【沖縄の地鳴り】

移民について振り返る

平良 知二

 外国人労働者の受け入れ拡大をどうするか、出入国管理法の改正案が閣議で決定された。改正案をめぐり国会論議となるが、野党は厳しい姿勢を見せており、難しい問題がいろいろあるようだ。日本は移民を認めておらず、今回の政府の改正案も「移民政策ではない」との考えを基本としている。外国人を受け入れて長期的視野で「日本人」とするものではない、ということなのだろう。何年かあとに母国に帰ってもらう政策である。
 とは言っても、日本はすでに欧米同様、数多くの外国人を受け入れており、いつまでも「移民」という言葉を嫌っても仕方あるまい。外国人労働者抜きには各種業界が成り立たなくなってきている現状があり、将来も見据えて、社会保障の問題など突っ込んだ移民論議が必要となる。

 移民といえば沖縄である。今でも日常会話の中で移民のことがよく話題になる。移民へのアレルギーはほとんどない。

 日本の海外移民は明治元年(1868年)にいわゆる「元年者」153人が政府の許可なしでハワイに渡ったのが最初であった。政府許可の「官約移民」は明治18年(1885年)からで、明治30年(1897年)以降、移民は活発化する。
 沖縄からは、全国に遅れて明治32年(1899年)のハワイ移民が最初で、以後、多くの人が海外に渡った。全国的には広島や熊本、山口、和歌山などが移民県として知られているが、ウチナーンチュの海外移住は母県に対する人口比では群を抜いている。
 例えば1940年(昭和15年)の「海外在住者数」を見ると、沖縄は県人口(57万4,579人)に対し9.97%(5万7,283人)にも上る人が海外に住んでいる。10人に1人だ。これは2位熊本の4.78%や3位広島の3.88%を大きくしのいでいる。絶対数では広島7万2,484人、熊本6万5,378人に次ぐ3位ではあるが、沖縄社会の中に占める移民の比重はかなり大きかった。

 貧しかったため、海外で一旗揚げようという青年たちは数多く、新天地で辛酸をなめながらも奮闘し金を蓄えて帰郷した人は少なくなかった。戦前の沖縄は全国でも最貧県。「村の中堅たるべき有為の青年が吾先に海外に高飛びするのは…」という嘆きの声もあったが、「モーキティクリヨー(稼いで帰ってきてくれ)」と送り出さざるを得ない社会状況にあった。

 沖縄県の「海外在留者送金額と県歳入歳出額」という資料によると、海外からの送金額の多さは際立つ。1923年(大正12年)には海外の同胞から86万1,028円が沖縄に送金されているのだが、この額は何とその年の沖縄県の歳入総額(予算)195万5,371円の44%にも相当する。県経済への貢献は計り知れない。
 6年後の1929年(昭和4年)には198万6,160円が送金された。2.3倍に増えている。県の歳入総額の66.3%にも相当し、これはもう貢献というような言葉で表わせるものではない。戦前の海外移民の歴史的役割を改めて胆に銘じなければと思う。
 1926年(昭和元年)から1938年(昭和13年)の13年間に2,650万2,403円が送られたのだが、これは広島、和歌山に次ぐ3位の額であった。

 筆者の住む町は戦前、沖縄の中でも1、2位を争う“移民村”だった。今でもハワイやペルー、ブラジルに親戚のいる家は多い。
 今回の米中間選挙でハワイ州知事に再選されたイゲ知事は、祖父(伊芸氏)がわが町出身で、知事は昨年来県し、父祖の家を訪問している。1990年代に同じハワイ州の知事を務めたワイヘエ知事の夫人もわが町の出身。筆者の友人の一人は夫人といとこの関係であった。ワイヘエさんの知事選挙の時には親類縁者がハワイまで駆けつけ、選挙応援をしたのだという。
 筆者自身、ペルーにいた伯父(父のいとこ)の位牌を引き継いでいる。周りにはハワイやブラジル、ペルー、アルゼンチンなどと関係ある人が少なくないため、何かにつけて移民(移住地)の話が出てくる。いまは3世、4世の時代で、その方々がそれぞれの国、地域で活躍している。

 戦前と現在の移民をめぐる状況は同じではないが(例えば戦前は日本→海外、いま海外→日本)、国境が越えやすくなっている時代である(トランプ政権は逆方向)。観光客は著しく増え、働いてくれる外国人も急増している。何やかやと嘆いても、国際交流は一層深まっていく。自然であろう。
 そういう認識で改めて外国人労働者の受け入れ態勢を考える必要がある。

 (元沖縄タイムス記者)

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