【アフリカ大湖地域の雑草たち】(33)

粘り強い人たちの大陸

大賀 敏子

 I ナミビア大統領死去
 ナミビアは大陸全体

画像の説明

 2024年2月4日、ナミビアのハーゲ・グアンゴブ大統領が82歳で亡くなった。ガン治療のために副大統領への権限委譲を発表したのは、死の3週間ほど前だ。
 ナミビアは、1990年3月、ナミビア共和国として独立した。先月の拙稿(オルタ広場2024年1月号コンゴの2023年選挙)で、選挙監視活動に関連し簡単にふれたが、ナミビアの独立は、南アフリカの解放と並んで、アフリカにとってはone of themではなく、それなしにはアフリカ全体の解放はありえないとされる大問題だった(アフリカ統一機構、1984年宣言ほか)。グアンゴブはまさにその歴史を生きた人だった(写真1)。
 
 100年待った謝罪

画像の説明
画像の説明

 ナミビアは大西洋に面する南部アフリカの国で、82.4万平方キロメートル(日本の約2.2倍)の国土に257万人が暮らす。首都はウィントフックだ。ダイヤモンド、銅、ウラン、亜鉛など豊かな資源を持つ(地図1、地図2(ウィキペディア、外務省ホームページからそれぞれ転写)参照)。

画像の説明)(写真2

 かつては南西アフリカとして知られ、南アフリカが国際連盟の委任統治制度の下で統治を始める(1920年)以前、欧州列強の仕分けではドイツの保護領とされた(1884年)。

 一般に欧州によるアフリカ統治は残虐だったと言われるが、南西アフリカも例外ではなかった。ドイツ政府は2021年、同国の統治下で行われた行為は、先住民(ヘレロ人、ナマ人)へのジェノサイドであったと認め謝罪した。100年以上かかった。ただし、開発援助は賠償ではないとの立場だ(2021年5月28日マース外相)。(写真2)

 II 40年の道のり
 
 共通認識づくりに20年
 
 独立への長い道の始まりはこうだ。南アは、国際連盟の委任統治制度の下で南西アフリカを統治していた。国際連合の誕生に伴い、統治は国連信託統治制度の下に移行されるべきところ、南アは国連にはその能力なしとし、自国の州の一つとして統治を継続した(1945年)。アパルトヘイト下でのことだ。こうして不法統治が始まった(註1参照)。
 
(註1)略史
 1945年南アフリカ、南西アフリカを国連の信託統治制度の下に移行させることを拒否、不法統治開始。
 1966年国連総会、南西アフリカに対する南アフリカの委任統治終了を決定(決議2145)。
 1968年国連総会、南西アフリカをナミビアと改称。(同地域のナミブ砂漠に由来)
 1978年国連安保理、国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)の設置を決定(決議435)。
 1988年南アフリカ、アンゴラ、キューバ間の和平協定成立。南アフリカ、ナミビアの独立に合意。
 1989年4月安保理決議435実施、UNTAG活動開始。
 1989年11月憲法制定議会選挙実施。
 1990年2月ナミビア共和国憲法採択。
 1990年3月21日ナミビア共和国独立。ヌヨマ大統領就任。
 (外務省、ナミビア共和国(Republic of Namibia)基礎データ略史から、1945年から1990年部分を抜粋)
 
 1945年に不法統治が始まったと書いたが、不法か不法でないかは誰が見るかによって異なる。これを国連での共通認識にするにはその後約20年、1966年までかかった。
 この共通認識を、国連事務局の言葉で言えばこうなる。「総会は1966年に南アフリカの委任統治を終了させ、同地域を「国連南西アフリカ理事会(United Nations Council for South West Africa)」の責任のもとに置いた。……こうしてナミビアは、加盟国ではなく、国連が直接の責任を果たすことになった唯一の地域となった」(国連広報センター)
 
 加盟国ではないけど
 
 当時ナミビアは存在しなかったので、もちろん国連加盟国ではなかった。あったのはSWAPO(南西アフリカ人民機構(South-West Africa People's Organisation))という人々の集まりだ。この集まりは、国連の会議に呼ばれないので、会議で立場を述べるチャンスがなかった。なら、いかにしてSWAPOは国連に働きかけることができたのか。国際司法裁判所への請願(petitions)である。それは1950年から始まった。
 1960年前後からアフリカ諸国が順に独立し、それぞれ国連加盟国となってからは、これらのアフリカ諸国の助けを得た。SWAPO自身には資格がなくても、一足先に国連加盟して資格を得ていた仲間を通して発言した。
 SWAPOが国連総会で公式な立場を獲得したのは1973年だ。総会決議には「SWAPOをナミビアの人々の真の代表(authentic representative)と認める」とある(3111(XXVIII) Question of Namibia、1973年12月12日採択)。
 
