいから来るわけです。
 私だって分かりませんよね。だから、私はその人が被ばくしてから、どういう生活をしていたのかって聞くんです。そういうときに一番気にしたのは、当日市内にいなくても亡くなった人がいっぱいいましたから。「あなたは当日やられたの、それとも後から入ったの」と聞きました。それは私の癖になったんですがね。

 被爆者でやけどがあるとかという人はあんまりなくて、だるくて働けないというのが特徴でした。被爆者のだるさというのは、普通のとは全然違うんですよ。一番極端な例は、診察室に入って、私の前の椅子に座るんですね。そしていろんな話をしているうちに、「先生、座っているのきついからごめんなさい」と言って床に座り、しまいには本当に寝そべってしまうんです。こういう人はほんの数例ですが、みんなに共通のだるいというのは、それの強いか、弱いかですね。そういうのが出ますと絶対に働けないんです。だから、当時は就職をするのも困難な時なのに、それが理由で働けないんで、みんな貧乏になったと。私はその印象が非常に強いんです。

 それから、だるいというので女性は、当時は働く人は少ないですから、主婦として子ども見たり、家の中のことやだんなの世話をすると。それがやりきれない。一生懸命やりたいんだけれど。それがだんなが被爆者でない場合は、まったく訳が分からないわけです。医者に行っても分からないんだから、だんなが分かりっこない。共通して日本の女性の被爆者が一番惨めだったのは、だんなとの夜の生活です。これがみな不始末に終わるんですね。それが原因で離婚になった人をたくさん知ってます。
 だから、そういう意味で原爆は単に表面から見える怪我をさせたんじゃなくて、人間の中身まで、本当に深いところに傷をつけた。そして人間として生きて行く自由も希望もなくした。その中でみんな耐えて生きてきたのが被爆者なんです。

 でも私がだるいという症状を聞いた時に、それが病気だというふうに判断したのは、ずっと後のことなんですね。外国へ行って、被ばく者を診た医師の話などいろいろ聞いて行く中で分かったんです。つまり放射線の被害は、爆発した時にぱっと出ただけじゃなくて、それが後々まで影響を与えるというのが私の印象だったんですね。
 そういっただるいとかいう症状について、いわゆるぶらぶら病と言っていますが、このぶらぶら病というのは、医者がつけたんじゃないし、被爆した人間が自分でつけたんでもない。家族が付けたんですよ。外から見ても病気らしいところは何もない。医者に診せても、検査をどれだけやっても病気が見つからない。なのに、農作業に出かけても30分と立っていられない。「俺はもうだるくて働けない。先に帰る」と言って帰って、そのまま一日中、横になってしまうんですね。毎日そんな調子なので、家族は「あいつは広島に行って怠け者になって帰って来た」というわけです。仮病だ、怠けてぶらぶらしている、ぶらぶら病だというんで、それがだんだん広まっていって、そして被爆者自身もぶらぶら病と言うようになったんです。今、これは国際語になっていますね。

 被爆者に特徴的なことでもう一つは、あのにおいを知っている人ですね。日が経つにつれて、人が死んでいきます。町中どこでも焼いていましたから、人の焼けるにおい。それから物が腐ります。それが全部集まって、本当に息が詰まるようなにおいでした。あそこにいた人でないと分からない。ああいうにおいはどこに行ってもないですね。だから、「におったか」と聞いて、「ああ、ものすごかった」と言ったら、これは被爆者に間違いないですね。私はそれを目安にしています。

 私も被爆者ですから、この倦怠感というのはあったんですよ。それほどひどくはありませんでしたが、それに急性放射能症が出なかったんですね。でも4日目か5日目だったと思うんですが、何としてもだるくてしょうがないというんで、風邪引いたかなと思っていたんですが、九州から来た医者のグループが「広島ではこの男が一人頼りだから、この男を殺すとえらいことになる。こいつを何とかしよう」というんで、そのころ顕微鏡を持って来た病理の先生がいて、被爆者の血液に変化が起こっているというのが分かったんですね。それで輸血しようというんで、ずい分乱暴な話ですけど、若い兵隊さんと看護婦さんから、私はA型ですからO型とA型の人を集めて、小さな注射器に本当にわずかですが血液を採って、生注射してくれたんですね。1週間ぐらい続けましたが、全部集めても大した量ではありません。でも、それをしてもらったおかげで、倦怠感がすうっとなくなりました。だから、今はあの時輸血をやってなかったら、やっぱり私も急性放射能症を発病してたかなと思っています。

 そんなことで、証明はできませんけど、私に起きた被爆の影響がもう一つはっきりあるのは、骨に対する加齢現象です。40年ぐらい前に、非常に腰が悪くなって、写真を撮ってもらったら変形性脊柱症だと。これ、進むんですね。医者によると、「あんたは20年くらい年とった骨だよ」と言われて、手術もしましたし、一時、動けなくなって、車椅子に乗ったこともあるんです。

