■ 農業は死の床か。再生の時か。        濱田 幸生

~減反・この日本農業の宿痾 その1 

        自給率向上を唱えながら、米を作らせない不思議~
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◆◇
  春の番組改編期には「世にも奇妙な物語」という私の愛好番組がありますが、
この中の一編にぜひ入れて欲しいものが「米を作ることを制限しながら唱える自
給率向上運動」ですね。
うん、なんか変でしょう?あまりにも長きに渡って日本人がやってきたので、こ
の奇怪さに鈍感になってきています。

 大昔、1970年代の最初の年だったですか、まだ高3だった私は、千葉県成田市
に国によって破壊されかかったある村を訪れました。思えば、これが私の初めて
の農業との出会いとなりました。その時に出会った若い農民たちは、農民放送塔
という拡声器を取り付けた丸太の塔をぶっ建てていたのです。
  それの手伝いをしたのですが、その時に農村青年たちが熱く語っていたのが、
こんないい農地に勝手に誰の相談もなく空港を建てることを強要する国の姿勢の
おかしさに並んで、減反に対する煮えくり返るような怒りでした。当時ゲンタン
なんて単語すら知らないヒヨッコの私に、この芝山の若い農民はこう話してくれ
たことを思い出します。

 「2割減反を国が勝手に決めて、集落請け負いにして締めつけて来る。イヤだ
と言えば、親戚が来る。一緒に用水を使っている隣組も来る。言うことは一緒だ
。な。ぁ、モンチ(強情)言わねぇで、皆に従ってくんろ、だ。冗談じゃねぇ、
2割毎年減反してたら5年でなくなるっぺって追い返した。減反を飲むような奴
は、農業したくない奴だから、そいつらから空港賛成に崩れていったっぺさ」

 そう言って彼らは陽気に建てたばっかりの丸太の農民放送塔に大きな垂れ幕を
ブラ下げました。それはアンポ粉砕でもなければ、空港反対ですらなく、「減反
を日本農民を代表して突っ返す」という内容でした。この垂れ幕の檄は大きな反
響を呼び、全国各地の農民がテレビの前でやんやの拍手を送ったそうです。

 その後に、残念ながら空港反対闘争は左翼過激派に乗っ取られたようになり、
このような生々しい農民の怒りは次第に消えていき、空疎な政治スローガンばか
りとなって行きました。当時から50年、すでに半世紀有余の時間、日本農業は
「減反」という世にも奇妙な農政に支配されて変質を遂げていったのです。

 自給率の向上を唱えながら、「米を勝手に増産するな。手を抜け」と言う奇怪
さにいいかげん日本人は気がつくべきです。一方で、「米を食べることが自給率
の向上だ」という食育を提唱しながら、一方で農家に「米を勝手に増産するな」
と世界最大の農業生産カルテルを他ならぬ国が強制する矛盾を直視すべきです。
私は戦後農政の最大の失政は、減反にあると思っています。日本の農家のやる
気を削ぎ落とし、ただ作れば国が全量買い上げてくれるような張りのない農業に
してしまったのも、この減反というまさに悪政が根っこにあります。

 転作奨励でうまい汁を吸う習癖を農民に教えたのもここが始まりです。一年に
10日間に満たない米作りで農家を名乗っていて、実態は市役所やJA、あるい
は町場の勤め人をしているような「本籍農家、現住所勤め人」という奇妙な兼業
をはびこらせたのも、この減反政策が原因でした。


◇◆人を殺すには刃物は要りません。人としての仕事の誇りを砕けばいいだけで
す。


 日本農民は、かつて自分たちが泥にまみれで作ったこの米こそが同胞を食わせ
ているという誇りを打ち砕かれ、半世紀の時間をかけて減反制度の中にちんまり
と安住し、補助金に寄生する「半農民」に徐々に成り下がっていったのでした。
このようにして日本農民は脱け殻になりました。それを日本は国家規模でやって
しまった。なんと愚かな!なんと取り返しのつかないことを!

