■私と『新憲法』のかかわり          今井 正敏

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 私が始めて『新憲法』とかかわったのは1949年(昭和22年)5月、新憲法が施
行されて間もなくで、この年の4月から始まった6・3・3制の新制中学で生徒たち
に『新憲法』について話はじめたときからである。
 私は太平洋戦争の末期、1944年に19歳で生まれ育った村で青年学校の教員に
なり、戦後、青年学校の廃止とともに1947年に開校したばかりの新制中学の教
員に移ったが、3年生を担当し、戦後の混乱が続く中で「文化国家」の建設を目
指し、新しい教育に青春の情熱を傾けた。
 新しい『日本国憲法』が前年11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行さ
れることは知っていたが、その内容については主権在民、天皇象徴制、戦争放棄、
人権尊重、男女同権、集会・結社・言論・出版・居住・就職・結婚・信教等の自
由、三権分立、地方自治制、健康で文化的な最低生活を営む権利・・・・・等な
どのことは新聞やラジオ(NHK1局だけ)で、その項目ぐらいは知っていたが、
中身は十分に理解していなかった。
 
 新聞やラジオをよく読んだり聴いたりした私がこの程度だから、一般村民の
『新憲法』理解はかなり低かったように思う。政府もこれを知っていて新憲法普
及運動を大々的に展開するが、特に学校教育・社会教育には力を注いだ。文部省
は新憲法を分かりやすく解説した手引書『新憲法のはなし』を大量に作成し、こ
れをテキストに各学校や社会教育の現場で指導を行った。これをうけ栃木県でも
教員対象の講習会を各地で開いたが、3年生担当で新教科の「社会科」を受け持
っていたこと、青年学校からの関係で、新しく結成された青年団に深く関わって
いたなどから、私は学校から選ばれて受講させられた。これが私の『新憲法』と
の関わり始めであった。

 講習会に出席した私は、学校の職員会議(全員8人の新制中学)で、この『新
憲法のはなし』をテキストに2年生・3年生に授業することを提案、全員の賛成
で決まった。以後、私の新憲法授業は始まるのだが、このテキストで内容とは別
に私の目にとまるものがあったのは、奥付けの「教育図書株式会社」という「発
行所名」である。この会社の前身は「青年学校教科書株式会社」で戦後、青年学
校が廃止になり「教育図書株式会社」と名を変え、国定教科書発行会社(当時は
まだ検定教科書発行前だった)として出発した会社であった。
 その「青年学校教科書株式会社」は青年学校用の教科書を発行していた財団法
人日本青年館、社会教育協会、実業之日本社などの会社が1942年に統合してでき
た会社であることを私は知っていた。(青年学校は1939年から義務制)そして、
その会社が発行する教科書を2年前まで使っていたから「教育図書株式会社」と
いう名には親しみを感じていた。ところが、この会社とのかかわりはこれでは終
わらなかった。
 
 私は、1950年に中学校を退職して青年団活動に専念し、日本青年団協議会(日
青協)の結成(日青協の成立は1951年5月)に関与していたが、1953年に教
育図書の専務(日本青年館の常務理事が兼務)から会社に入らないかと声をかけ
られた。(当時私は日青協の青年団研究所に関係していた)思ってもいなかった
のでびっくりしたが、結局、この一言で入社が決まった。村の教員をしていた時
には、遠くの存在だった教科書会社に入社することになり大いに喜んだ。
 さらにこの流れは、あらたな出会いを生むことになる。以前、『オルタ』への
投書で触れたが、教育図書に入社した私の仕事は会社の関連組織である「教育文
化研究会」が発行する機関紙の編集であった。そしてこの会の会長は元法制局長
官金森徳次郎氏で、氏は新憲法制定国会では憲法担当国務大臣として政府側答弁
の主役を務め、特に象徴天皇制をめぐる答弁では有名であった。私が入社した頃
は国会図書館長の要職にあり、館長室は現在の赤坂離宮内にあった。私が館長室
に伺うたびに金森先生は、用件がすんだあと国会論戦の秘話を聞かせてくださっ
た。それを聞くのが楽しみで、月に何度も赤坂離宮に足を運んだ。
 このように私と『新憲法』のかかわりあいは、公布直後の『新しい憲法のはな
し』から始まり、その発行元の教育図書(株)との関係、そして新憲法制定で主役を
務められた金森徳次郎先生との出会いえと続いた。
 「日本国憲法」については「第九条」は云うまでもないが、強い関心を持って最
近の改憲の動きを厳しく見つめていきたいと思う。
                      (筆者は元日青協本部役員)

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