【ポスト・コロナの時代にむけて】

無名の人が世界史をつくる
――カンボジア難民、アフガン難民、津波被災者を支援して――

大賀 敏子

◆ 人道支援で40年

 70歳のスティーブは、妻と一緒にタイに来て40年になるアメリカ人だ。「1979年は何があった年か、覚えていますか」それが最初のあいさつだった。ベトナム軍がカンボジアに侵攻し、推定200万人を虐殺した実態のベールが初めてはがされた年だ。彼は、先陣を切ってタイのカンボジア国境沿いの難民キャンプに駆け付けたキリスト教系NGO(YWAM(Youth with a Mission))の主力メンバーだった。

 なかなか取れなかったビザが90年にやっと取れてからは、カンボジア国内へ。社会主義政権下、西側の人である彼には、見張りの役人がつけられた。クメール・ルージュがいて危ない、水も電気もなくて不便だ、遠いと、いやがるその役人を説得し、プノンペンから300キロ、ラオス国境に近い一帯で、衛生、医療、教育などで活動した。まだ国連も入っていなかった。

 1979年はもう一つ、スティーブの人生を左右する出来事があった。ソ連のアフガニスタン侵攻だ。500万人といわれる人々が、パキスタン、イランへと逃れた。タイ・カンボジアでの活動を指揮しながら、彼は80年代後半から毎年1、2回は定期的にパキスタン、アフガニスタンに入った。それは9.11後も続いた。
 休む間もなく、2004年12月、スマトラ島沖地震が起き、津波がタイ・インドネシアなど広域を襲った。タイのプーケットを足場にして、まだ諸外国の援助が届いていない現場に真っ先に入った。

 スティーブは身体上のハンディがある。テネシー州の中学生だった14歳のとき、バスの下敷きになるという大事故に遭い、腰から右脚に重傷を負った。下肢切断は免れたが、命を奪いかねない火種をいつもかかえていることになった。いまに至るも数年に1回は定期的に外科手術を受け、瘢痕組織を取り除かないと、命を失ってしまう。

 その不自由な体で、彼ははつぎつぎと世界史の大波に立ち向かってきた。導きは、新約聖書にある「善きサマリア人」の隣人愛だ。
 それは概略、こんなたとえだ。ある旅人がエルサレムからの道中、強盗に襲われ身ぐるみはがされたうえ、瀕死の重傷を負って倒れていた。後から同じ道を来た初めの二人は、関わりたくない、急ぐからと、通り過ぎたが、三番目に通りかかったあるサマリア人は、見も知らずのその人を介抱し、ロバに乗せて運び、宿泊と治療の費用も出した。サマリア人は、ユダヤ人からさげすまされていた少数民族だ。

 「隣人への愛とは、食べ物、痛み止め、ワクチン、清潔な水、教育、話を聞くなどいろいろな形をとる。何もできないときは、ただ寄り添うだけでもいい」
 体も心も深く傷ついた難民たちが、少しずつ癒されていくことが、たとえようもない喜びなのだろう。思い出話をするその顔がほころぶ。
 事故のために無理のきかない体になったと運命を呪い続け、人助けどころか、助けられることを当たり前と考える人生もあっただろう。しかし、それを選ばなかった。

◆ プチ・グローバル社会での摩擦

 80年代当時、タイ・カンボジア国境には、国連機関、ドナー国の機関、NGOなど100近い団体が入っていた。重複を避け、弱点をカバーしあう緊密な調整と協力が必要だが、いつもうまくいくとは限らない。
 スティーブは、ある国連職員に「来月からもう来なくていい、バンコクに帰りなさい」と言われたことがある。彼のNGOは国連の下請けではないから、自分たちの事業計画に沿って活動を続けた。しかし、怒りに襲われた。
 国連は、ほとんどのNGOに比べれば、資金、機材、技術、人材が豊かだ。その反面、現地語を学ぼうとせず、通訳を使えば用事が足りると考える。目の前の難民より、気持ちはジュネーブやニューヨークの本部にあるようだ、と。

