【コラム】
1960年に青春だった(14)
父とゴル父が会ってくれていたという僥倖
平山孝というたいそうな働き者でたいそうな遊び好きがいました。
明治30年生まれ。東京帝国大学法学部卒業後、鉄道省に入省。将来を嘱望され、鉄路事業のマネージメントを学ぶため欧米に派遣され、戻って日本国有鉄道の経営中枢で重用され、東京鉄道局長などいくつものポストを、そして後に東京急行電鉄社長、運輸事務次官などを歴任しました。
その人は、後にボクが父と合わせたいと空想し、しつっこく祈願した方でした。
はなから私事で恐縮ですが、高度成長期、モーレツ・ビジネスマンとなって広告業界でチョコマカしていました。一方で趣味が高じてとよくいう類い、逆手で30年間ゴルフのエチケット&マナー専門の物書きをしていました。
連載、単発、あわせて月10本を超える時期もあったほどです。著書も10点を超え、1999年上梓したエチケット&マナーの集大成となるものは、いまだ版を重ねていたりしています。
編集者が「日本唯一人のゴルフ・エチケット研究家」なるオンリーワンの肩書を考案してくれました。
ボクのもの以前にゴルフ・マナーを著した本は1962年(昭和37年)の随筆集『泣き笑いゴルフ作法』で、書いたのが平山孝さんなのです。
古書市で本を見つけ、ゴルフの父、ゴル父と呼んで慕うようになりました。
ゴルフのウマイ・ヘタは人格には関係がありません。
曰く、ヘタな人は幸いである。ヘタな分、マナーでリカバーするからである。
曰く、自分の球探しは短時間できりあげ、他人の球は長時間探す、そういう心がけの人は幸せである。感謝され、ゲームも早く進むからである。
ゴルフにも福音「草上の垂訓」はあるのです。
平山さんのことをもう少し紹介させてください。ご自身俸給生活者でしたから、サラリーマン・ゴルフの熱心な提唱者でした。赤羽GC、川崎国際CCなど庶民派ゴルフ倶楽部の発起人であり設計者でもありました。
数々の要職にありながら、「忙しいからゴルフができない」という人を平山さんは笑いました。
国鉄東京本局時代、ゴルフ場通いが過ぎて、いや、過ぎていると思った時代遅れの上司に睨まれて、仙台鉄道局へ左遷されました。なぜ仙台かというと、仙台にはまだゴルフコースがなかったからです。
そんなことでゴルフを我慢する人ではありません。土曜の夜行列車で仙台を発ち、日曜の朝に千葉・柏の武蔵野CC六実コースに立ち、現在の海上自衛隊下総航空基地ですが、たっぷり2ラウンドして汗を流し、夜行の車中で睡眠を足らして、月曜の朝には職場に出る、という悠々泰然の毎週でした。
さて明治30年生まれといえば、ボクの父も同じです。静岡県吉永村、現大井川町の海辺の農家の次男。親は、長男には小学校卒で農業を継がせ、次男の父には藤枝農学校へ進ませる、当時の田舎では奇特な考えでした。
東京帝大卒の平山さんとは月とスッポンの中等学校卒ですが。
山里の農学校まで往復7里、28キロ。暗いうちに家を出て、闇の中を戻る。タヌキと声を交わし合ったもんだとよく話していました。
藁ぞうりは一日ですり切れるので学校の周辺以外は裸足。勉強するのは二宮金次郎スタイルで往復の歩きながらと月明かりの窓の下だった、とも。
卒業後、朝鮮の農学校から教員として呼ばれましたが、材木の知識があるのだろうと満州鉄道に誘われ、帰国してからも国鉄で枕木資材一筋となりました。
夜行で発ち、東北地方の山林を見に行く。夜が明けて到着する前、車窓から山林の色合いを見て、伐採の適期かどうかが分かるほどの目利きでした。
現地検査無用と判定した場合、一行は駅前の旅館で晩まで雀卓を囲む。たぶん夜行の時刻まで芸者をあげて朝帰りというスタイルだったのでしょう。
出張先からの朝帰りが多いだけでなく、ふだんでも徹マンの朝帰りが日常茶飯事でしたから、朝ボクたち5人の子どもは食卓の前で畳に手をつき、「お父さん、お帰りなさい」と朝の挨拶をするのが常でした。
父は虚弱児として生まれたほどの小柄でした。
著書の写真で見ると、平山さんもかなり小柄でした。無駄な肉付きがなくて、父とよく似た背格好です。
東北の鉄道局を転々としました。青森、秋田、盛岡、仙台…ですから子どもは5人とも出生地が違います。
あるときボクはふと思いついて、ゾグッとしました。
父とゴル父は同時期、同じ仙台鉄道局にいたことがあるのではないか!