 それから不思議なのは、入市被爆者に案外急性症状が多いんです。実は2003年に初めて被団協で全国の入市被爆者と遠距離被爆者だけを選んで、アンケートを取ったんですね。裁判の資料にするというんで。そうすると、回答のあった約2300人の内の40%の人に急性症状とかがんがあったというんですよ。
 こういう人は被爆者手帳はもらっているけど、原爆症とは認定されなかった人たちなんですよ。被爆者手帳というのは、あの時に、原爆に直接被ばくしをした人、直爆っていうんですがそういう人や市内に2週間以内に入った入市被爆の人、2キロ以上の遠距離にいた人や援護などの作業をした人、それからお母さんのおなかにいた胎児だった人と、五つに分けて、国が原爆被爆者だと認めた人に出している手帳です。
 原爆症に認定されるのは、ほとんど直爆された人ですが、病気によって認定されると、手当てがもらえるんですね。でも、それ以外の人で被爆者手帳をもらった人たちの中には、アンケートにあったように、認定された人と同じような病気になって、大変な人生を送ってきているんです。それが僅かな距離や時間の違いで、どうして自分は認定されないのかと。さっきもちょっと話しましたけど、認定を却下された人々が2003年に集団で裁判を起こしたんですね。300人くらいで。私も大阪の裁判で証言しましたが、2006年に裁判所はこういう人々の症状を原爆のせいだと認めたんです。
 つまり、原爆に直爆されていない人も、放射能に汚染された水や食べ物、放射能の混じったホコリを吸い込んで、内部被ばくをしたんだと、それで病気になったんだと裁判所が認めた。原爆が落とされてから50年以上も経ってから、ようやくね。

 今は、被爆者手帳を持っている人の内でたった30分の1くらいしか、原爆症だと認められていないんですよ。
 この認定制度で問題になっている外部被ばくか、内部被ばくかについては、僕もつい最近までは、分けて考えていたんですが、考えてみると、直爆の人も全部内部被ばくを受けているんですよね。だから放射線被ばくというので、全体に共通するのは内部被ばくなんです。
 それを、国は現在の認定基準にこだわり続けて、内部被ばくや低線量被ばくについて考えようとしない。放射能があったかないかを厳重に分けて、一部の人だけ認定をするというのは、日本の政府にお金がなかったせいだろうと思います。いい意味にとればそうだし、悪い意味にとればアメリカが強制したと。アメリカは内部被ばくに害があるとなったら大変なことになりますからね。だから、私はそういう意味で、今の認定制度が敷かれ、それがたくさんの被爆者を不幸な目に遭わせたんだと思っています。

 アメリカは最初、爆弾という形で攻撃するんではなくて、放射能をドイツにまいて、ドイツ国民を大量に被ばくさせて、それでヒトラーを困らせるという考えがあった、という記録が残っています。ですから、原爆が放射能に重点があったことは間違いないと思います。巨大な爆発については隠しようがないから、公表しようが何しようが文句を言わない。一番隠したかったのは、時間が経って被爆者が放射能で病気になって死んでいくと、ここは隠したかったんです。だから、そのために被爆者に、まず見たこと、聞いたこと、自分の体験をしゃべってはいけないという、占領政策の基本のプレスコードで禁じたんですからね。これは医者や学者にも、被爆者のことを書いたり研究することを禁じたので、彼らも放射線被ばくについて何も知りません。だから今も日本の学会には広島・長崎の原爆について医学論文が一つもないんです。こんな国はありません。

 それから30年後の1975年に、国連に原水爆実験禁止を要請する国民の代表団に、私が被爆者として入れてもらえたんですね。それで国連に行きました。事務局長のクルト・ハイム氏に会って、生き残った被爆者が内部被ばくで苦しんでいることを訴えて、医師としての対応を知るために国際的なシンポジウムを開いて欲しいとお願いしたんです。
 すると、今言われた問題は国連としては受け入れられないと断られたんですね。どうしてかというと、1968年にアメリカと日本の政府が共同で報告書を出していたんです。そこには、「もう原爆の影響と思われる病人は一人もいない。死ぬべき者は全部死んだ。広島・長崎の被爆者に関する医学問題は、現在の日本には全くありません」という内容だったというんです。びっくりしましてね、その報告書をみせてもらったら、ちゃんとそう書いてある。
 これは、終戦直後の9月6日、まだマッカーサーが来る前に、「マンハッタン計画」の副責任者だったファーレルという軍人が来て、帝国ホテルで外国人記者を相手に記者会見をした。その時に、「ただいま広島からの電話で広島の状況は承知している。それによれば広島・長崎の死ぬべき者は死んで、現在、原爆の放射能で苦しむものは一人もいない」と言ったんですね。それと同じことが書いてある。アメリカは一貫して放射能の影響は何もないという報告をしているんですよ。

