【自由へのひろば】

社会党と第二次世界大戦の戦争責任・歴史認識について
—イヴォ・プルシェエクさんの「質問」に答えたメモ—

    船橋 成幸(元社会党中央執行委員)
    早川 勝(元社会党政策審議会長)
    園田 原三(元村山内閣総理大臣秘書官)
    浜谷 惇(元社会党政策審議会事務局長)

【編集部】 ことし6月、江田五月参議院議員を通じて早稲田大学客員研究員のイヴォ・プルシェエクさんを紹介されました。同氏は古い社会党のことについて研究し、とりわけ旧日本社会党が第二次世界大戦の戦争責任についてどのように考えていたのか、質問リストを持参されました。編集部はこれを受けて、「社会党について勉強会」を続けている社会党本部勤務の経験を持つ友人の4人に託し、「回答メモ」をつくってもらいました。この「回答メモ」は日本の戦争責任や歴史認識などの近現代史を学び直すのに役立つものと考え、質問者本人からも了解を得て以下に掲載することにします。なお、プルシェエクさんの質問は省略しテーマのみとしました。

■1、回答の前提として

 プルシェエクさんは、ドイツの場合と日本との違いに眼を向けながら質問しておられますので、回答の前提として以下、日本の事情の特徴を大まかに説明しておきます。

◇天皇制と戦争責任

 日本の「戦争責任を問う姿勢」の特徴は、(1)天皇制、(2)GHQの民主化推進、(3)総懺悔、(4)被害者意識、の4つの事象が絡み合うところにあったし、今もそうであると思います。中でも(1)の天皇制をめぐる問題が大きな影響をなしていました。

 ドイツの場合は、戦争責任の全てを「ヒトラーとナチス」の罪過に帰することができたことに対して、日本は「軍部の暴走」がきびしく追及され、糾弾されたものの、その暴走を止められず、容認し協力した各界の指導者や「天皇と重臣」などの責任は不問、または曖昧にされてきた。ここに大きな違いがありました。

 ドイツで侵略戦争を進めたナチスの精神的・思想的根拠は「ゲルマン民族の優越性」の極端な強調にあったと思われますが、日本でそれに当たるのは「天皇絶対主義」つまり「天皇は神であり、国民はその赤子(子供)である」というイデオロギーが、日本国民の普遍的精神構造を支えてきたことです。

 日本は明治維新によって封建制を廃し、近代化の扉を開きました。その変革を実際に指導し推進したのは藩閥の下級武士と宮廷官僚の一部でしたが、かれらの幕府に対する闘争は、天皇の権威を利用、それを振りかざすことで力を得て勝利し、国の権力を奪いました。

 もっとさかのぼれば、古代〜中世以降、天皇家は1000年を大きく超える皇統(血統)の継承により最高の権威を得て、神格化されてきました。他方、実際の支配権力は豪族、大名、将軍などが握りましたが、かれらは天皇に対しては形式上「臣従する」制度を続け、自己の権力の正当化、安定化のために利用してきたのです。

 こうした関係は、明治維新以降の日清戦争、日ロ戦争、朝鮮・台湾の併合から第2次大戦に到るまで、ますます強調されて続きました。日本国と国民のあらゆる活動は、天皇の意に従って補佐の義務を負うというのが、表向き、制度上のタテマエでした。そして結果が悪ければ、その責任は天皇ではなく、補佐すべき国民の側が負うべきものとされました。このため、1945年の敗戦後も、しばらくは「国民総懺悔論」(国民全体の努力不足を反省)が有力な世論でした。

 敗戦の日本を占領支配したGHQは、日本に諸制度の民主的改革と非戦の新憲法制定を求めながらも、天皇に対する国民感情に逆らうことで社会が混乱する事態を避けるため、新憲法の制定に際して天皇制を残すこと(=象徴天皇制)を容認しました。
 日本は、1947年に新憲法を制定し、前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」、第9条で「国権の発動たる戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を明記しました。この新憲法の下で現天皇は、政治への関与を離れ、外交儀礼、福祉関係、文化、慰問などの分野で活動し、国民多数の敬愛を受けています。ただ、自民党と他の一部では現憲法を改め「象徴天皇」を「日本国の元首」に定め直そうとする動きがあり、大きな論争を生じそうです。

 戦後、日本国民の世論は、戦争指導者を非難し、かれらを罰すべきだという声も強かったのですが、その声は日本国民が参加できない占領者による軍事裁判に吸収され、緩和されました。その後、日本は1951年講和条約に調印して占領から独立を回復しましたが、時間の経過とともに戦争の「被害者意識」をも持つようになってきたと思います。