平山さんが欧米を巡ったのは昭和5年まで。本場でゴルフにハマリました。帰国して武蔵野CC六実に入会。彼の地ではふつうなのに、日本ではやり過ぎだと睨まれ、ゴルフ場のない仙台鉄道局へ飛ばされたわけです。
米寿の際にまとめられた父の小冊子を見ると大正12年に仙台鉄道管理局に赴任とあります。兄姉の話だと仙台には3年か4年しかいなかったそうです。
二人が同時期、同じ建物に勤めていたのではないか!という私の期待的空想は数年のすれ違いで弾け、かかりました。
しかし、二人が「出会っていたらよかった」のに、との思いは消えず、やがて二人を「出会わせたい」の思いが募りました。
還暦の小冊子をめくっていて、ゴル父の名前が目に飛び込んできました。
新潟で行われた全国の検査官会議の競演で、私の資材検査の結果が百発百中の正確な成績を残し、当時本省の購買第二課長(後の鉄道次官)平山孝氏が『次官退任後の思い出』という本の中で私のことを枕木検査の「神様」と書かれたことは名誉であった。
父と平山さんは出会っていたではありませんか! しかも、互いに敬いあう関係だったのですから嬉しいではありませんか!
出会いを意味する日本語に2文字ともニテンシンニョウで「邂逅」と書く由緒ある漢熟語があります。2文字ともニンベンで書く「僥倖」とともに思いがけないという意味性が強くこめられた言葉です。
邂逅①。ウチと英国在住のソーントン夫妻はタイのゴルフ場でたまたま同じ組になりました。仲よしになり、お互いの家に寝泊りするようになってはや四半世紀。いまなにより貴く思える友人ですから、邂逅でした。地球の反対側にメールで冗談を交わせる友人がいるという喜びはまさに僥倖です。
邂逅②。2004年は最後のリンクス・コース巡りでした。現地を離れる前日、片田舎のコースでシメのラウンド。1打目を打って歩き出したとき支配人が駆けてきて、いまジョン・スタークから電話があって、ミスター・スズキの都合がよければ午後会おう、との伝言。飛び上がらんばかりでした。
スコットランドで伝統的なゴルフ哲学を説く高名なティーチング・プロ。マネージメント会社の秘書嬢にボクの旅程を送ってアポとりをお願いしました。
老師は電話を持たないワンダラー。彼から連絡がはいったら伝える、とのこと。着いた日にも連絡はなく、ボクは諦めていたのです。
車で4時間、師のコースで取材とレッスン。その近くの山間の牧場に旗を立てただけの秘境コースがある。ねだったところ、明朝8時集合、と二つ返事。
羊の糞の上で歓声あげて打ち興じ、師のゴルフ哲学を教わりました。
その後、秘境から空港への近道を先導してくれて、左右に分かれる橋の上、ボクは大木にとまる蝉(セミ)のようになってハグし、目頭を熱くしました。
なぜこんなに歓待してくださるのか。老師は、君は何年も前から何度も会いたいと便りをくれて、はるばる飛んできてくれたからだよ、と。
願いを念じ続けると、その執念は邂逅につながる。これもその一例です。
邂逅③。オルタ前号に書いたのはヒサノさんとボクとの奇遇物語でした。
意気投合して仕事をしていたある日、二人はじつは16年前にある人の企てで一緒に会社をやるはずだったことが分かって、歳月を遡る邂逅でした。
さすが神様は筋立て巧みなストーリーテラーでいらっしゃる。
そして邂逅④。実父とゴル父。けれども、父は息子の深い感慨を知らない。ゴル父はボクが愛読者になったことも、ゴルフ・エチケット研究家の後継者になったことも知る由もない。ボクが二人を「執念」で出会わせちゃったことなどご存知なく、黄泉のゴルフコースと雀荘でそれぞれにお愉しみのはずです。
神様の手のこんだお話であります。
(元コピーライター)
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