【自由へのひろば】

追悼碑訴訟 朝鮮人強制連行犠牲者第一回公判とその背景

仲井 富


●はじめに

 昨年8月のオルタ第128号で「群馬県の朝鮮人慰霊碑撤去に反対する85歳の抵抗—猪上輝雄事務局長に聞く—」で紹介した慰霊碑撤去問題で、その後の大きな動きとして「取り消し訴訟」が起こされた。その第一回公判(2月4日)における、原告陳述書が送付されてきた。今各地で戦争中の朝鮮人、中国人の犠牲者にたする追悼碑撤去の動きが一斉に出てきている。見過ごせない危険な動きに対して、法廷でその誤りを問う初の裁判として注目される。

 群馬県の朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑をめぐり、県が設置更新を不許可にしたことに対して、碑を管理する市民団体、「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会が、県に処分の取り消しを求めた訴訟の第一回公判が2月4日開かれた。高崎市の県立公園「群馬の森]にある朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑をめぐり、群馬県が設置更新を不許可にしたのは表現の自由の侵害に当たるとして、碑を管理する市民団体が県に処分の取り消しなどを求めた訴訟の第一回口頭弁論が2月4日、前橋地裁(大野和明裁判長)で開かれた。
 原告側は意見陳述で「県は表現の自由を無視した憲法違反をしている」などと主張し、県側と争う姿勢を見せた。そして「友好」の追悼碑を守る会(前橋市)の猪上輝雄事務局長が、以下のような原告側陳述を行った。弁論では、原告弁護団事務局長の下山順弁護士が意見陳述し、「公園は表現にとって重要な場所。碑の前での市民の発言も表現の自由として保障される。不許可は表現の自由を弾圧し、侵害するから違憲だ」と指摘した。被告側の県は答弁書を提出したが、報道陣に公表しなかった。そして原告団体は「当事者の適格を欠く」と訴え自体の却下を求めた上で、請求についても棄却を求めた。

 安倍内閣の九条を含み憲法改正の動きが活発化しているが、ヘイト・スピーチをはじめとして「大東亜戦争は正義の戦争であり侵略や虐殺はなかった」、「中国や朝鮮からの強制労働はなかった」あるいは「関東大震災での朝鮮人虐殺はなかった」などという、戦前戦中の歴然たる事実を、公然と否定する言論がまかり通っている。安倍晋三首相の側近である萩生田光一・自民党総裁特別補佐が「日本には戦犯が存在しない」と話したと産経新聞が2月12日報道した。萩生田特別補佐は前日、ある講演で「日本では国会の決議によって戦犯の名誉回復され、もう存在しない。戦勝国もこれを認めた」と強調したそうだ。産経新聞には抗議が殺到しているという。
 戦後70年にして、ようやく「平和憲法」の根幹を問う国民投票が現実のものとなっている。戦後に生まれた世代が70歳になろうとしている現在、一人一人に、この国の憲法を今後どう守り発展させて行くがが問われる季節となった。
 以下は第一回公判における原告団代表猪上輝雄事務局長の意見陳述全文である。

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意見陳述  原告団代表 猪上 輝雄

◆強制連行とその背景

 1895年、下関条約で台湾を植民地とした日本は1910年、独立国だった大韓滞国を「併合」し、地図の上から消してしまいました。ソウルに置かれた朝鮮総督府を通じて、土地調査事業や産米増殖計画で朝鮮人民の富を奪い暮らしを破壊し、日本語強制。創氏改名。神社参拝強要など「内鮮一体化」の名目で朝鮮の文化を奪っていきました。さらに、アジア太平洋戦争が激化する中、1939年から敗戦にかけて、朝鮮人や中国人を無理やり日本国内に連行しました。それは、中国はじめアジア各地に、侵略戦争のために送り出した日本の若者たちに代わる労働力として、鉱山や土木工事、軍需工場などで働かせるためでした。これを「強制連行」と呼んでいます。
 彼らは、突然住み慣れた故郷から日本へ、家族と引き離されて連行され、食事も満足に与えられないまま、昼夜を分かたぬ危険で苛酷な労働を強いられました。このような朝鮮人労働者の数は、日本全国で100万人を超えたと言われています。日本政府と軍部は、1938年4月、「国家総動員法」を制定し、戦争遂行のために日本人の人的物的資源を総動員すると共に、1939年9月には「朝鮮人労務者内地移送に関する件」を閣議決定し、朝鮮からの労働者の動員を開始しました。
 朝鮮人の動員は、最初は「募集」、次は「官斡旋」、後には「徴用」という名称で行われ、つぎつぎと強制力が強まっていきました。しかし募集」であれ、「官斡旋」であれ、「徴用」であれ、すべてが朝鮮総督府を通じての割当て、指名、そして最後は「人狩り」といわれた強制連行で、行政、警察、軍隊などが介在して行われました。この歴史的事実の存在を無視して、「強制連行はなかった」「朝鮮人は皆自主的に日本にやってきた」などと主張する人たちは、日本人が加害者であった歴史に、あえて目をつぶり、歴史の事実をねじまげる過ちをおかしているといわねばなりません。