 よもや21世紀まで続くとは思えなかったこの減反政策は、未だ強固であり、
いくどとなく微修正をかけられながらもなくなる様子さえみえません。かくして
、日本農民はWTOのラウンドごとにJAに動員されて「農と食の安全を守れ」
と書かれた鉢巻きを締め、ムシロ旗を上げて東京都心を行進します。

 唱えている「農と食の安全を守れ」というスローガンは、都市の生活者とまっ
たく変わらないものですが、内容は大きく違います。JAがそれを言う時の中身
は「WTOでコメの高関税を維持しろ」ということ、その一点に尽きます。コメ
に700%強という世界最高のウルトラ高関税をかけないと、日本の農業は潰れ
るというのが農水省とJAの主張だからです。

 そしてこの高関税をかけるいわばペナルティとして、WTOでMA(ミニマム
アクセス)米を押しつけられていることに触れようとしません。あのような食べ
ることも出来ない毒米を、巨額の税金で外国から買い付け、100億円にも登る
保管料を毎年支払っている現実を糊塗するために、「日本の農と食を守れ」など
という奇麗事を唱えているに過ぎないのです。

 そして今年のWTOの予想される妥結内容は、今までのMA米に更に大量の上
乗せをして120万tともなるMA米を買い込むことが条件づけられています。
教えていただきたい、仮にこれが「日本農業を守る」条件なら、こんな日本農業
など誰が欲しますか?

 大丈夫です。日本のコメ作りは仮に高関税を廃止しても続きます。絶対に潰れ
ません。むしろ強くなり、美味しくなり、より安全になります。そのことはかつ
て記事でも検証しました。むしろ減反があることが足かせとなって日本農業をダ
メにしているのです。


◇◆なぜ谷津田は捨てられたのか?オジィの証言


  かなり昔の話ですが、ある宵のこと、私の田んぼのお師匠のジイ様と酒を酌み
交わしたことがあります。この田んぼの師匠には前にもご登場願ったことがあり
ましたね。


◇◆*旧記事「湧き水の教え」


 わが村だと、鯉の甘露煮や野菜の精進揚げ、漬け物などで、ジィ様の田んぼの
宵など眺めながらチビチビやるわけです。見上げる長押(なげし)の上には賞状
がズラリ。この賞状とご先祖様の写真、ついでにいえばいろんな所から貰った美
人カレンダー各種が、農家の居間の飾りの定番ですね。

 さて、このズラっと並んだ賞状ですが、孫の書道展の優秀賞から嫁さんのカラ
オケ大会準優勝まで幅広くあるのですが、その中でひときわ立派大型なのは県知
事から頂戴したという大きな額でした。かなり古いもので、昭和20年代だったで
しょうか。「貴殿は水稲の生産増加に寄与され、右のごとく優秀な成績を収めら
れたことを表します。ウンヌンカンヌン」

 茶碗で冷や酒を飲みながら、その県知事の表彰状に話を向けると、ジイ様はち
ょっと得意そう。しかしなぜかフンという顔をします。なんだこの複雑そうな表
情は?ヒヨッコ百姓としてはビビるぞ。
「ああ、あれか。オレの米作りの腕がこの地方一だったで、貰ったもんだぁ。作
れ、作れ、増産して飢えさ追放しろって、お上からハッパをかけられてた時代だ
っぺよ。工夫して、工夫して、毎晩水回りをして、朝一番に田んぼに行って、腰
がまがるほど働いて米サ作っただ。金肥(化学肥料)も農薬も機械もなかった頃
だぺよ。稲刈りが終わると、隣組で集まって一晩中飲んだもんだぁ、楽しかった
ぁ」

