【コラム】『論語』のわき道(52)

考える

竹本 泰則

 将棋界では王座戦(第71期)の競技が8月31日から始まっています。
 斯界の八大タイトルのうち、すでに「王座」位以外の七冠を獲得している藤井聡太さん(21歳)と現在の「王座」保持者である永瀬拓矢さん(31歳)との戦いです。将棋ファンはもとより、多くの人々が関心を寄せているようです。
 将棋については初歩的なルールを知っている程度ですが、何かにつけて「史上最年少」といった形容詞がついてまわる藤井七冠の快進撃には感心しきりです。
 ところで、この藤井さんは長考派と言われているようです。昨年の「王将戦」では相手が打ち終えてから自分の手を打つまでに148分も考えたことがあったそうです(プロになってからの最長考慮時間とのこと)。集中力も持続力もろくに持ち合わせない身からしますと、一つのことをそんなにも長く考え続けられることに呆れる思いです。
 驚いたことにもっとすごい記録がありました。2006年の「順位戦」と呼ばれるリーグ戦で5時間24分という大長考があったそうです。このリーグ戦では持ち時間が6時間なので、そのほとんどを一手につぎ込んだわけです。そのあとはじっくり考える間もなく、秒針に追いかけられながら打ち続けなければならなかったことでしょう。
 将棋に持ち時間制が採用されたのはおよそ百年前の大正14年だそうですが、それ以前は時間制限なし! 江戸時代のお城将棋では決着がつくまで徹夜でも数日かけてでも延々と指していたといいます。さぞ、お疲れのことだったでしょう。

 将棋・囲碁などに限らず、考えるということは誰もがしょっちゅうやっています。人間とは四六時中考えている動物ではないでしょうかね。その中身は「昼は何を食べようかな」などといった、およそどうでもいいようなことであっても、何かにつけ考えている。「考える葦」と比喩されるのもむべなるかなです。
 日常的な行為を意味しており、字形も複雑ではないからでしょう、「考」は小学校二年生で習う漢字です。
 ところが、「考」の字を『論語』に探しても見つかりません。孔子をはじめ一門の人々が考えなかったはずはない。それどころか、生き方や礼節などといった高尚なことについて日々まじめに考えていたと思うのですが、「考」の字は出て来ないのです。
 「考」を辞書(『漢辞海』/三省堂)でひくと、最初に出てくる意味は「ちち(父)」、それも死去した父となっています(まれに存命の父もいうとも)。さらに、この漢字の部首「耂」はおいがしら、おいかんむりと呼ばれ、その仲間としては老や孝などが含まれます。常用漢字の表外ですが耄碌(もうろく)の耄などもこの部首です。つまり年を取った人にかかわる文字の一つでした。
 ちなみに(死去した)母親には「妣(ひ)」という字があり、二つを合わせた考妣(こうひ)という熟語は『広辞苑』に見られます。しかし、こんな言葉は聞いたこともありませんし、ほとんどの人には通じないだろうと思われます。

 「考」がなぜ「かんがえる」という意味の字なのか……?
 この「考」の字と同じ発音で「かんがえる」を意味する字は別にあったそうです。どういう理由からかわかりませんが、その字に代わって「考」が使われるようになったらしいのです。その時期がいつごろなのか、孔子の時代とは重ならないのかといったこともよくわかりません。
 『論語』で「かんがえる」という意味でつかわれる漢字は「思」です。ほかに「慮」も見られますが、登場回数は少なく主流は断然「思」です。十一章に二十六回現れます。
 それぞれの章の現代語訳を岩波文庫の『論語』(金谷治訳注)で拾うと、かんがえるが六章、おもうが四章です。残り一章は「(人を)慕う」でした。
 かんがえると訳されるものとしては次のような例があります。

 学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。
 思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし

 前半の文にある「罔」は「ぼんやりしたさま」をいう字。「いとへん」をつけると網になりますが、「忄」がつくと惘。惘然はボウゼンと読み、茫然あるいは呆然と同じです。また、「鬼」がつくと魑魅魍魎(ちみもうりょう)の魍になります。
 後半の文の「殆」は中国でも古い時代から解釈が分かれる厄介な字です。独断に走り危険という意味に解釈するのが朱子(1130~1200)。これだと訓読みは「あやうし」となります。一方、紀元241年にできた『論語集解』では精神が疲弊すると解釈し、それに従えば「つかる」と読むことになります。もう一つ、疑惑は解けないと解するのが清の時代の王引之(1766~1834)です。訓読み「うたがわし」です。
 七面倒な解釈はおくとして、文意は書籍や先生を通じて外の知見を得ること、自分の内で思考して理知を蓄えること、そのどちらも重要であることをいっているようですが、ほかの章ではこんなこともいっています。

 吾れ嘗(かつ)て終日食(く)らわず、終夜寝(い)ねず、以て思う。
 益なし。学ぶに如(し)かざるなり

 わたしは以前に一日中食事もとらず、一睡もせずに考えたことがある。
 しかし、無駄だった。学ぶことには及ばないね

 同様の趣旨を日本語文で書くとなれば「思う」ではなく「考える」とするところでしょう。こんな具合に、『論語』の世界では「おもう」も「かんがえる」も「思」の一語で済んでいます。
 英語においても「考える」、「思う」のどちらもthinkが基本だろうと思います。ちなみに、ロダンの彫刻「考える人」の英文表記はThe Thinkerだそうです。
 現代日本語でも「思う」と「考える」とは意味的に重なる場合が多いと感じられます。「こうしたいと思う」と「こうしたいと考える」……どちらも言えます。しかしなんでもそうだとはいかない。たとえば、「ちょっと考えさせてください」といったような句では「思」は使えません。
 
 なぜ日本語では「考える」と「思う」と別々の言葉があるのか、考えてみると不思議です。
 それを解き明かしてくれる説にも巡り合っていません(これは浅学のゆえかも知れませんが)。思いついて、古語辞典で「考」と「思」の意味合いを検討してみました。
 「思」の方は現代とあまり隔たりを感じませんが、「考」は大きく違います。
 岩波古語辞典の「かんがへ」の項における意味は
 ①調べただして、罰を与える、
 ②占いの結果を取り調べて解釈する、
 ③比較考量する、
の三つでした。

 念のため開いた旺文社の『全訳古語辞典』(第三版)では
 ①調べ考える、判断する、
 ②責めしかる、罪を問いただす、
となっています。

 どうやら昔の日本人は「考える」と「思う」とをすっきりと区別していたのではないかと想像されます。確たる根拠があるわけではありませんが、両者の概念といいますか、考えとか思いが意識に浮かび上がる、その「ありよう」の違いだと思うのです。具体的にいえば、胸中で自然に発生した(あるいは、発生する)のが「思い」。占いであれ、情報であれ、科学的な事実であれ、それを使って自らが筋道立てて作るのが「考え」ではないかと思うのです。
 「かんがえる」(古語で「かんがふ」、「かむがふ」)は源氏物語や枕草子といった散文にはあるようですが、「うた」ではどうでしょう。そちらの方面には暗いせいもありましょうが、全く浮かんでこないのです。
 近代以降の小学唱歌や昭和以前の流行歌の類について記憶をたどりました。
 「春は名のみの風のさむさや 谷の鶯 歌は思えど」、「夏が来れば思い出す」、「思いやる八重の汐々」、「とまるも行くも限りとて かたみに思う」、「思えばいと疾し この年月」……「思う」はぞろぞろ出てくるのですが古歌と同様「考え(る)」は一つとして浮かびません。

 「かんがえる」「おもう」という二つの言葉は意味的に区別され、感覚的、情緒的な領域では「おもう」、理論的あるいは根拠・筋道をもって組み上げるような領域では「かんがえる」といった具合に使い分けられていた。それがいつのころからか、使い分けの基準が次第に曖昧になってゆき、現代では「かんがえる」の方しか使えないというケースが消えつつあるのかもしれない。そのように思って(考えて)います。

(2023.9.20)
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