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禁煙・嫌煙権運動45年を振り返って

渡辺 文学

■設立総会で司会・進行役を
 1978年2月18日午後、東京・四谷の写真文化会館で「嫌煙権確立をめざす人びとの会」の設立総会が、中田みどりさん(「嫌煙権」の名づけ親)と藤巻和氏の呼びかけで開かれた。
 少し早めに会場に向かっていたところ、中田みどりさんから「文(ブン)さん、今日の会議の司会をやって下さいね」と言われたのだ。これまで公害問題の集会などでたびたび司会・進行役をやっていたのを見ていた中田さんからの要請で、すぐその場でOKということで、会場に入った。
 この日、全国各地から、60名ほどの方々が集い、狭い会議室はテレビ、新聞の取材もあり、熱気にあふれていた。伊佐山芳郎弁護士、安藤栄雄氏(日本消費者連盟)、熊澤健三氏(新宿駅長)などもタバコの煙は身近な公害問題という視点で発言し、札幌からは黒木俊郎弁護士、鹿児島から秋葉実氏など、次々に煙害を何とかしたいという訴えが続いた。

■初のタバコ裁判「嫌煙権訴訟」
 運動の最初の目標は「国鉄(JRの前身)新幹線の半分を禁煙車に」という運動だった。当時新幹線の「こだま号」自由席16号車にたった1両の禁煙車があるのみだったのだ。(1977年3月から)
 国鉄本社を訪ね、禁煙車を設けて欲しいと要請したが「喫煙する方のために」とか「コンピューターがうまく作動できない」などと言い訳ばかりで、一向に禁煙車を設ける意思・意欲がなかったのだ。
 そこで、国会(衆議院)の委員会で草川昭三議員や山田勇議員(横山ノック氏)にお願いして、運輸省に対して質問してもらったが、国鉄の態度は全く変わらなかった。
 そこで、1980年4月7日(WHOデー)、伊佐山芳郎氏が弁護団長となって国鉄と専売公社、厚生省を相手取って「全ての列車の半数以上を禁煙車に」と要求する、我が国初のタバコ裁判「嫌煙権訴訟」を提訴したのである。

■「たばこ問題情報センター」の結成
 その後私は、月刊誌『環境破壊』の発行を中心に、反公害運動と嫌煙権運動の2足のワラジで取り組んでいたが、1985年11月、平山雄、富永祐民、浅野牧茂の各氏や、各地の禁煙・嫌煙権運動に取り組んでいる方々の賛同を得て「たばこ問題情報センター」をスタートさせた。そして、その年の12月に、日本で初のたばこ問題専門誌として『TOPIC』*の発行に踏み切った。
 創刊号で平山博士は「たばこ問題情報センター設立の最大理由は、問題の重要性に加えてその情報の激しい流動性にある。(中略)たばこ問題に対する社会の理性的、良識的対応に、本当の意味で役立つ“機能する情報源”に成長することを目標に努力したいと考える」と巻頭言を寄せて頂いた。『TOPIC』はその後7号まで発行し、国際会議の報告、専門家の意見、弁護士、市民運動家の寄稿などで大きな役割を果たしていった。
 *TOPIC=Tobacco Problems Information Center の頭文字をとって「TOPIC」とした。

■「たばこか健康か世界会議」開く
 1983年にカナダ・ウイニペグで「第5回たばこと健康世界会議」が開催された。この会議では平山雄博士の「非喫煙の妻が、夫が喫煙者の場合、肺がんに罹る率が2.08倍高くなる」という疫学調査報告が最大の話題となって、このセッションの会場は、正に立錐の余地もない超満員の会場となった。
 会議の最終日、北九州から参加された川野正七医師が、次回「第6回世界会議」の開催地として「北九州」を提唱、平山博士のサポートなどもあって、全参加国の了解を得た。
 しかし、残念ながら「北九州」は、日本たばこ産業㈱(JT)や、市議会の横やりで「一旦返上か」という事態になったが、富永祐民博士などの取り組みで、結局1987年11月、東京・経団連会館で4日間「第6回たばこと健康世界会議」が開催された。
 この世界会議を機に、私は『環境破壊』の発行をやめて「禁煙運動」に専念することとなった。
 
