【沖縄の地鳴り】

米軍捕虜収容所で作られた屋嘉節(やかぶし)

作詞/金城 守賢  作曲/山内 盛彬

一、なちかしや沖縄 戦場になやい 世間御万人ぬ袖ゆ濡らち
 <なちかしや うちなー いくさば になやい しきん うまんちゅぬ すでぃゆぬらち>

 悲しい(の)は沖縄 戦場になり 世間御万人の袖を(涙で)濡らし

二、涙飲でぃ我んや恩納山登てぃ 御万人とぅ共に戦凌じ
<なみだぬでぃ わんや うんなだき ぬぶてぃ うまんちゅとぅとぅむにいくさしぬじ>

 涙(を)飲んで 私は恩納山(に)登り 多くの人と共に戦(を)凌ぎ

三、あわり屋嘉村の闇の夜の鴉 親うらん我身ぬ 泣かんうちゅみ
 <あわりやかむらぬ やみぬゆーぬがらし うや うぅらん わみぬ なかん うぅちゅみ>

 哀れ 屋嘉村の闇の夜のカラス(よ) 親(が)いない私が泣かないでいられるか

四、無蔵や石川村 茅葺きの長屋 我んや屋嘉村の砂地枕
 <んぞや いしちゃーむら かやぶちぬながやー わんややかむらぬ しなじまくら>

 貴女は石川村茅葺きの長屋 私は屋嘉村の砂地(が)枕

五、心勇みゆる四本入り煙草 さみしさや月に流ちいちゅさ
 <くくるいさみゆる しふんいりたばく さみしさや ちち に ながちいちゅさ>

 心励ますことができるのは四本入り煙草 淋しさは月に流していくよ
 (語句:いさみゆる 励ますことができる。<いさみゆん 励ます。)

(注)沖縄戦後、焼き払われた金武村屋嘉集落の跡、後の金武町立金武町嘉芸小学校の校地周辺を、米軍がブルドーザーで整地し、投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉収容所」が設けられた。沖縄出身者の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使い、パラシュートの紐を弦としてカンカラ三味線を作り、演奏するようになり、やがて「屋嘉節」が生まれて広まったという。「屋嘉節」の歌詞には、戦争のむなしさが歌われており、再び戦争が起きないことを願うという内容が含まれているため、平和教育において取り上げられたり、「沖縄慰霊の日」」などの行事に演奏されることがある。

(参考文献)『沖縄空白の一年』川平成雄/著 吉川弘文館


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