■【横丁茶話】

-私って嘘のつけない人じゃないですか- 西村 徹

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テレビのチャンネルを切り替えるとNHK総合で若者ことばを詮議していた。
「私って嘘のつけない人じゃないですか」、「~じゃないですか」という言い
方は確かに若い人がよく使う。私はこの言い方そのものになんら違和感はない。
新鮮だと思うだけだ。そしてむしろずいぶん人間関係を柔らかいものにする効用
をすら感じる。対等関係では甲州弁の「~ジャン」が日本中に広まったが、その
丁寧語が「~じゃないですか」だろう。

これにかぎらず若者の新しいことば遣いに、フェロモンといえば言いすぎにな
るが、いくらかそれに近い、つまりは匂い立つ若さを私はなつかしいものとして
感じる。そのぶん自分の老いをきわだって感じさせられもする。私は素直にシャ
ッポを脱ぐことにしているが、老いを感じたくない人、老いを感じることに抵抗
する人は若者ことばに嫉妬して敵意をいだいて難癖をつけたがるのではないか。

若者ことばであるかどうか、しかとは判らないが、一昔前なら「それなのに」
と言っていたところを「なのに」ですませる。鼻音が三つ並んで女子の口から発
せられると婉然たるものがあって巧まざるたくらみをすら私は感じる。英語でな
らばintriguingというだろうものを私は感じる。「なのに」が逆接で「なので」
は順接というのもこころにくい。とりわけ若い女のことばは総じて魅力的だが、
逆にいい年のオヤジがことばを間違えるのはいただけない。新聞記者で、それも
一流大新聞の記者で、ときどきヘンな日本語を使うのがいる、整理部はなにをし
ているかと思う。

小説家でもこれが日本語かと思うような日本語を書く人もいる。編集部はなに
をしているのかと思う。大衆文学でなく純文学作家とかいうのにそれがある。翻
訳となると哲学系などひどいものだ(注)。菅総理は東京ボケで選挙に負けた。
東京ボケは政治家にかぎらない。方言について、ラ抜きサ入れは関西起源だなど
と、肉ジャガの肉は豚肉しかないと思い込んでいるようなトンチンカンをいう、
まるまる東京ボケの学者が文科省の中にいたりする。

脱線気味のついでに言うと、なぜやたらと肩書きにわざわざ大学大学と大学を
くりかえすのか。○○大学教授で十分なのに○○大学大学院教授というのか。ど
この国の大学がこんなこと言うか。恥ずかしくないのか。大学院は昔からある。

昔は大学大学院教授なんて小っ恥ずかしいことは言わなかった。夏目漱石や永井
荷風は言うに及ばず森鴎外でさえ眉をひそめるのではなかろうか。いや、恥ずか
しい恥ずかしくないどころではない。自分は只の大学の教授でない、大学院の方
も持っとる教授先生サマなんじゃと言いたいのであろうか。そんなに差別化した
いのなら、いっそこうしてはどうか。教授に兵隊の位をつけて大将教授とか中佐
教授とか少尉教授とか言ったらどうだろうか。さいわい自衛隊では大将とか中佐
とか言っていないから商標違反にならないだろう。昔は帝国大学工科大学とか帝
国大学文科大学とかいったらしい。仰々しい重複を恥じてかその後止めた。

○○大学大学院教授は事大主義をむしかえす退行現象のように見える。こんな
退行現象はいつから始まったのであろうか。そういう小卑しい俗物主義は大勲位
に任せておけばよかろうに。どうしても言いたいのなら○○大学・院教授ではど
うか。それとも一番値の張る戒名は代議士の墓などに多い院大居士だから、それ
に倣って院大教授なら気がすむだろうか。

大学が出たところで言うのだが、8月3日テレビのニュースで、びわこ成蹊スポ
ーツ大学とかの硬式野球部とかの部員の4人が1人を囲んで暴行を加え、大怪我
させたとか。その大学の副学長とかの顔が大写しになって「ひとりひとりに目配
せしているわけにはいかない」と言っていた。ちゃんとテロップで「目配せ」と
出ていた。「メクバセ」とルビがあったように思う。こんな副学長のいる大学な
らではの暴行事件なのかと思ってしまう。琵琶湖を偏愛する身としては耐えがた
い気持ちでこれを見た。

こんなことばを使う大人が若者のことばをいちいちあげつらうのはまったくど
うかと思うが、そういう若者ことばの中で、私にも、どうかと思われるものがな
いわけではない。「~じゃないですか」より「私って~な人」という言い方には
前々から違和感があった。へりくだるというほどのこともなく「~な人間」とか
「~な男」とか「~な女」と自分をすこし下座に置く言い方が普通だったから
「~な人」にはちょっと閉口するところがあった。

そこへもってきて他人の口からでなく自分の口から自分のことを「嘘のつけな
い人」というのには恐れ入った。「誰それは嘘のつけない人」というのならわか
らないでない。まったく嘘のつけない人は滅多にいないだろうけれども、嘘の苦
手な人はいるだろうし、苦手な人のことを「嘘のつけない人」と思う人はいるだ
ろう。

ところがNHKの番組では多勢の言語学者とか精神科の医者とかが集まって講釈
しているのに、だれひとり、この、自分のことを自分の口から「嘘のつけない人」
という大嘘を問題にする人はいなかった。みんな嘘つきだから自分が嘘つきで
あることに気がついていないからだろうか。(2010年8月7日)

