【投稿】

火野葦平と昭和天皇との磁場

田中 七四郎


 今回は、火野葦平と昭和天皇との関係を磁場エネルギーの側面から管見してみたい。火野葦平(1906~1960、以下あしへい)が天皇陛下(昭和天皇)について自己の考え・感慨について正面きって詳しく論評した作品を筆者は寡聞にして知らない。唯一『河童会議』という作品に「天皇(昭和―、筆者注)とともに笑った二時間」という会見録が残っている。昭和天皇の御前で河童の話などをしたもので、どこにも発表されておらず、『河童会議』のために書き下ろししたものである(あとがき 昭和32(1957)年8月15日記)。この会見録をテキストにして考えてみたい。

◆ Ⅰ.天皇とともに笑った二時間
  (『河童会議』文藝春秋新社、昭和33(1958)年3月30日印刷、4月10日発行)

 舞台は皇居吹上御苑内「花蔭亭」、時は昭和32(1957)年4月17日、同席者は徳川夢声(1894(明治27)年4月13日-1971(昭和46)年8月1日)、活動写真弁士)氏、吉川英治(1892(明治25)年8月11日-1962(昭和37)年9月7日)、小説家)、獅子文六(1893(明治26)年7月1日-1969(昭和44)年12月13日)、小説家)、サトウ・ハチロー(1903(明治36)年5月23日-1973(昭和48)年11月13日)、詩人)各氏とあしへいの5名である。司会は徳川夢声、どんな話をするか事前に打ち合わせして、戦争(昭和の)の話、政治に関する話はしない、当日は普通の服装―背広でよい、などと聞かされた。
 それでもあしへいは当日が近づいてくるといろいろ思案されて<頭がうずいた>。前日になって覚悟を決めた。Yシャツ、チョッキ、ネクタイなど一切合財、新調しない。着古した洋服を選択し、プレスだけして、靴も頭髪も今まで通りこのままで行こうと決心した。火野葦平という人間を見ていただこうと決めた。

 さて当日、あしへいから見た印象は、陛下の服装全体を通じて、<いかにも質素な―ザックバランにいうと、ぜいたくとかけはなれた皇室のきよらかな貧乏というか、そういうものがハッキリ陛下の全体のお姿に見うけられた。・・・猫背の身体をを前屈みにして、話をする人のほうを向いて、熱心にきかれる。何ともいえない親しみ深さ、いかめしさとか、形式ばったとこととかはすこしも感じられない様子、そのなごやさは、一ぺんに座の空気と、私の気持とをほぐした。>
 司会の徳川夢声が、<ではお話(放談会、司会者のことば)をはじめる前にご紹介申上げます>といって出席者それぞれを紹介した。あしへいは昭和天皇とは二度目の拝見であったが口を利いたのははじめてであった。起ちあがって陛下にお辞儀をして「火野葦平でございます」、とご挨拶を申し上げた。<何かまぶしくて、まともに陛下の顔が見ておれなかった。>それから放談会は、冒頭、出席者の歳のことや、孫の人数のことやから和やかにはじまった。陛下も<「(孫は)わたしは六人」とハッキリおっしゃた。>

 それから司会の夢声老があしへいの方を見て、<「どうですか、あなたはだいぶんウナギのことについて研究をしておるらしいが、同じ海の生物を採取される陛下に、ウナギの話でもなさっては・・・」>と突然矛先があしへいに振られてきた。あしへいはドギマギして困ったけれどもう仕方がなかった。覚悟をきめて陛下の方を向いて、毎日新聞に『赤道祭』という連載小説を書いたエピソードなどをお話した。ウナギの話から自然に蒲焼の話になって座が大いに盛り上がった。
 その後司会の夢声さんはあしへいに、陛下にこの辺で得意のカッパの話を・・・とうまく引き出すように持ちかけてきた。あしへいは、<また、おどろいたけれども、もう最初、部屋に入ったときの気持とはずいぶん変っていた。かたくなっていた気持がほぐれ、座のなごやかな雰囲気、話をお聞きになる陛下の御熱心な態度、しかもうちとけた御様子などによって、まるでいつもの友だちと、家で話をするときのような気持ちが蘇っていた。>

 あしへいは、おしゃべりになった自分に気づいたが、行きがかり上仕方がない、陛下がカッパにご興味をもたれておられることを確認した上でカッパにまつわる話―九州若松の高塔山のカッパ封じの石の地蔵さんの話や、九州筑後川のカッパや宮崎椎葉の平家部落のカッパの話などを申し上げた。それからカッパの話から鯉取り名人の話や九州の方言、鹿児島、博多、筑後弁、筑豊弁、琉球のことばの話などへ座の空気は大いに発展していった。時間は二時間ほど経った。司会の夢声さんが「・・・陛下もお疲れのご様子にお見受けしますから、この辺で終ることにいたしましょう」と宣言して放談会は無事お開きとなった。
 あしへいは終ってほっとした気持ちになった。同時にしゃべりしすぎて、<いわなくてもいいようなことをいったような気がし、赤面する気持もあった。しかし、陛下の間近で、自由勝手な話ができた、ということは、私の戦争中からつづいて来ている気持の一つのはけ口(注:太字著者)としてなにがなし、心の窓がひらけたような喜びがあった。>と強い感銘をおぼえた。

