福祉に思う(2) 高沢 英子
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三歳になった童を保育園に送り届けて帰る道すがら,さっと吹きすぎる風の音が、耳を通して身内に快く沁み通るのが感じられて、はっとした。秋来ぬと目にはさやかに見えねども・・、ようやく自然が五臓六腑にしみるようにり、秋の気配がじかに身近に感じられるようになった、と気がついた。敷石道を縁取っている草の葉叢で柔らかい光が波打って踊っている。立ち止まって見上げると、道端に植えられている石榴の樹に一つ、二つ,重そうな実がついている。夏の終わりに台風で落ちた未だ小さな実を拾い、暫く机上に飾っていた。今大きく膨らんだ実はすでに艶やかな表面が赤みを帯び、茂った葉蔭から顔を覗かせている。風にめげずに枝にしっかり付いていたのだろう。
再び急ぎ足になりながら、二年ぶり、いや三年ぶりに、心にゆとりが戻ってきた、というより閉ざされていた自然との通路が今朝は開かれて、ゆっくりなにかが流れ込んでいるという感じをしみじみ味あう。中国渡来の「気」の思想を持ち出すまでもなく、ようやく再び自然との回路が開きはじめた感じがある。子供の生育につれて、ゆとりが出てきたのであろう、と感謝する。少し場合は異なるけれども、もしかしたら、我に帰る、というのはこういうことを指すのだろうか、と思う。
ここ数年、髪には霜が増し加わり、日々些細な細部の衰えを発見しては、落ち込むことも多いが、こうした四季折々の感慨は、老いているゆえに積み重なった体験に伴う多様な情感を溢れさせ、いまだに保っている記憶の海の豊饒に暫し酔うことも出来る。
これに反して、時間や場合は多少異なるが、我を忘れる、という言葉がある。これはまた無我夢中という言葉とも相通ずるけれども、しかしこれは戦時中に若者を盛んにあおりたて、時にはやみくもに死へと駆りたてた「滅私奉公」という言葉の「滅私」という思想とは無縁であると思いたい。
かの言葉は私のような戦中派、つまり大正末期から昭和一桁の前半生れの世代にとっては、当時も今も一貫していやな響きを持っている。もちろん響きばかりではなく、実際にこの語の意義を分析すれば、色々論議もあると思う。しかし私などには単純に感情的に考えるだけで、過去に直結して厭な連想を引きずる不愉快な言葉であり、その分、現在では心に虚しく空疎な響きを鳴り渡らせるつまらぬ言葉である。
実際この言葉が駆り立てたどれほど多くの失われた命や青春があったことだろう。しかもこの言葉は、日本では未だ死んでいないらしい。森元首相がそれを持ち出したときは驚いた。そしてそれ以後日本の政治はどんどん悪い意味での懐古主義の方向に進んでいるのは見逃せない事実だ。いま巷では憲法9条についての論議、改悪阻止の活動が活発に行われている。ここ大田区にも9条の会がいくつかあり,私もそのひとつに参加している。
1947年・5月新憲法が施行されて以来、今日まで曲りなりにそれを保ってきた日本の姿勢を大きく変えようとする動きが出ていることに危惧を抱いている人は少なくない。
先日大田区の区民ホールで見た自主映画「日本の青空」はそういう意味で、私にとって新鮮な驚きであった、あの憲法を作成するに当たって、どれほどの人がどんな思いであの仕事にかかわったかを、かなりの迫力で見せてくれた。戦前戦後を通じて、恵まれない環境に耐え、一貫して志操を貫いた在野の憲法学者、鈴木安蔵という人物に焦点を当て、GHQが当時の日本政府が作成した草案を退け、鈴木安蔵を中心に結成された高野岩三郎,森戸辰男らによる民間の憲法研究会がひそかに作成した草案が、大筋の所でGHQに受け入れられ、9条の骨組みとなる、という事実にもとづいたストーリーには説得力があった。
GHQが日本にしたことの何もかもよかったと決して思っていないが、彼らのデモクラシーに賭ける気迫とエネルギーには圧倒されるものがあった。私が特に印象深く思ったのは、彼らの天皇制に対する仮借ない姿勢であった。くどいようだが、私はアメリカ的な彼らの思想のすべてを決してよしとは考えていないけれども、たとえば、かれらが天皇に対する日本語の形容詞について説明を求め、弱った通訳が「・・いわば雲の上・・」などと言ったとき、吐き捨てるように「ナンセンス!」と叫ぶ声に、幾度か胸のすく思いを味わった。まったくの私情に過ぎないが、思い出してもせいせいする。
ひるがえって、身辺では相変わらず、福祉の一層の貧困さがじわじわと、国民の生活に浸透している気配がある。ことは老人や弱者の問題ばかりではない。家庭も子供も国民の軸となる中年層も、すべて私の素人目にも、危うさをいっぱい抱え込んでいる。うちのなかばかりではない。外に出ればそうした危うさを予感させる光景がいやでも目に付く。
毎週二回我が家に派遣されていたヘルパーさんが、今度事業所の人手不足の事情かららしく、請われてフリーの立場から正社員になった。それと同時に微妙に姿勢が変わり始めた。彼女自身、本社と接触する機会を持つようになり、実態についてより広い視野を得、介護事業の中身にも目が行くようになった。そして我が家の派遣問題がしばしば問題になっていることを知った。同居者がいて、どんな病気なのかもよく把握していない上司から、この人がなぜ介護?などという言葉がしばしば飛び出すらしい。娘とほぼ同世代の彼女は娘に嘆いていうらしい。「私自身介護保険なんて払いたくない。だって今の制度じゃ将来受けられそうにないんですもの」
現行制度では介護では健常同居者がいないこと、が前提になっている。しかし「そもそもこの介護保険の必要性が口に出されるようになったのは、家庭の主婦や家族がひとりで抱え込んでいる介護の辛さ、過酷さを何とか救済しよう、ということであったはずだ」。と娘は怒っている。
現場のヘルパーさんの話によると、納得いかないことが多すぎるらしい。このほかにも、以前にも書いたが、通院介助は、介護保険では出来ないことになっている。そこでヘルパーさん担当の在宅老人で、通院のため、仕事で付き添えない息子が私費で人を頼み,これまで月々何10万にもなる介助料を払ってきたが、続かなくなり、ついに止めることにした。今その老人は自宅で寝たきりになり、床ずれなどでひどい状態、という。
そのくせ、区関係者やその他役所関連の縁故者には、かなり杜撰な対応例も見られるという。いつの時代も変わらぬ図式と思いつつ、黙っていられないもどかしさがある。
秋風が吹き、今年も風邪の季節が訪れようとしている。病人はのどかに 風の音に驚いてはいられない。育っていく子供の養育問題、病身を脅かす肺炎その他もろもろの余病再発に脅かされながら、精一杯の自助努力を強いる行政の更なる締め付けに耐え、いっぽうで天文学的予算が浪費され、垂れ流されているのを眺めている。国民はいったいどうすればよいのであろう。
(筆者は東京大田区在住エッセイスト)
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