◆追悼碑建立運動と群馬における強制連行・強制労働

 1995年に「戦後50年を問う群馬の市民行動委員会」(略称アクション50年)が結成され、この会が追悼碑建立運動の出発点となりました。戦後50年の歩みをふりかえり、戦前50年の日本の歴史を見つめ、過ちを繰返さないために、市民の一人として出来ることをしようというのが、その動機でした。1995年3月に結成集会を持ち、県内各地で侵略戦争写真展を開催、明治以降の日本のアジア侵略の事実を、写真や資料で市民に訴えました。同時に、県内における朝鮮人強制連行と強制労働の実態について、生存している被害者や研究者の話を聞くと同時に、文書館などの資料や強制連行。労働現場などで調査してきました。その中で明らかになったのは、強制連行の事実が隠され、大勢の朝鮮人労働者がこの地に強制連行され、過酷な労働を強制され、犠牲となった事実がほとんど知られておらず、慰霊碑や追悼碑のひとつも作られていないということでした。これらの強制連行犠牲者を追悼し、あわせてその事実を伝え、正しい歴史認識を確立し、アジアの民衆との友好と連帯、真の平和の実現に役立てていこうと、アクション50の呼びかけで、1998年9月、追悼碑を守る会の前身、建てる会が発足し、追悼碑建立運動が出発しました。
 1999年2月には、このような活動の成果をまとめて、「『消し去られた歴史』をたどる—群馬県内の朝鮮人強制連行」というパンフレットを発行しました。
 以下、調査を通じて明らかになった県内の主な強制連行、強制労働の現場をあげて見ます。

 群馬鉄山(吾妻郡六合村) 480人(出典。鋼管鉱業30年史)
 吾妻線工事(渋川一長野原一太子)1,110人(出典。関係各市町村史。誌)
 岩本発電所導水トンネルエ事 1000人(出典。間組百年史)
 中島飛行機後閑地下工場建設工事 1,000人(出典。同上)
 中島飛行機薮塚地下工場建設工事 1,000〜3000人(出典。太田市史)
 堤ケ丘飛行場建設工事 500人
 中島飛行機多野地下工場建設工事 500人(証言多数)

 このほか、数多くの現場が、県内各地に存在しました。これらの現場に朝鮮人労働者がどのようにして連行され、どのような労働を強いられたのか、かれらの日常がどのようなものであったのか、今では、生存する被害者から直接体験を聴取することができなくなっています。
 しかし、私たちの調査時にはまだ生存し、証言された被害者の方々や、ジャーナリストや研究者がまとめた記録、わずかに残された連行企業の社史や市町村史の記録や公文書からも、実態をうかがい知ることができます。ここで、私が直接伺った証言のいくつかを、一部だけ伝えさせていただきます。
 大間々町に住んでいたSさんは、「私が連行されたのは1941年。出発の日、母親は『悲しくて見送れない』と言い、家から出てこなかった。連れて行かれれば、もう二度と帰って来ないと誰もが思っていたし、拒否すれば、刑務所行だったから」と、当時を振りかえっていました。
 敗戦時、安中の地下工場建設現場で働かされていたTさんは、「1941年2月、20才のときだった。母が病気でその面倒を見なければならなかった。村役場から呼び出され、役場に行くと、『日本へ行って2、3年働いて来い』といわれた。『母の面倒を見なければならないから駄目だ』と言うと、いきなりピンタで、『この野郎、てめえは何寝言を言っているのだ。お国のためじゃないか』と言われた。逃げようとしても、日本人の見張りと役場の人間が家を包囲していて逃げられない。泣く泣く連行された」と証言しています。
 こうして集められた朝鮮人労働者は、釜山などの港から貨物船で日本へと送り出されました。船中では、逃亡を防ぐため船底の真っ暗な部屋に押し込められ、甲板に出ることは許されませんでした。上陸したのは下関港。ここで貨物列車に詰め込まれて、およそ400箇所の現場に移送されました。これらの朝鮮人労働者は、苛酷な労働と非人間的な衣、食、住を強いられ、病いや事故で倒れ、多くの人が亡くなりました。
 私たちの調査では、群馬県内の現場に連行されてきた朝鮮人労働者は、およそ6,000人(ほかに中国人900人)。1945年4月の群馬県内政部長事務引継ぎ書によれば、前年末に12,356人の朝鮮人が県内に居住していたことになっており、その半数は、植民地下の朝鮮で、土地や職を奪われ、生きるために渡日せざるを得ず、県内の現場で働いていたものと思われます。