 他方、戦死者を祀る靖国神社が極東軍事裁判で死刑判決を受けたA級戦犯者を合祀(1978年)したことから、内外で日本が戦争責任、歴史認識の歴史修正を図ろうとしているのではないかと疑念を持たれる問題が生じています。
 また、1970年代からこの問題が生じていたこともあって、天皇は1975年を最後に、昭和天皇、現天皇は靖国への参拝を行なっていません。

◇米国は戦犯・追放者の範囲をせばめた

 米国は朝鮮戦争勃発とともに、戦争指導者や戦犯、追放者の範囲をせばめ、その影響力を自己の占領目的と戦略のために役立ててきました。(日本の地政的位置が、紛争中の朝鮮半島や冷戦で対立する中国・ソ連に近接していることも、占領者にそうした方策を採用させる一つの根拠だったと思われます。)アメリカが主役の占領者は、日本の国土(軍事基地)と生産力、そして政治家や行政官僚、財界、言論界などの人的資源をも冷戦と朝鮮戦争のために利用する方策を採りました。

◇米国への依存度高めた

 敗戦後、ドイツの国土は東西二つの勢力圏に分割支配されましたが、日本は植民地のすべてを失ったものの、沖縄と北方領土を除く国土の大部分を明治以前の姿で保全することができました。

 戦後まもなく東西冷戦が始まり、朝鮮戦争も勃発しましたが、日本はこれを復興の契機として、高度経済成長への道に向かうことになりました。被占領の時代が終わり、日本もドイツも西側陣営の有力な国家として独立しましたが、日本は安保条約によって、ドイツはNATOによって、程度の違いはあっても、それぞれアメリカの軍事力に依存する同盟関係を続けてきました。現在、ドイツは西欧の大半をまとめたEUの最有力国家として自立の程度を高めていますが、日本は近隣諸国としばしば政治的に対立し、孤立しています。このため、アメリカへの依存度がいっそう深いという点でドイツとは異なります。

■2、戦争・戦後責任の追及と社会党について

<1> 戦争責任の追及について

 社会党は、結党にあたって「戦争に協力した者も含めて結党」とする意見と、「戦争に協力した者を除いて結党」とする意見がありましたが、戦前の無産運動が多くの諸系譜に分裂した苦い経験を反省して無産政党の「大同」によって結党されました。つまり、社会党は、かつて戦争を容認・加担した人(大政翼賛会に参画した人、総選挙で推薦を受けた人等)をも含めて出発したこともあって、戦争責任をきちんと追及できる土壌に弱い面があったと思います。

 したがって、前述した天皇制、GHQによる民主化促進、総懺悔、被害者意識の世論の中にあっても、社会党は戦争責任の追及を徹底すべきでしたが、(1)天皇との関係に対する国民感情を容認、配慮したこと、(2)戦犯への処罰を占領者が行ない、日本の政府や国民は、訴追側に立って裁判に関与することを許されなかったこと、(3)占領者が戦犯、追放者への処罰を緩和、解除することを国民多数が容認したことなどから、占領期においては不徹底なものにとどまりました。
 しかし、この時期にあっても、社会党に参加した青年や社会党を支持する労働運動や農民運動に関わる人たちの間からは「戦争責任に対する曖昧さ」に疑問が提示されてきました。

 また、朝鮮戦争勃発によって自衛隊の創設、民主化の後退、日米関係の深まりを経て占領期が終わり、独立国になってからも政府による軍事基地強化や戦前への回帰を思わせる反動法案に対して、社会党は平和四原則(全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対)の方針を掲げて闘い、また1960年には戦後史上最大の日米安保条約改定反対の闘争を展開する中で、「戦争・戦後責任を問う声」を徐々に大きくしてきました。

 そして社会党は、日韓条約反対、日中国交回復運動、A級戦犯の合祀・靖国神社参拝問題、家永訴訟・教科書問題等の闘いを通じて、歴史認識、戦争責任、謝罪と賠償・戦後処理の問題に積極的に取り組んできました。1995年8月15日に村山富市首相(社会党)が閣議決定した「戦後50年に際しての談話」(「村山談話」)は、社会党の考え方を日本政府の方針にできたという意味ばかりでなく、この「村山談話」がその後の歴代首相・政府の全てによって踏襲され、内外から高く評価されています。

 そういう意味では、ドイツ社民党と日本社会党の同時代的比較もさることながら、時間差をもって比較する視点も必要なことを感じています。
 また、付言すれば自民党は、時代が経過するにつれて、歴史認識、戦争責任の問題を「戦後体制の被害者」として捉えて歴史修正主義をとなえる声を大きくしてきました。それは、ちょうど社会党が「戦争・戦後責任を問う声」を大きくしてきたのと逆の動きでもあります。安倍首相の「戦後レジームからの脱却」はその典型だと言えます。

