【コラム】酔生夢死

蔣介石と周恩来

岡田 充


 森の坂道を登ると二階建ての建物が視界に入った。グレーの煉瓦造りの瀟洒な家は、中央の玄関を挟んで左右対称、山荘のようにみえる。玄関脇のフラワーボックスには草花が植えられている。一階の窓から中を覗くと、書斎風の部屋やベッドルームがあるが家具はなし。生乾きのコンクリートの臭いがする。まだ完成していないのだろう。

 中国湖北省にある武漢大学の広大なキャンパス内にあるこの建物は、蔣介石・中華民国総統が宋美齢夫人とともに住んだ旧居だという。蔣が住んだのは1937年末から10カ月余り。日本軍によって南京が陥落させられた後、重慶に遷都するまで武漢が臨時首都だったのだ。蔣はここで抗日戦争の戦略・戦術を練った。建物は修復中で公開されていない。

 国民党と共産党といえば宿敵のように見なされるが、そうではない。当時は抗日戦争を戦うための「国共合作」、つまり協力関係にあった。そもそも両党は、ソ連共産党の指導でつくられた「双子」のような関係にある。父親はレーニン。双子だから党の組織論や、党が国と軍を指導する統治論は瓜二つである。

 後に中国首相になる周恩来は、この武漢時代には「国民政府軍事委員会政治部」の副部長として蔣介石の補佐役を務めた。周の宿舎は、蔣旧居を下ってすぐの森の中にある山荘風の建物でこちらは公開されている。蔣介石と約10歳年下の周恩来は「恩讐」という言葉にふさわしい関係にある。時に対立し時には協力する「兄弟」のようだ。

 二人は浙江と江蘇というお隣同士の出身。青年期の経歴はよく似ている。蔣は1907年日本に留学し、日本陸軍に入った。周も10年後に日本留学して明治大学に学ぶ。ただ勉強のできは芳しくなく、日本語は片言しか話さなかった。蔣が24年、中国初の軍事アカデミー「黄埔軍官学校」の校長に就任すると、周は後を追うように同校の政治部副主任になった。

 「対立」のほうはもっとドラマチックである。周が26年上海で武装蜂起に参加すると、蔣が率いる軍隊に捕らえられ、処刑寸前に脱出し一命をとりとめた。10年後の36年、今度は「西安」で、劇的再会を果たした。抗日戦争の決断を渋る蔣が西安で拘束された「西安事件」に、周は調停役として共産党から西安に派遣されたのである。抗日戦争に踏み切る説得は成功するのだが、周は蔣に会うなり「校長、お久しぶりです」と挨拶したといわれる。

 蔣旧居があるのは、東湖を望む「珞珈(ろか)山」の中腹。蔣は38年3月末、旧居から歩いて20分ほどにある大学本部(現在は行政楼)にある礼堂で「抗戦の目的は日本帝国主義の侵略に抵抗して国家民族の滅亡を回避すること」という有名な「抗戦建国」方針を発表した。周は演説に先立っておそらく、蔣の家に足繁く通い演説草稿について話し合いを重ねたに違いない。

 二人は、時には山道を仲良く散歩しながら、様々な話に花を咲かせたのではないか。留学経験のある日本や東京の話。軍事アカデミーがあった広州の思い出。さらに故郷の料理自慢をしたかもしれない。よく似たお国訛りで言い合いをしたかもしれない。二人が好きだった料理に「獅子頭」がある。大きめのミートボールを甘辛い醤油で煮込んだ浙江料理の名菜。周が通ったとされる中華料理屋が今も神田・神保町にあるから、一度「獅子頭」を試してみてはどうか。

 (共同通信客員論説委員)


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