(注)ひどい翻訳はいくらでもあるが、近ごろたまたまバートランド・ラッセ
ルの『怠惰への讃歌』という論文を見た。原文In Praise of Idlenessを読ん
で、どんな翻訳があるか探してみた。1958年角川文庫から出ているが2009年8月
平凡社ライブラリーで再刊されている。再刊されるに値するすぐれた内容の本だ
から半世紀を経てさぞかし訳文も磨かれているだろうと思った。ところが半世紀
前の版をそのまま転用したらしい。

アマゾンのカスタマーズレビューのひとつは「内容の優れた本であるだけに、
せっかくの今回の再発で、なぜ新訳改定されなかったのか、とても悔やまれます。
再発元の平凡社は、何故、ちゃんとチェックなさらなかったのでしょう?」と、
まったくもっともなことを書いている。「まともな言語感覚をお持ちの方なら、
日本語の体すらなしていない、奇怪な箇所が多々あるのにもお気付きの筈、つ
まり、誤魔化しの<辻褄あわせ訳>」とも書いて原文と比較対照している。

 ここでさらに例を加えればきりがないが、ひとつだけ挙げると
「だが相当のひまの時間がないと、人生の最もすばらしいものと縁がなくな
ることが多い。多くの人々が、このすばらしいものを奪われている理由は、ひま
がないという以外に何もない。馬鹿げた禁欲主義、それはふつう犠牲的のもので
あるが、ただそれに動かされて、そう極端に働く必要がもうなくなった今日で
も、過度に働く必要のあることを私たちは相かわらず主張し続けている」(同書
22ページ)

 この原文は
But without a considerable amount of leisure a man is cut off from many
of the best things. There is no longer any reason why the bulk of the
population should suffer this deprivation; only a foolish asceticism,
usually vicarious, makes us continue to insist on work in excessive
quantities now that the need no longer exists.
 
第一文はひとまず問題ないだろう。第二文の「このすばらしいものを奪われて
いる~」がthis deprivationに当たることが分るように添えたまでである。問題
は「多くの人々が、このすばらしいものを奪われている理由は、ひまがないとい
う以外に何もない」でよいかという点である。この文の内容それ自体辻褄はあっ
ている。しかし原文の内容とはちがっている。原文は「多くの人々が、このすば
らしいものを奪われてガマンしなければならぬ理由はもはや何もない」であろう。

読み手が大雑把だと気付かずじまいになるかもしれないが、そうでなければ神
経に滓の残るようなイライラは避けられまい。気になる人は原文を見ずにはすま
せられまい。訳文は「誤魔化しの<辻褄あわせ訳>」ということになるのではな
いか。

続く「馬鹿げた禁欲主義、それはふつう犠牲的のものであるが」は、セミコロ
ンの後に来るa foolish asceticism, usually vicarious.に対応する。「ふつう
犠牲的」とはどういうことだろうか。ふつう読者はこれでわかるだろうか。私は
まず「代償的」を考えたが結局わからなかった。私にわからなかったのは私の力
のいたらなさにも理由があることを私は認める。それゆえ、わからないので調べ
た結果を以下に書く。

"vicarious"から「犠牲的」は、方向性としてはまちがっていないらしい。語
源はラテン語vicariusで、その基になる名詞はvicisで、「身代わり」、「代
理」、「代行」、「代償」などの意である。副大統領はvice presidentだし、海
軍中将ならvice admiralだ。代作はvicarious workだ。だから、良いことも悪い
ことも身替りになることだ。

とするとキリスト教の文化伝統のなかでは自ずからキリストさまが出てこないわ
けには行かないことになる。そもそもvicariousから出てきたvicarのもともとの
意味は、神あるいはキリストの地上における代理人ということだ。SOD(Shorter
Oxford English Dictionary)には"vicarious"の項に「キリストの苦難と死に関
して」(with reference to the suffering and death of Christ)と、ちゃんと
書いてある。人の罪の贖い、「犠牲」に、やっと
辿り着くことができたというわけである。

しかしここまで知っていなければ分からないということでもある。平均的な日
本人でここまで知っている人は多いだろうか。多くはないだろう。もっとも昔は
孤独に五里霧中で辞書を引きまくってSODまで来て、やっと糸口を掴んだものが、
いまはネットというありがたいものがある。"vicarious"を検索すると、いき
なりアマゾンの"vicarious"のタイトルばかりを集めたページが示される。英語
話者のあいだではいかにこの語が汎用されているかが分る。今一息ふんばって
"vicarious asceticism"を検索すると、ますますはっきりしてくる。ネットはこ
うして自分の無知の程度、自分の位置をまず教えてくれる。ネットのおかげで井
戸の蛙にならずにすむ。

なんとまあバートランド・ラッセル自身がON VICARIOUS ASCETICISMという論
文を書いているではないか。1932年8月New York Americanという新聞の文芸欄に
寄稿した短いものである。In Praise of Idlenessも1932年だから、いずれもほ
ぼ同時期に書いたものであろう。地主・金持階級は、自分らは贅沢を求めていな
がら労働者・貧民階級には低賃金・禁欲を清貧の美徳として押し付けている矛盾
について書いている。

だからvicarious asceticismとは、「自分は手を拱いて他人に清貧の徳を代行
させる替え玉禁欲主義」のことらしい。キリストさまなどお呼びでなかった。結
局は「替え玉代行主義の」「あなた任せの」ということらしい。労働者には賃金
をギリギリ最低におさえて儲けは資本家がギリギリ独り占めしたいという新自由
主義市場原理主義者の思惑そのものを表わすことばであるらしい。かつて小泉と
か竹中とかいう人らは「痛みに耐えろ」と国民に犠牲を強いた。だからここもま
るまる「犠牲的のもの」でなくはないが「犠牲強制的のもの」ぐらいまで言って
もらわないと、やはり困るようだ。

                  (筆者は堺市在住)

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