<2> B・C級戦犯について

 例示された古屋議員の演説が社会党の正式な方針に基づいたものとは言えません。あの演説は余りにも一面的ですが、以下のように言うことはできます。

 B・C級戦犯に対する軍事裁判はかならずしも公正なものではありませんでした。訴追され、処罰されたB・C級戦犯容疑者の中には、(1)自ら進んで残虐な犯行を犯した者、(2)命令に従わなければ自分が処罰されるため、不本意ながら犯行に加わった者、(3)誤解によって訴追された者、が混在していました。このうち(1)への厳罰は当然としても、(2)と(3)については酌量または無罪の措置が採られるべきでした。だが、軍事裁判は、この実態を的確に捉えきれず、不公正な訴追、処罰を行なった事例が少なくはなかったのです。

 かつて軍事裁判でB・C級戦犯の弁護活動に当たった飛鳥田一雄氏(後の社会党委員長)の話によれば、捕虜の米兵の食事に日本の食材である牛蒡(ごぼう)を出したことが「樹木の根を食べさせた」とされ、また、お灸での治療を行なったことが「肌を焼く拷問」と見なされて、いずれも厳罰の対象事犯として訴追されたそうです。

 社会党は、軍事裁判のこのような不公正を正す要求はしても、(1)を含む全面釈放を求めたことはないと思います。古屋議員の演説は、少なくとも党の正規の方針ではありません。

<3> 戦没者の追悼について

 社会党はA級戦犯を合祀した靖国神社に首相や閣僚、その他の要人が参拝することに強く反対し、抗議を重ねてきました。他方、国内外の戦没者を慰霊するため、東京の無名戦士の墓苑に党の代表が毎年、参拝を続けました。また、党独自で反戦・平和のための記念館や博物館を設けてはいませんが、広島、長崎の原爆記念館を始め、全国各地にある同趣旨の施設と、その催しには積極的に参加してきました。多くの反戦平和集会、護憲集会、デモや全国規模の国民大行進なども企画し、推進してきました。

<4> 謝罪と賠償について

 謝罪については、戦後50周年に際しての「村山談話」が的確に述べているので詳しくは申しません。ただ、当時は社会党委員長であり、日本の首相でもあった村山さんの談話は、前述のとおり、村山内閣以後の歴代自民党、民主党政権が「継承する」と表明し、「超タカ派的」な現在の安倍晋三内閣でさえ、それを否定できないほど強い影響力を残しています。
 なお、村山内閣の自・社・さの与党3党の「50年問題プロジェクト」では戦後責任に関する課題と対策(従軍慰安婦問題、サハリン問題等々)が取り組まれました。

 賠償問題について、社会党はその対象諸国の権力者と日本側の関係企業や当局などの間に腐敗した関係があったことを暴露し、国会で追及したことがありますが、賠償それ自体に反対ではなく、実際のすべての被害者に公正な償いをすることを主張してきたのです。これらについては、関係各国との条約締結時前後の国会会議録が参考になると思います。

 韓国や中国に対する賠償についても社会党は同じ態度を貫いてきました。近年になって、過去の賠償に関する交渉や条約が不公正だったとして、見直しを求める声が韓国や中国の人民から出されていますが、今日、その解決は自民党政権の対応如何にかかっています。

<5> 日韓基本条約および在日韓国・朝鮮人の問題、北朝鮮との関係、台湾問題について

(1)社会党がかつて日韓基本条約に反対した最も大きな理由は、この条約が朝鮮半島の全域に適用されるとして、朝鮮の北半分の現実を無視したことにあります。当時から、社会党は「朝鮮の自主的平和統一」を支持する立場をとっており、この条約は、その道をふさぐものとして反対したのです。

 また、当時の韓国政府は軍事独裁政権の性格が強いために社会党が友好・交流の態度をとることはなかったのですが、その後、特に金大中政権以降は民主的政権になり、社会党も積極的に交流してきました。

 さらに付け加えますと、金日成政権時代に社会党は北朝鮮に対して友好的で、朝鮮労働党との間で「東北アジアにおける非核・平和地帯設置の共同宣言」を発表(1981年3月)したこともありますが、その後、核武装や日本の市民の拉致問題が明るみに出て、社会党は強く反発し、交流の道を閉ざしました。

