【書評】

現代中国社会を深掘りした近著三冊

 『日中の非正規労働をめぐる現在』 石井 知章/編著  御茶の水書房/2019年1月刊
 『中国経済講義』 梶谷 懐/著  中公新書/2018年9月刊
 『現代中国の省察 「百姓」社会の視点から』 李暁東/著  国際書院/2018年8月刊

井上 定彦

 近年、対象にするには少し難しい側面がある現代中国社会について、深掘りした本格的な著作が相次いで公表されている。2005年頃までは、生きている中国社会の変動について生々しく鋭く切り込んだものとして印象づけられるものは、必ずしも多くはなかったように思う(筆者の不勉強のせいかもしれないが)。たしかに、体系性をもつ研究書シリーズがいくつか出てはきていた。自分にとっては啓蒙的側面をもつ現代史概観、あるいは政治思想や外交に焦点をあてたものが多かったように思う。むろん、これらの研究のなかには、抽象のレベルを上げながらも本質的な議論をしていたものが少なからずあったとは思う。

 けれども2010年半ば頃からの、相次いで発行されるようになった(筆者からみれば若手の気鋭ともいえる)いくつかの著作は、それまで言及しにくかった社会の断面・現実をするどく抉り出すようなものが目立つ。長い中国滞在経験のある研究歴をもっている。それまでの日本の研究蓄積と世界の現代中国についての分析、そして社会科学の諸方法をふまえて、むろん中国語をふくむ複数言語に堪能な研究者であること、が共通している。現代中国研究の新世代の台頭、レベルアップを実感している。
 そのなかから、最近手にすることのできた三冊を紹介したい。

◆ 「非正規労働」の日中比較研究からみる
    「プリモダン(前近代)」と「ポストモダン(後期近代)」が混交する社会

 まず、石井知章編著『日中の非正規労働をめぐる現在』(御茶の水書房、2019年1月刊)は、労働分野、なかんずく「非正規労働」という課題に焦点をあてることで、日本と中国の現代に直面している社会断面を切り取ろうとしたものである。
 日本の非正規労働は、安定した近代的雇用関係から疎外された、不本意のパートタイマーやアルバイト、分厚いワーキング・プアを背景に、「結婚できない・しない」社会層を背景に深刻な出生率・人口減少が続くという基本背景となっている。格差社会の広がりと「将来不安」、これらがゼロ成長・デフレ経済の基礎要因であることも、「アベノミクス」が成果をあげえない基本背景であることもいまや誰にも分かってきた。

 他方、中国はかつての日本経済を上回る高成長を30年にわたり続けることで、2010年頃には日本を抜いて「世界の工場」となっていた。しかし、それから10年、巨大な農村部の就業者の都市への流入が徐々に減りはじめ、あるいは農村社会自体も「都市化」が進んで、すでに徐々に成長率の鈍化傾向がすすみ始めた。なによりも農村出身の「初代労働者」ともいうべき農民工をはじめとする大規模な底辺労働者の形成、格差や腐敗も膨らんでゆく超近代ともいえる世界が広がることになっている。

 日本の10%前後の高成長は10年強で終わったが、中国ではこれがすでに30年近く続いてきていたわけだ。産業化・工業化は都市部を中心に、社会の中核をなす近代的雇用者群という階層を生み出す。しかしながら、中国では欧米や日本で現れたような、近代的雇用労働者群の思考方法(階層・階級として共通する価値観・連帯感、企業組織への対抗文化)やそこにもとづく社会保障制度を求める志向、あるいはコアとなる集団的労使関係が、社会的代表性をもって現れてきているようにはみえない。瞬発的なヤマネコ・ストや個人紛争は多発しているものの、全国的規模での労働者運動へと広がることはないようだ。中国の工会・総工会は個別対応的であり、2007年に制定された労働契約法を軸に動いているようだ。

 むしろ特徴的なのは前近代の側面をもつ請負型就業・自営業者が分厚く形成されたままであること、それに加えて、ポストモダン(後期近代)ともいえるようなIT系などの独立契約労働者層零細企業が膨大な規模で広がっている。このような中国の非正規労働の形態は、格差社会の固定化とも連動しており、次第に中国社会経済に対しても、重い影響をあたえつつあるようにみえる。
 中国は従来からの「一人っ子政策」から「二人っ子」に転換されたばかりではあるが、もはや「都市化したライフスタイル」や格差社会のもとでの少子化傾向はさけることはできない。生産年令人口も日本の後を30年後れ、2015年ころから減少傾向にはいっているようだ。

 すなわち、中国は近代化に要した時間が、欧州のように200年、そして遅れて近代化した日本ですら100年かかったのに対し、「超圧縮された近代」として、東アジア世界(韓国、台湾を含む)の困難に通ずる特徴をもってきているように思う。「少子・高齢社会」と「格差社会」の拡大もその一つだ。この巨大社会を独自の統治機構(中国共産党による指導)を維持したままで(あるいはさらに強化して)、社会分裂をはたして回避しうるものかどうか考えさせられる。

◆ 透徹した分析力による中国経済論

 二つ目の本、梶谷懐『中国経済講義』(中公新書、2018年9月刊)は、すでに中国経済分析の第一人者とも目されるようになっている研究者のものである。経済学者らしくオーソドックスな経済分析手法、統計分析を駆使し、また丹念な現地調査をふまえたものである。表層的で揺れ幅の大きい通俗的な議論に対して、冷静で説得力ある見方を提供している。

