【コラム】『論語』のわき道(40)
災禍再々(三)
参考までに、すでに表示したものですが、昭和12年から23年までの間に起きた自然災害のうち、犠牲者の数が多いものも概要を記します。発生年--名称等--犠牲者の人数の順です。犠牲者については、死亡者・行方不明者の合計としています。
昭和13年 阪神大水害 715人
昭和14年 朝鮮半島の大規模旱魃 ―
昭和16年 東北地方の冷害 ―
昭和17年 周防灘台風 1,158人
昭和18年 鳥取地震 1,083人
昭和19年 東南海地震 1,223人
昭和20年 三河地震 2,306人
〃 枕崎台風 3,756人
昭和21年 南海地震 1,443人
昭和22年 カスリーン台風 1,930人
昭和23年 福井地震 3,763人
〃 アイオン台風 838人
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日本が本格的な戦時体制に入った昭和13年から敗戦をまたいで23年までの11年間に起こった大きな自然災害をみてきた。
規模の大きな地震や台風・水害が、ほぼ毎年発生していたことに驚かされるが、思えばわが国はその後も毎年といっていいほど自然災害には見舞われている。この11年間についていえば、発生頻度よりもむしろ犠牲者の数の大きさが注目される。
「阪神大水害」の犠牲者の数(715人超)を超える台風や水害はこの11年間だけで5件を数える。しかしその後、昭和24年以降今日までの70年余の間で、それほど多くの犠牲者を数えるのはわずか7件のみである。また、犠牲者の数が千人を超える大地震は、この11年間に5件起きているが、福井地震よりあと半世紀近く、そうした規模の地震は一度も起きていない。47年後の平成4年(1975年)に阪神淡路大震災があり、さらにその16年後に東日本大震災が発生している。今日まで犠牲者の数が福井地震を上回る地震といえば、この二つだけなのである。
戦中および敗戦直後の11年間は自然災害という視点で見ると、特異な時期といえる。
当たり前の話だが、戦争と自然災害の発生との間には、本来は何の因果関係もない。しかし、災害犠牲者の数には戦争が影響している部分はありそうだ。
まず思いつくのは、戦中戦後という特殊な時期であれば一般の救急医療の態勢は平時よりも脆弱だったはずで、そのことが犠牲を増やした面もあっただろうということである。しかし、この理由によって犠牲者がどの程度増えたのかはわからない。
台風・水害に関していえば、戦争によって惹き起こされた山林の荒廃が、災害および犠牲者の増大をもたらしたと思われる。
木材は軍需物資である。たとえば戦艦大和や武蔵のデッキには檜材が張られていた(戦艦ミズーリのデッキも写真で見ると木製のようだ)。
蛇足ながら、鉱物資源が乏しいわが国にあって、戦時には木材は通常の用途を超えて過大な使命までを負わされる。昭和十八年のミッドウェー島沖とガダルカナル島沖との二つの海戦においてわが国の連合艦隊は大敗する。以後、わが国は制空・制海権を失い、南方からの金属資源の輸入もままならなくなる。そのための苦肉の策であったのだろうか、戦闘機までを木材で造るなどということが試みられた。昭和20年8月4日の朝日新聞一面には「本土決戦へ 入魂の木製機 続々生産」との見出しで写真と記事が載っている。「入魂の」とはなんとも日本的だが……。
木製の戦闘機は7月から量産化に入ったらしいが、実戦には使われることなく終わったらしい。
木材の軍需用途は、艦船・武器ばかりではなく、建物・什器、輜重(しちょう)用資材など広範囲にわたる。このため戦争は膨大な量の木材を費やす。それが山林の荒廃につながった。日華事変の勃発以後、森林の伐採面積は増え始める。昭和16年から18年まで3年間の平均伐採面積は、戦前5年間の平均に対して1.6倍から1.8倍近くになる。昭和19年には非常伐採計画なるものが立案されて、民有林を国が、時には軍が、伐採するようなことも行われたようだ。
伐採によって山は荒れ果て、山林がもつ保水機能が失われる。降った雨は一気に流れ下るし、山自体も脆くなってしまう。このことが水害を起こりやすくし、また被害を大きくしたことは間違いないだろう。
ちなみに、敗戦後の復興にとっても木材は欠かせなかったために、戦争が終わった後もわが国の森林はなお衰退していく。第1回全国植樹祭が開催され、緑の羽根募金(平成7年以降は「緑の募金」)がスタートしたのは昭和25年である。