 でも、国連では私の言うことを嘘だとか間違いだとか言わないで、「何か行き違いがあったかもしれないので、あなたは帰国したら実態調査をしなさい。国連は国連で独自に調査する。来年両方の調査を突き合わせて、事実そうなら1977年に国際シンポジウムを開きます」と約束をしてくれたんです。
 そして、帰国後被爆者の聞き取り調査をしました。そうしたら、入退院を繰り返している、一日とて健康を感じたことは無いというのがいっぱい出てきた。翌1976年に、それをまとめてふたたび国連に行きました。国連の調査も同じだということで、次の年に国際シンポジウムが広島と東京で開かれました。東京の会に参加して、内部被ばくの問題としてぶらぶら病のことは書いて出していたんですが、そのことがまったく論議になっていないので、担当者を問い詰めたら、日本の原爆問題の第一人者だった広島大学の飯島宗一という、後に名古屋大学の学長になった人が、この問題に大反対したということが分かったんです。今では、当時の日本の医学界はアメリカの意向に逆らえなかったというふうに理解していますが、残念ながら、シンポジウムを開いたのは非常に意味があったけども、アメリカと日本が世界に向かって「放射能が体内に入っても、微量だから人体には何も影響を与えない。無害だ」と発表した。この時、内部被ばくを消してしまったことは大きな問題でした。でも、この根拠は何もないんです。
 2回の国連への参加などで、外国人で会う人の誰に聞いても、原爆が落ちたことは知っているけど、落ちた後、そこの人間がどうなったかということはあんまりよく知っていない。真実が伝わっていないわけですね。そういう意味で、外国に対してはもっと言わなければならないと思いました。

 私が、広島で人々に起きた不思議な病気の原因が内部被ばくだったこと知ったのは、1976年に国連に行った時にお会いした、ピッツバーク大学のスターングラス先生からでした。この人はアメリカのスリーマイル島という、一番最初にあった大きな原発事故のときに、4日かけて知事を説得して、妊婦と子どもを避難をさせた人で、放射線被害者の研究している人ですが、私が名簿に、広島の被爆者肥田で、ドクターと書いたんで興味を持って、後で呼び出されて、少し被爆の体験を話せと。話した後で先生の本をもらって、その本の説明をするときに、いろいろ話してくれました。
 要するに、「放射線というのは、あなたは広島では外から浴びたのを見ていると。しかし、放射線の害というのは体の中に入った内部被ばくの方が恐いんだよ」とか、「広島でABCCがやった被爆者調査の方法には大きな欠陥がある。学問として正しくない」というようなことを言われました。

 この時に、先生の『低線量被曝』という本をもらって、帰りの飛行機の中で、その本を読みはじめて、びっくりしました。核実験のあった年に生まれた赤ん坊の死亡率が上がることや大きい核実験のあった年に生まれた子どもの、大学の入学試験の平均値が下がること、放射能が脳の発育にも影響することなどをまとめて発表していたんですね。
 やっと、自分がいろいろと疑問に持っていたことの最初の1ページが開けたという感じがして、この本を訳さなければいけないと考えたんです。これが1979年に時事通信社から出た『死に過ぎた赤ん坊』という本です。

 先生が話されたABCCというのは、日本語にすると「原爆傷害調査委員会」ですが、ここは1947年に、核戦争に備えるためにアメリカ軍が作ったもので、検査はするが治療はしないと最初から言ってました。2キロ以内で直爆した人だけを集めた。内部被ばくによる影響を隠そうとしたんですね。
 被爆者の遺体を解剖して臓器を取り出し、本国に持って帰ったことから、日本で臓器を返して欲しいという声が高まって、1973年になって臓器が返されたんですが、その臓器から、何と、プルトニウムが放射線を出している様子が写真に撮られました。2009年のことですが、長崎大学の七條和子さんのグループが調べたんです。被爆から60年以上経った今も、放射能が細胞の中で放射線を出し続けていることを世界で初めて確認したんですね。私はこれは内部被ばくを解明する手掛かりになるのでは、と期待しています。

 それから、ボストンのドンネル・ボードマンという開業医の方ですが、アメリカで被爆兵を一生懸命診るということで評判になった人です。そして若い医者に、こういうことに注意しろという立場で、『放射線の衝撃』という教科書を書いたんです。
 私が書いて国連へ出したぶらぶら病の報告書を彼に渡したら、彼は台所にいてそれを読んでいて、暫くしたら「万歳」って大きな声を出しながら、「ここにおれの考えたことが書いてある」って言うんですよ。それで、話が合った。彼が診てきた被爆米兵の中の特徴の一つに、ぶらぶら病のような症候群があると。それがみんなに分からないんで困っているんだという。