 NGOと国連は、大目標では一致していても、それぞれマンデート、予算、人繰りなど立ち位置が異なるので、これはごく普通の、現場でありがちな摩擦の一つだったかもしれない。これを言った国連職員も、スティーブたちの撤退を本気で求めていたというより、真の意図は何かの交渉のためのはったりか、やっかみだった可能性もある。

 援助関係者でも容赦のない武装グループの襲撃、マラリアなど感染症、電気・水道もない生活、通じないことの方が多い電話、おまけに体が思うようにならない。いずれも厳しい条件だが、スティーブにとっては、もっともつらいことではなかった。
 一番つらいことは、このようなプチ・グローバル社会で、不正、腐敗、足の引っ張り合い、いがみあいなど、できれば目をそむけていたかった、暗い側面を学ばされたことだ。まっすぐな愛だけでは、すべきことが思うように進まないばかりでなく、つぶされてしまうこともありうるのだと。

 「結局、いったいどんな人を相手にしているのか、それを見極めないといけない」という。
 人を観るとは、出会う人一人一人について、敵なのか味方なのか、役に立つ人なのか、紛争の相手なのかを判定し、それに応じた対応をすることだろう。100パーセント白黒をつけないまでも、案件Aについては味方、案件Bについては要注意、案件Cについては利害が不一致だ、という具合に。

 日本人は一般に、筆者を含めて、会社、職場、同窓会など同じグループに属していると仲間意識をいだき、そこからくる連帯感をエンジョイしがちだ。その分、海外に出ると、対人関係が概して鋭利で、ときにひどく不健康なものになることを痛感させられる。
 その点、スティーブはアメリカ人だったので免疫があったはずだが、それでも、このような、ありきたりの摩擦を避けることができなかった。つまり、彼はスーパーマンのような聖人ではなかったのだ。

◆ 助け合いの輪を広げるために

 コロナウィルスが突き付けた教訓の一つは、孤島で自給自足でもしていないかぎり、人という人がすべて被害者にも加害者にもなりうることだ。誰かが抱えている問題はやがて自分の身に降りかかってくるかもしれないし、自分の問題を自力でどうにか処理しようとしても、他人に影響を与えてしまうことがある。こうして地球での暮らしは、実はお互いに迷惑のかけあいだ。となると、助け合うしかない。

 なるほど人助けは大事だが、自分は自分のことで手一杯で、どこかの奇特な聖人がすることだと思ってしまうことはないだろうか。一方、人助けに携わる人は、その働きが犠牲的であればあるだけ、理解と協力と称賛をもらえて当然だと、そのような気持ちに陥ることはないだろうか。
 共感と助け合いの輪を広げていくには、このような認識のギャップを少しでも埋めていく必要があるのではないか。その意味でスティーブの40年は、示唆と励ましを与えてくれる。

 現場を駆け回ってきたが、勲章をもらったわけでもない。国連幹部や政治家のように、メディアに出て世界的有名人になったわけでもない。普段は、シングルマザー、身寄りのない高齢者、人身売買の被害者などへの地道な支援をしてきたが、NGOビザがいつまで延長され、タイにいられるのかもわからない。しかし、いまさら祖国に帰っても、自宅や親しい友人といったベースがあるわけではない。アメリカ人であるために海外でなにかと有利だったことを差し引いたとしても、これまでの生活はたいへんだった。自分も妻も歳を取ってきた。将来の不安がないわけではない。

 スティーブは超人ではない、ありふれた壁に突き当たり、腹を立てる、無名の70歳だ。ごくありきたりの人でしかないスティーブだが、彼がありきたりの人であればあるだけ、世界の歴史を作っているのは、実はこんな平凡な人たちなのだという真実が垣間見える。
 オルタ広場は「一人ひとりが声をあげて平和を創る」場だ。スティーブに、私を通して、こうして声を上げてもらうことにしたのは、このためだ。

 (元国連職員・バンコク在住)
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