 導入部では、中国のGDP統計についてふれる。これは精度が高いとはいえないかもしれないが、それはまったくのデタラメではなく一定の傾向をもつ「誤差」を反映したもの(中央・地方関係の制度要因による、地方GDPの水増しなど)であるとみる。そして、直面する中国経済の難問、1)金融リスクを乗り越えられるか、2)不動産バブルをとめられるか、3)経済格差のゆくえ、4)農民工はどこにゆくのか、5)国有企業のゆくえ、6)共産党体制での成長は持続可能か、7)国際社会のなかでの中国と日本関係、という、どれひとつをとっても世界の識者が是非知りたい焦点となるテーマを正面からとりあげている。

 新書版でありながら、体系的な研究書シリーズに匹敵するエッセンスを系統的に記述している。著者の並々ならぬ力量を感じざるをえない。巷にあふれる「中国脅威論」やその裏返しともいえる「中国崩壊論」とはまったくレベルがちがう本格的な分析であることがわかる。中国経済は海外の研究者からみても、国内の研究者からみてもとらえがたく、鳥瞰図的にとらえがたいのも、中国社会・制度(慣行を含む)独特の構造・複雑さ、多様性があるからであり、市場経済について経済学のようなオーソドックスな分析手法で理解しにくい機能・側面がある。

 たとえば、不動産バブルは中央・地方の独自の制度的相違があり、加えてそこには「公」と「民」との独自の関係がある。すなわち、中央の財政金融政策が変更されても、地方の独自の枠外での対応策(「影」の銀行での資金調達)で予期せぬ効果がうまれる。また依然として高い国有企業の比率、「国進民退」といわれるような現象が指摘されながら、実際には旺盛な民間部門の投資や産業活動が中国の発展を支え続けてきた。問題となっているファーウエイも、ハイアールやアリババを含めて「誰もが資本家になれる」と思われる(夢の)ような「大衆資本主義」という側面をもつとみる。

 「一帯・一路」のような中国の対外進出攻勢とも映る動きも、むしろ統一的なグランド・デザインにもとづくプロジェクトというより、上海条約機構、中国・ASEAN自由貿易圏、RCEPのようなバラバラのものを改めて一つの概念の下でとらえ直したもの、という側面が強い。だから最初から新たな中国中心の世界秩序づくりをこのように考えてきていたのではないかというのは、いいすぎだろうということになる。

 しかしながら、中国も現在のように国際社会のなかでのプレゼンスを大きく上昇させてしまったあとでは、それまでと勝手が違ってくる。最近の「米・中貿易戦争」が世界経済の停滞・後退をもたらし、それがまた日本を含む国々にはねかえり、中国経済も足踏みを余儀なくされる、とも読めるわけだ。中国にとって、いまやナショナルな観点にのみ従うのではなく、国際システムに関わる普遍的価値とも対峙してバランスしてゆく必要がある、ということにもなる。

◆ 中国の基層社会;国家と社会の間の独自の「曖昧な」関係

 三冊目の李暁東『現代中国の省察 「百姓」社会の視点から』(国際書院、2018年8月刊)は、上記の中国社会を外国人からみたときの分かりにくさ、「曖昧さ」を含めて、政治・社会思想から接近した労作である。長らく近現代の中国政治思想と日本の政治学の研究を続けてきた著者は、本書では中国社会の基層あるいは下層社会ともいえる「普通の人々」(柳田国男)、すなわち「百姓(ひゃくせい)」の視点から、現代中国の政治思想や社会システムのあり方を考察する。

 中国には、上層社会(「官」)の「閉」・閉鎖性が、その社会政治の大混乱をもたらすもととされる見方がある。上下が一方向ではなく双方向で「通」ずることが重要であるが、徳治ということがその役割をどこまで果たしうるのか。「法治」の観念も、中国基層社会では「徳治」との関係で、西欧的理解をはみだすところが大きいことはよく知られている。ここでは「官と民」「徳と法」は、二項対立的に割り切りにくいわけだ。

 近代中国には「官・民」の間をつなぐキーパーソンとなる「郷紳層」という第三の層が重要な役割を果たし続けてきていたことが知られている。今日の中国の都市部ではそれに代わり「社区」(地域コミュニティ)とそのリーダー群がその役割を果たすようになりつつあることに着目している。「民」の中にある「共同の公」と、いわばお上としての「官」を、この第三の層が媒介して、形式とは違う(上位下達とはならない)意外な社会決定が行われることがしばしばある。これも中国の「制度に埋め込まれた曖昧さ」(加藤弘之)ということかもしれない。

 著者はいう。「国家は基層社会の百姓をはじめとする民の生にこたえるために、「法治」に則って公共性を発揮し、その基層社会の民が「下」から自律的に「共同、公共の公」を構築してゆく。つまり官と民、そして第三領域を含む多元的主体の間の協働による真のガバナンスとが中国社会に活力をもたらす必須条件である」(358頁)。
 難解なところが残るが、丸山真男の後期の思索「日本文化のかくれた形」を読んで首をひねった世代として、共感できるところもある。
 それでも、著者は中国社会の近年の家族を含む大変貌、人間関係に対する価値意識は、今後数十年の単位でみれば大きな変化をとげるにちがいないという。であるとすれば、この制度に埋め込まれた曖昧さも変わりうるものなのかどうか、問いたいところだ。

 最後に付言すれば、これら三冊はいずれも決して「中国三千年の夢」のような見方には同調せず、普遍的思考に立とうと努めている点では共通している。

<参考>
・石井知章/編著『日中の非正規労働をめぐる現在』(御茶の水書房、2019年1月刊、4,900円)
・梶谷懐『中国経済講義』(中公新書、2018年9月刊、880円)
・李暁東『現代中国の省察 「百姓」社会の視点から』(国際書院、2018年8月刊、4,600円)

 (島根県立大学名誉教授)

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