 被爆兵士というのは、アメリカは核実験をするたびに、周辺に兵隊を連れてきて、爆発させて、この爆弾の性能だったら、どれくらい経ったら野戦で戦いが出来るかというんで、突撃練習とか機関銃の射撃をやらせたんですね。残虐な国だと思います。完全な人体実験なんですよ。
 それで被爆をした兵隊さんが何年か経ってから、病気が出てくると。それが当時のアメリカで大きな問題になって、今の劣化ウラン弾で起きた湾岸症候群と同じ状態が起こっていたんです。でも、当時、政府は一切これを伏せました。医師にも伏せるし、米兵は完全に孤立したんです。みんな一人ひとりで裁判をやったんですが、原爆と関係ないと言われて泣き寝入りをさせられたという、そういう時に彼らの味方に立った医者なんですね。

 あと大きな影響を受けた外国文献は、『内部の敵』という本です。アメリカの白人女性の乳がんが50年間に2倍になった、という公式発表があったんですが、これを聞いてアメリカ中の女性が心配して、政府にどういう訳かという運動が起きて、政府はそれに対して、非常に詳細な回答を出したんです。
 今、がんが増えているのは、石油産業とか薬品工業とか、そういう新しい文明のために起こる大気汚染で、これはやむを得ないことなんだ、と発表したんです。
 そうしたらグールドという統計学者が、専門家ですから、政府が使っている統計はかなりこれはインチキだと。要するに改ざんされている、というのを見つけた。アメリカには全部で3,053の郡があって、50年間の乳がんの統計を全部集めてコンピュータに入れて、増えているところ、減っているところ、横ばいのところをを出して、なぜ、そうなるのか、あらゆる共通項を検討した。残ったのが原子炉から100マイル以内、つまり160キロ以内にある郡だけが高くなっていると。原発から出るフォールアウトによって、乳がんが4倍も増加したことを発見したんです。そして横ばいか下がっている郡は、全部160キロの外にあると。ですから明らかに原発から出る放射能の影響でがんが出るということを、統計上明らかにしたんですね。彼は学者ですから、その統計の誤差なども全部出して、学問的に耐えるものとして世の中に出したんです。この本も私が翻訳しました。

 あと『死にいたる虚構』というのは、この本の前に彼が出した本ですけど、その中で教わったのは、ペトカウ効果です。カナダのホワイトシェル研究所の学者で、アブラム・ペトカウという人が発見したことです。私は、このペトカウ効果というは、今世界中で放射線の人体に対する影響というのを考えて行くうえで無視はできない、非常に大事な要素だと思っています。
 彼は放射線で細胞を破壊する実験をしていて、ある日、実験材料を水の中に落としたんですね。そして水の中に落ちているのを、今度は水中で、非常に弱い放射線を長時間かけてやったら、あっさり壊れた。彼は偶然成功したんですね。強烈な放射線ではなく、弱い放射線をゆっくりかけると、人間の細胞の膜が壊れるというのを実験で出したのが、ペトカウなんです。
 人間の体は、ご承知のように70パーセントが水ですからね。そういう液体の中に組織があって、そこに入ってきた放射能がくっついたら、そこで放射線を長時間出しますからね。長時間放射線を浴びると細胞膜に変化が起こって、そして発病していくというのは、体の外から瞬間に浴びる外部被ばくとは全く違う働きです。これが外部被ばくと内部被ばくの決定的な違いです。どちらも致命的被害を及ぼすことに変わりはありませんが、内部被ばくの方がはるかに影響が大きいんですね。

 でも、ペトカウ効果は公にはまったく論議されていません。どうしてかというと、この結果が世に出ると困る勢力がたくさんありますから。ボードマンさんが本に書いていますが、ペトカウ効果によって、弱い放射線の内部被ばくが危ないという理論を認めると、原子力の利用が不可能になりますから、だからものすごい勢いで彼に圧力をかけ、研究所も閉鎖したんです。
 原爆のような直接放射線を外部被ばくした被爆者というのは、あっという間にあらゆる臓器を全部破壊されたんですね。だから当然、激しい症状を起こして、ほとんど二、三日の内にどんどん死んだんですけどね。
 しかし、逆に害はないないと言われていた、体内に入った低線量の放射能が、何年も何十年も被爆者を苦しめる。その時即死させるんじゃなくて、生きていれば生きているほど、結婚をためらう、子どもを産んでいいかどうか、学校へ行くかどうか、悩む。一切の人生に、全部自分が被ばくしたことを当てはめて苦しむと。これは本人の責任じゃなくて、原爆というものから生まれたものです。だから、原爆がいけない理由の中に、直爆だけじゃなくて、放射能を知らないで吸い込んで内部被ばくをしても、そういう被害が起こるということを、私はくどいほど言うんです。 (次回につづく)


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