◆追悼碑建立運動の経過と碑建立の意義

 このような朝鮮人強制連行と強制労働の実態を知る中で、この事実を埋もれさせることなく、繰返してはいけない過去として、次の世代にどう伝えていくのかを私たちの課題として自覚するようになりました。こうして、追悼碑の建立は、日韓、日朝間のみならず、かつて日本が軍靴で踏みにじり、大きな犠牲を強いたアジアの人々、国々との間に、真の信頼と友情をとりもどし、友好と連帯を深めていく上で大切な仕事として取組まれました。
 1998年の追悼悼碑を建てる会結成から、1000万円の追悼碑建立資金を確保するための賛同金拠出を県内外に呼びかける取組みが始まりました。同時に、前述のパンフレットを発行、強制連行、強制労働の実態を知らせる活動に取組みました。1999年12月には、「追悼碑建立運動への支援のお願い」を、翌2000年3月には、「追悼碑建立にあたっての具体的な要望」を当時の小寺知事宛提出、副知事。担当職員と協議するなど、碑建立への下地作りを進めました。
 一方、2001年2月には、建てる会運営委員など14人が請願者となって、群馬県に碑建立の用地提供を求める「戦時中における労務動員朝鮮人労働犠牲者の追悼碑建立に関する請願」を、群馬県議会に提出、請願は、党派を超えた県議会議員の協力で、同年6月全会一致で趣旨採択されました。この後、追悼碑建立のための土地提供と碑の形状。碑文などをめぐって、県と建てる会との協議続き、2001年11月、ついに碑の建立予定地として県立公園。群馬の森の現在の建立地が確定しました。
 碑の形状や碑文をめぐっては、さらに長時間をかけて話合いが繰り返された結果、2003年8月、合意が成立しました。
 同年3月13日、知事の決裁が出て、碑建立のための手続きが終わって、2004年3月16日に着工、竣工は4月17日でした。同年4月24日除幕式が行われ、以後毎年4月碑前で追悼集会が行われることになります。
 除幕式では、知事の追悼の辞が述べられる(代読)と共に、自治体関係者や訪日した太平洋戦争犠牲者遺族会代表(韓国)など、大勢の来賓が、献花しました。また、その後、追悼碑には、駐日韓国大使夫妻はじめ内外の要人が追悼のために訪れ、献花されています。

◆ネット右翼や歴史修正主義者による追悼碑攻撃

 この追悼碑をめぐり、2012年ごろから、いわゆるネット右翼などによる「碑文が反日的だ」「強制連行などなかった」「碑が政治利用されている」「在日朝鮮人が建てた碑は撤去せよ」などの意見が、群馬県に対して集中的に寄せられ始めました。
 彼らの主張は、東京・新大久保のコリアンタウンで繰返されたヘイト・デモ、あるいは京都の朝鮮人学校や徳島の教職員組合に対するヘイト・スピーチやヘイト・クライムで顰蹙を買っている在特会と共通するもので、各地で、戦時に強制連行・強制労働の犠牲となった朝鮮人・中国人に慰霊や追悼のために建てられた碑や銘板に対して行われている攻撃と軌を一にしています。ごく最近、従軍慰安婦問題の新聞報道をめぐり、取材したとされる元記者とその家族に加えられている常軌を逸した一部右翼の攻筆も同質です。これらの追悼碑などへの攻撃に共通するものは史実の歪曲や握造にもとづくマイノリティーへのあからさまな差別、排外意識です。それは、侵略、植民地支配によって傷つけられた、この国、そして私たち日本人と、アジアの人々・国々との信頼と友情を回復し、アジアに真の平和を実現することを妨げるものです。
 しかし、群馬県は、彼らの追悼碑や建立運動、追悼式に対する誹誇中傷に同調、あるいは屈服して、折から設置10年を迎えて守る会が行った設置期間更新の申請を些細な事柄を理由に却下するという決定を行い、同時に碑を撤去するよう私たちに求めてきました。
 これは、すでに、訴状で詳細にわたって述べられているように、きわめて不当なもので、私たち守る会は、これを認めることは出来ません。

◆不当な設置期間更新不許珂決定を取り消して更新許可を

 追悼碑は、群馬県と守る会が合意した建立目的からいって当然存続されるべきであり、韓国、朝鮮や中国はじめアジアの民衆との間に真の信頼と友情をとりもどし、アジアの平和を前進させたいという碑文盛られた思いは、広く県民の皆さんや内外の心ある人士が共有するものです。守る会は、群馬県が追悼碑の設置期間更新申請への不許可処分を取消して、早期に期間更新を認めるよう、強く求めます。また、私たちは、貴裁判所が、法にのっとり、公正な審理を行われ、良識ある判断を下されるよう心から願っています。

 (筆者は公害研究会代表)