(2)在日の韓国人と朝鮮人に対して、社会党は基本的に平等な扱いをしてきました。両者に対する不当な差別に反対し、特に地方自治体選挙での投票権付与、民族学校への援助と自由の保障などを主張してきました。

(3)社会党は台湾を中国の一部と見なす見解を採り、その政権の「対中敵視」に反対してきましたが、その後、両岸関係の改善が進んだことを歓迎し、従来の基本的見解を変えないものの、台湾の自立的発展は支持する態度を採りました。

<6> 社会党と日教組の関係、家永裁判への態度について

 日教組は社会党と強い支持協力関係にあったし、特に自民党政権が教員に対する「勤務評定」の制度を押し付けたときなど、一体となって強力な反対闘争を展開しました。そのほか自民党政権が教科書検定や教育内容に干渉することには共同で強く反対しました。
 だから当然、家永裁判では最後まで家永氏を支持しました。

<7> 社会党とマルクス主義、ヨーロッパ社会民主主義との関係について

 社会党が公式にマルクス主義の選択を表明したことはありません。ただ社会党の左派(特に社会主義協会)は長い間マルクス主義の強い影響から脱皮することができませんでした。その左派が主張する資本主義から社会主義革命への必然論や「プロレタリアの独裁」に対して、党の大部分はこれを拒否してきました。(協会派が党の主流を制したことはありません。)ドイツ社会民主党が選択した社会民主主義路線とは相当な距離感があったと思います。社会党が社会民主主義路線を明確にしたのは1986年でしたが、公式文書で「社会民主主義」という文言を使ったのは1990年4月5日の党大会で「党規約を改正」が決定されてからでした。

 社会党と社会主義インターとの交流は1948年、戦後、社会主義インターの再結成を準備していた「コミスク」と接触が始まり、1950年に日本社会党の加入が認められています。のちに、社会主義インターの副議長を飛鳥田一雄委員長、田辺誠委員長が副議長が務め、また社会党は民社党とともに1978年には東京で社会主義インターの総会と理事会を開催、1994年にも東京で理事会を開催して、そのホスト役を務めるなど、西欧の社民党とは、どの国の党とも親密な交流が続いていました。

 ドイツ社民党との交流で言えば、社会党は、議員レベルを中心に早い段階から往来があり、社会党政策審議会に一時席を置いたことのある仲井斌氏がドイツに長期に滞在していた際には、連絡交流に当たってくれていました。

<8> 自民党ハト派との関係について

 質問者が名前を挙げられた自民党ハト派の諸氏とは、特に議員レベルでの交流や共同の活動が活発でした。例えば石橋湛山氏は、戦前から、日本の植民地の全面解放を唱え、「小日本主義」を主張するなど、社会党にとっても貴重な示唆と教訓を与えてくれました。その他の人たちも、日中国交回復・友好運動など、社会党と共同の活動を活発に展開しました。こうした関係は、単に経済的利益に役立ったというだけでなく、平和と安定、真の国民的利益に大きく貢献するものだったと言えます。

<9> 汎アジア主義について

 社会党は「汎アジア主義」とは言いませんが、東アジアにおける経済的共同体の構築を主張して来ました。自民党は「アジア重視」といいながらも、実際には「日米同盟を重視」の中のアジア観を根強く持っていたように思います。

 西ドイツ時代から社会党首脳らとの会談でシュミット元首相が「日本は隣国を友人に持たなければ」と幾度となく忠告・提言されていたことを思い出します。かつて社会党は、前述しました自民党のハト派といわれた議員と協力しながら隣国との関係づくりを大事にしてきました。今日、安倍政権は、歴史認識、歴史修正主義、集団的自衛権容認のために憲法解釈変更を閣議決定して、中国や韓国の隣人との軋轢を増幅させていることを見るにつけ、かつて「保守本流」が主導してきた自民党はその姿を根本的に変えてきているのだと思います。

<10> 旧社会党のアーカイブの所在について

 旧社会党本部の建物が解体され、諸資料、出版物の大半は憲政記念館と国会図書館に寄贈され、現在、これら資料の整理が進められている状況と聞いております。一般公開されるまでには相当の期間を要すると思われます。また、旧社会党の「月刊社会党」や「社会新報」のバックナンバーは、社民党本部に保管されていますが、場所が狭いため段ボール等に入れられており、閲覧することは無理だと思います。
 このような理由から、(1)国会図書館(かつて公開された社会党の文献等はその都度、納められており一般公開されており閲覧が可能です。)、(2)大原社研(法政大内)にも社会党時代の印刷物がたくさん保管されています。問い合わせていただくことが良いでしょう。旧社会党幹部、関係者個人の蒐集については、個別に当たるしかありません。  以上

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