台風・水害被害に関しては、もう一つ、戦時における気象情報の報道規制がかかわった可能性がある。
米英との開戦以来、軍は天気予報を含めた気象情報を一般向けに報道することを禁止した。早い話、人々は台風が来てから慌てるという始末になってしまう。これも被害の拡大につながったことだろう。
戦争が地震の被害に直接的に影響するとは考えにくい。しかし、東海地方を襲った連続地震(東南海・三河・南海)の被害をめぐっては戦時特有の事情が垣間見える。
東南海地震で倒壊した大規模な建物に、中島飛行機・山方工場(半田市)、三菱重工業・道徳飛行機工場(名古屋市南区)がある。これらは、いずれも紡績工場を転用したものであった。そのままでは飛行機の製造工場としては狭いため、壁や柱を取り除くことで必要なスペースを確保したという。こうした耐震性を無視した改装工事が倒壊の原因になったとされている。また、軍需工場ということから機密保持などのために人の出入口は特別なつくりにしたようだ。間口を狭く、しかも扉を開けた時でも内部が素通しにならないような構造であったという。狭く折れ曲がった出口の構造が、揺れを感じて逃げ出した人々の避難を妨げて、犠牲者を増やしたということもあったようだ。
三河地震では疎開児童が犠牲になっている。お寺の本堂などに布団を並べて眠っていた児童たちが、建物の倒壊によって圧死している。午前3時38分という地震発生時刻もわざわいした。被害者の全容が正確に残されていないようだが、近年の研究調査では、疎開児童の犠牲者はほぼ百人にのぼるという。
繰り返しになるが、戦争と自然災害の発生自体には何の関連性もないことは確かだ。しかし、災害による犠牲の大きさには戦争は直接、間接に係わるといえよう。
戦禍の中、自然災害にまでみまわれた人々にとっては被害への対処の苦労も一入だっただろう。さらに、自然災害が本来的にもっている不条理性を受け容れることは一層困難であっただろう。枕崎台風で大きな被害をこうむった呉市民の声は印象的である。
「何故、天はこうまで我々を苦しめ抜かねばならぬのだろうか。神は平和なときにのみあるものなのだろうか」。
自然災害について天譴(てんけん)という考え方がある(あったというべきかもしれないが、今でもしっぽの痕跡が残っているようなので……)。
天とは「天は人の上に人を造らず」の天、譴(けん)はお役人の懲戒処分に「けん責」というのがあるが、あの「けん」。つまりは天のお叱りといった概念である。もともとは古代中国の思想。大雑把な理解だが、統治者の地位は天命に基づくという前提に立って、もし命を受けたものが悪政を行えば、天は懲らしめのために災害を起こす、そういった内容のようである。
日本にも伝来し、天平6(734)年、大和・畿内地方に起こった大きな地震に対して、聖武天皇が「御自責の詔」を発せられているそうだ。
ところが、わが国ではいつの間にか、お叱りを受けるのは統治者ではなく、国民みんなという風に変質したようだ。自分たちが至らなかった、わたしたちに落ち度があった。だから天からのお叱りを受けた、あるいはかみさまの罰(ばち)がくだった、そのようにとらえられるようになる。
関東大震災後には内村鑑三をはじめ、知識人といわれる人々がこの天譴論を唱えた。当時のわが国は第一次世界大戦の戦勝国として「五大国」の一員という自負がうまれていた。経済的には、工業生産や輸出が急激に伸び、重化学工業化も大いに進展した。それを反映した殷賑が社会の様相に大きな変貌を招き、都会を中心として贅沢や放縦の世相が生まれた(大正バブルと呼ばれる)。こうした社会のあり方に批判的であった人から、大震災は天の戒めなのだという論が盛んに展開されたのだ。
東日本大震災の折に飛び出した石原慎太郎(当時は東京都知事)の「天罰だと思う」の発言(のちに陳謝して撤回した)も記憶に新しい。
天譴というかどうかはともかく、自然災害というものは、天や「かみ」といった絶対的な超越者によってもたらされるものであって、人間は抗いようがない、何事も運命とあきらめるしか、しようがない……。このような災害感が日本人のこころの隅っこにはあるような気がする。
戦時あるいは敗戦直後という混乱期の只中、自然災害の不幸に打ちのめされながらも、黙々と復興・再建にたち向かった人々を思いながら、そんなことを考えた。
(了)
(2022.9.20)
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