【編集後記に代えて】

仲井 富


 本来ならば編集後記は加藤宣幸氏が書くはずであったが、氏は2月17日帰らぬ人となり、3月号は、その時点で作成されていた企画書を元に、実務チームが作業に当たり発信するに至った。

 2月28日にオルタ編集委員会を開き、今後のことについて打ち合わせを行った。その結果、
 ①4月16日午後2時より学士会館に於いて追悼の会を開催する
 ②追悼原稿の依頼を行う
ことなどを決めた。

 今後のオルタ継続の可能性についても議論したが、明確な方向は出なかった。オルタは加藤さん一代のものであり、その死を持って打ち切りにすべきだろうという見解と、若い世代を中心として、新たなオルタ再生を目指したらどうかという見解などに別れた。私見としては、継続を考える人々が中心となって、新たなメンバーを加え、どういう体制で続けられるか検討して頂きたいと思う。

 従ってオルタは4月号を「オルタ編集長 加藤宣幸追悼号」として編集委員及び従来から執筆されていた方々、さらに戦後社会党結党以来の長きにわたる友人、知人の方々に追悼文の寄稿をお願いすることになった。4月10日までに基本的には編集部までメールで原稿をお寄せいただきたい。メールをお持ちでない方は、入力の手間もあるので、遅くとも4月8日まで送稿をお願いしたい。

 2004年3月オルタは発行を開始したわけだが、この契機について加藤さんが「メールマガジン・オルタ創刊の御挨拶」以下のように述べている。心に迫るものがある。

 ――昨年5月、私たちの共通の友人であり、『余白』の発行責任者であった久保田忠夫君が同人誌「余白」創刊号の刷了を待ちながら急逝し、部屋には宛名の書かれた発送用封筒・合評会の案内状が残されました。非政治型人間を自称し、心底から文学を愛した彼が人生の最終楽章に奏でようとしたものは何であったのか。
最後の力を振り絞り、編集し発行しようと執念を燃やした同人誌とは何か。
それは創刊号で終刊号の『戦争・国家・人間』と題する特集でした。この三つの命題は「余白」のタイトルが持つ「静」の響きとは馴染まないが今日を生きる私たちの生き様に深く迫ってきます。一人の人間として生きるとは何かを問い返してくるのです。
生きるとは、戦争と動乱の世紀から新世紀に入るのを見極めるかのように始まったアフガン・イラク戦争、「帝国」の振る舞いにひたすら追随する政府、政官癒着・既得利権のしがらみで動きのとれない閉塞社会、さらに戦後半世紀かかって築き上げられた「非戦」システムの確実な破壊、などなどに対し沈黙を守ることなのかと。
私たちは市民としての自覚と彼の遺志もくみこみ小さい声を上げつづけようと決めました。(以下 http://c1c.jp/4265/CZTBJc/8167)――

 加藤さんとは今年1月8日から2泊3日の旅をした。新潟の参院選、知事選、総選挙と2年間の3つの選挙で野党と市民の共闘が成功した裏の部隊で活躍した人に会いたいということと、1955年砂川米軍基地闘争と時期を同じくして始まった新潟米軍基地拡張反対闘争が、野党共闘と保守勢力の共闘で完全勝利を収めた歴史を追究したいという目的だった。寒風吹きすさぶ新潟の市内で、自らインタビューし、さらに新潟県立図書館などの調査にも付き合っていただいた。
 新潟は戦前戦後、日本農民運動の最強の地だった。社会党結党後、加藤さんの最初のオルグは新潟県の新発田だったと初めて聞いた。2年前に82歳で亡くなった江田三郎秘書の矢野さんも同じく上越のオルグに行き、早逝した最初の夫人は上越の人だった。情熱の文人久保田忠夫さんも上越出身者で、死後上越の山に散骨した。生まれて初めての加藤さんとの二人旅の直後に加藤さんは急逝した。
 私は独りで四国歩き遍路の旅に出たい心境である。

 (オルタ編集委員)

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