■『禁煙ジャーナル』の発行
 1989年1月、平山博士や川野氏と相談して『タバコと健康』の発行に踏切った。『タバコと健康』紙は1991年から現在の『禁煙ジャーナル』に名称を変更し、現在まで34年間にわたって発行を続け、通巻361号(2024年6月号)までの発行を継続している。
 この45年間で、日本の状況は大きく変わった。病院、学校、交通機関、公共の場、野球場、競技場、映画館などの喫煙規制は当たり前となり、タバコのテレビCM、電車の広告、街頭の看板も消えた。
 ※(ただし現在「イメージ広告」は盛んに行われており、国際条約(FCTC)は全く無視されている)

■タバコを吸う人は「哀煙家」
 問題は職場と飲食店である。多くの国々がWHOの勧告や政府の方針で受動喫煙対策を強め、罰則付きで「屋内全面禁煙」を推進している。
 実は、喫煙者の70%以上は、内心「やめられればやめたい」と思っているのだ。喫煙者は決して「煙を愛して」いるわけではない。この「愛煙家」という言葉は、日本専売公社(JTの前身)が、「愛妻家」「愛犬家」というプラスイメージの言葉に「煙」を当てはめて「愛煙家」と提唱したのがルーツなのだ。
 人はいろいろな趣味・嗜好を持っているが「やめたい」と思いながら続けている趣味や嗜好は他にはないと思う。タバコだけが例外で、ニコチンという強い依存性を持つ薬物によって「吸わされている」というのが実態なのだ。「愛煙家」という言葉を早急になくしていくべきであり、私は自身の苦い体験から、45年間を振り返ったとき、“哀しい煙の囚われ人”だったことから「哀煙家」が最も正しい表現だと思っている。
 また、タバコについて、まだまだ多くの日本人は「嗜好品」としてとらえている。この言葉も間違いで、既に岩波の『広辞苑』からも、タバコは「嗜好品」という項目が削除されている。私は、タバコの実態は死に向かう商品であることから「死向品」と主張しており、とげぬき地蔵尊の来馬明規氏が毎年作っている大型カレンダーにも、この言葉が紹介されたこともあった。
 次に、多くの喫煙者が禁煙できない場合の言い訳として「意思が弱くて…」という言葉をよく聞くことがある。私は、この言葉は「思い込みでは…」と申し上げている。タバコ規制がどんどん進み、また家族や周囲の厳しい目、タバコの値上げなど逆風が吹いている中で吸い続けている人は、相当「意思の強い人」ではないか。「私は意思が弱いのでやめたのです」という説得が効果的だったケースが何回かあった。

■タバコの社会的費用は税収の3倍以上
 さて、それではタバコで国は儲かっているのか。医療経済研究機構が数年前にまとめた数字では、タバコによって医療費、火災、メンテナンスなどで、大幅な赤字となっており、タバコの税収が約2兆数千億円に対し、医療費などを合わせたコストは7兆円を上回るという数字を報告していた。国家財政にとっては大赤字となっていることを、メディアがもっと大きく報道すれば、と思うのだが……。

■タバコ規制―消極的な日本政府の姿勢
 WHO(世界保健機関)は、ブルントラント前事務局長が熱心に取り組んで、公衆衛生分野では初めての国際条約である「タバコ規制枠組条約」(FCTC)を提唱した。
 これを、超党派の禁煙推進議員連盟(当時、小宮山洋子事務局長)が後押しして政府を動かした結果、2005年2月27日に発効、すでに10回の「締約国会議」(COP*)も行われている。
 この条約の最大の目的は「タバコ消費の削減」と「屋内全面禁煙」「広告・宣伝の禁止」である。そのために、警告表示の強化、タバコの値上げ、禁煙支援の政策強化などのガイドラインが定められているが、日本政府の姿勢は極めて消極的なのが残念でならない。
 2020年の東京オリンピック開催を機に、ようやく国会で「改正健康増進法」が制定され、また、東京都議会と千葉市議会などでは、政府の甘いタバコ規制対策に対して、かなり厳しい「受動喫煙防止条例」が制定されている。
 いずれにせよタバコは、「最初から吸わない」そして「吸えない」社会環境をめざして取り組んでいくことが最も重要なテーマとなってきたのではないだろうか。 
*COP=Conference of the Perties

 【わたなべ・ふみさと=タバコ問題情報センター代表理事/禁煙ジャーナル編集長/日本禁煙学会理事/全国禁煙推進協議会副会長】
※嫌煙権確立をめざす人びとの会代表 

(2024.6.20)
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