 「今は作らねぇとよく生産調整に協力したと賞状をもらっちまう始末だで・・
・オレには考えられねぇこったよ、作らねぇほうが、褒められるんだべ。作ると
怒られる。腕がいい百姓も、下農(*げのう・だめ百姓のこと)も同じだけ面積
を減らせと言われる」

 「あの減反以来、オレはもう米さやる気が半分失せた。息子も大きくなったし
、米はみんな任してしまった」と最後はいまいましげに語って、冷や酒をグ
ビリと一口。タクワンをボリっ。ジィ様、歯はいいのです。
ちなみに、息子さんもちょっと顔を出しました。彼は市の職員です。とてもかん
じのいい温厚な方ですが、もう農家臭はありません。米だけであとは農業に関わ
っていません。ネクタイが似合う実直な勤め人といった人です。消防団をやっと
お役御免になったと嬉しそうにしていました。消防団の現役の頃は、出火となる
と、職場にいても緊急動員がかかり、上役にペコペコ頭を下げながら、消防車に
ふっ飛んでいたのだとか。

 今になると、ジイ様が私のようなわけのわからない都会から来た文無しの若者
を面白いと思った気持はわかります。当時誰も村でやりたがらなくなった田んぼ
を、いやむしろ重荷のようにさえ思われていた田んぼを、こともあろうに鍬一本
で開拓しようという無謀さ、ハッキリ言ってバカさかげんが気に入られたのでし
ょう。それにかつての自分を重ねていただいたのかもしれません。ありがたいこ
とです。当時既に、こんなバカは村で死滅しつつあったようですから。

 さて、かつての農家は、先祖代々の畑を増やすというのが勲章でした。少しで
も土地を買い増すと嬉しくて祝宴を張ったそうです。だから、とんでもない里山
の奥の奥まで、樹を切り、抜根(ばっこん)し、泥だらけで耕して、耕して何年も
かけて谷津の田んぼにしたものでした。更に言えば、その里山に植樹したのもご
先祖様ということになります。

 しかし、このようなところは大体が大型機械が使えないわけです。耕運機がや
っと。それもフネ(*耕運機の両輪にタイヤ代わりにつける幅の広い水田用車輪)
をつけてやっとの所が大部分でした。ひどい場所では泥が腰まで来るような猛烈
な深田もありました。こんな所まで、日本の百姓はコツコツと耕して水田に変え
ていったのです。

 しかしある時代、1970年前後の頃を境にして、国の方針が大転換しました。そ
う、減反です。食管財政が逆ザヤになっていることを理由に、一転して「作らせ
ない米作政策」に変わっていったのでした。

 このような谷津田は徐々に捨てられていきました。まだそこを拓いた当人がい
るうちは意地でも耕作していたのですが、代が変わるともういけない。労力に合
わないために、減反対象のやり玉に上げられて真っ先に捨てられていきました。
水田も集約化され、ため池からパイプラインで一挙に結ばれるという基盤整備が
進んでいきます。
  用水から田んぼまで段差があるためにメダカが田と小川を往復できなくなり、
激減していきます。兼業化のための労力削減で農薬使用量も増加し、アキアカネ
(アカトンボ)やカエルが姿を消していくようになりました。水田はかつてのよう
に、様々な生きものが生れ、育っていった生物種多様性の王国ではなくなり、単
なる米の生産基盤に変化していきました。

 今、問題となっている38万6000ヘクタール(2005年農業コンサス)と言われる不
毛な全国の耕作放棄地は、このようにして生れたのです。耕作放棄地をそれだけ
でとらえようとしても理解できません。農村の高齢者問題もそれだけではつかめ
ません。里山の荒廃、生きものがいない沈黙の春の問題もそうです。

 これらを一つ一つ取り出しても解決できません。それらの問題点は互いに因果
関係をもっていて、一点で収束している箇所があります。 それが減反なのです
。減反問題を避けて、現代日本の農業や農村の現在と未来を語ることは出来ない
、そう私は思っています。
                (筆者は茨城県在住・農業者)

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