 実行するのにまた20年
 
 上述のように1966年に共通理解ができたのだから、ナミビア問題は、1966年にはあたかも決着したような印象を受けるが、そうではない。
 安保理が、独立への道筋(制憲議会選挙など)を定め、この実施を支援するためのUNTAG設置を決めたのが12年後の1978年だ。南アがこれに合意し、UNTAGが活動開始できたのがさらに10年以上後の1989年だ。
 SWAPOと南アの仲介で主導的役割を果たしたのは、フロントライン・グループ(アンゴラ、ボツワナ、モザンビーク、タンザニア、ザンビア、ジンバブエ)と西側コンタクト・グループ(カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ)である。
 ここまでテマがかかったのは、言うまでもなく、南アの圧倒的な経済力のまえに、主要国の動きが遅々としていたためだ。南ア合意を引き出した切り札は、隣国アンゴラからのキューバ兵撤退だったという。
 
 やっぱり、国連じゃダメか
 
 かくて、独立には、南ア支配とアパルトヘイトに反対を表明してから、ゆうに40年かかった。総会や安保理が無視していたのではない。それどころか毎年毎年ナミビアについて忙しく話し合い、決議の数は20をくだらない。SWAPOは、政治的、平和的手段で活動を始めたものの、ある時期(1966年)から、軍事部門を設け武装し、武力闘争をその戦術に加えた―加えざるを得なくなった。
 国連事務局は、経緯をまとめてこう言う。「国連は1990年のナミビアの独立を支援した」(国連広報センター)。苦闘が済んだ今となっては、確かにそのとおりだ。しかし、より正確には、こうなるのではないか。
 独立をめざして働いた人々―SWAPOのリーダーたちとナミビアの人々―は、苦心惨憺しながら、忍耐強く国連を使った。ときに「やっぱり国連じゃダメかな?」と、なかばあきらめながら。
 どれだけ忍耐が必要だったことか。
 
 人づくり
 
 グアンゴブはSWAPOリーダーの一人だった。独立以前は国外で、SWAPOロビーに従事した(1963‐64年ボツワナ駐在員、1964‐71年対米・対UN代表)。後にUN事務局、次いでUNIN(国連ナミビア研究所(United Nations Institute for Namibia))で勤務、つまり、国連職員になった(1989年まで)。
 UNINは国連ナミビア理事会(前・国連南西アフリカ理事会(上述))が設置した教育機関だ(1976年8月26日)。独立の暁に国づくりを引っ張る人材をあらかじめ養成しておこうとする目的だ。独立はしたが人材不足に直面した、コンゴの経験も参考になったことだろう。
 UNINが置かれたのは、「アフリカの長州」こと、ザンビアのルサカだ。ときのザンビアのリーダーは、大陸各地の反植民地運動の志士をかくまい支援した、あの故ケネス・カウンダである(拙稿、オルタ広場2021年7月号アフリカの長州)。かくて、アフリカ解放の歴史は、個々の国だけでは語れない、大陸全体の歩みだ。
 なお、UNINは1990年9月に閉鎖され、その研究活動は現ナミビア大学に引き継がれた。
 
 III 粘り強く生きた
 
 簡単にはあきらめない
 
 独立後の故人について、複数のメディアから情報を拾ってみた。
 49歳から初代首相として国づくりの中心になったが、61歳で政界を退き、渡米、アフリカのための地球連合(政府間フォーラム)事務局長を務めた。63歳で帰国、政界復帰し、大統領選挙に出て大統領就任を果たしたのは74歳のときだ。政界を離れていたひと時、63歳で論文をまとめ博士号を取得した(PhD in politics, University of Leeds, UK)。稀有な健康体の持ち主だったわけではなく、自ら公表しただけでも、脳手術(72歳)、前立腺がん(73歳)を経験した。3人目の配偶者(モニカ夫人、弁護士)を得たのは74歳だ。
 ナミビアは、ドイツの謝罪を獲得するまでに一世紀以上待った。独立達成まで国連には40年も手を焼いた。そんな国のリーダーにふさわしい、簡単にはあきらめない、粘り強い人物だったと言えるのではないか。
 
 大事なリマインド
 
 アフリカ人が優れていることと言うと、視力・聴力、運動能力など、身体的特徴が挙げられることがよくある。しかし、筆者の肌感覚―アフリカ人を知る多くの人が同意すると思うのだが―では、「アフリカ人にはかなわぬ」と脱帽させられるのは、人により、場面にもよるものの、一般に、粘り強く、我慢強く、忍耐力があることだ。
 グアンゴブにも批判は多々あり、理想的な指導者だったというわけではないようだ。ただ、20世紀のアフリカ解放の生き証人であって、かつ、アフリカ人らしい強みを備えた人が、また一人いなくなってしまったことは確かだ。
 ナミビア・南ア情勢を理解するには相応の専門知識が必要で、筆者にはまったくそれがない。このため、本稿にも多々誤りがあることと懸念する。それでも、ナミビア独立への道と人として故人の生き方を、どうしてもこのような小文にまとめておきたかった。人生で躓く大きな原因の一つは、外敵より、自身であきらめてしまうことであると、リマインドさせられるように感じるからだ。
 
 ナイロビ在住
 
 参考文献
 “Namibia and the United Nations until 1990” Dennis U Zaire, Konrad Adenauer Foundation

(写真1)President Hage Geingob of Namibia speaking in 2019 to the 74th session of the United Nations General Assembly.Credit...Dave Sanders for The New York Times ニューヨークタイムズから転写
(写真2)1904~08年撮影、資料写真。(c)AFP PHOTO /NATIONAL ARCHIVES OF NAMIBIA AFPから転写

(2024.2.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