 <その後、若松河伯洞に帰ると、母親も、女房も、家族も、友人知己も、たいへんよろこんでくれた。・・・それから東京の夢声さんに電話をかけて、お礼を云ったところ、母親も電話に出て、「まことに今回はありがとうございました」といって、涙を流した。夢声さんが、「陛下が今回の放談会を非常によろこばれ、特に火野の話が面白かったといわれたそうです」と言ったとかで、母親は、声を出して泣いていた。>
 <その後同席した入江相政侍従から手紙があり、「あなたが生物学研究所を見学したい旨、陛下に申し上げたところ、いつでも来るようにということですから、お電話ででもおいでになる日を連絡して下さい」という意味が認めてあった。・・・私はすぐにお礼の返事を出したが、その終りに、「陛下になにとぞよろしく」と書き加えた。しかし、まだ、生物学研究所へは行っていない。涼しくなってからでも出かけたいと考えている。(昭和32年8月15日記)>

 『河童会議』は、昭和33(1958)年4月、あしへいが亡くなる1年9ケ月前、51歳の時、文藝春秋新社より発行された。

◆ Ⅱ.誠実主義者あしへい

 あしへいは(昭和)天皇の御前でも他の人前と変わらず、飾らず、臆せず、はっきりと申し上げている感じがする。あしへい自身、<戦前、戦中、戦後も変わらぬ立場―ヒューマニズムを守りつづけてゐます。>(昭和24(1949)年5月、公職追放該当者仮指定特免申請理由書)と述べている。あしへいの言うヒューマニズムとは、彼自身「誠実主義」と表わしているように、あしへいの『魔の河』(1957(昭和32)年10月)における<悲劇の共感>と<誠実主義>に通じるものがあると筆者は考える(『あしへい18』、P87)。あしへいは、「襤褸(らんる)の人」であると鶴島正男(1926-2006)は表現した。筆者は、頓着しないのは襤褸の衣服の面だけではなく、どんな人前でもどんな時代でも頓着しない(ぶれない)立場―誠実主義が背骨にあったのではないかと考える。この作品(会見録)は<戦争中、祖国と陛下のために、全力を傾けて戦った兵隊としての気持ちで、この記録を書いた。>という。あしへいの誠実主義が(昭和)天皇の御前でも如何なく顕われているのではなかろうか。

Ⅲ. 今上天皇(陛下)の「お気持ち(おことば)」に想う

 今夏(2016年)、今上天皇陛下の生前退位の意向が強くにじむ「お気持ち(おことば)」が報じられ、改めて象徴天皇、天皇制システムについて考えさせられた。今回の陛下のメッセージの背景には、報道(メディア)によれば、陛下は5、6年前から退位の意向を漏らされていた、また陛下のご高齢による体力の限界、健康上の問題、公務多忙な問題、が挙げられているという。

 筆者には「お気持ち」にはもう一つ重くて深いメッセージがこめられていると思えてならない。昭和天皇がついになし得なかった苦悩―昭和の戦争で犠牲になった人々、被害にあわれた人々、日本人のみに限らず敵対国の人々、現地の人々、を悼む、に対する戦争責任問題―に対して、天皇家を継承した今上天皇が亡父・昭和天皇に代わって体現されたのではないかと拝察するものである。
 敗戦直後の国内事情や当時の連合国軍最高司令官などとの複雑な外交事情から昭和天皇がなしえなかったことを、昨年のパラオ、今年のフィリッピンへの慰霊の旅を一つの区切りとして、昭和天皇のご遺志を全うし、天皇家に課せられていた歴史的責務を果たされたのではなかろうか。それには戦後70年という永い忍耐=寛容さの年数が必要ではなかったろうか。この責務感と寛容さこそが天皇制システムをして1,000年超を持続可能にしている源泉ではなかろうか。明治以来の近・現代の日本国民が喪失している自己責任感と寛容さを天皇家はことばではなく行動(皇道)でもって日本人に示されているのではないだろうか。

 かつてあしへいは終戦翌月の9月(昭和20(1945)年)はじめの朝日新聞に、<・・・いま、日本が何故敗れたかということが論じられるようになったが、・・・原因の底に、・・・疑いもなく、(日本人の、筆者注)道義の頽廃と、節操の欠如であった。>(「悲しき兵隊」)と明確に決め付けている。もし今日あしへいが生きていたなら、今上天皇の「お気持ち」と昭和天皇の「誠実主義」とについていかな感慨・思いをもたれるであろうか。 合掌。

<参考文献>
『河童会議』火野葦平、文藝春秋新社、昭和33(1958)年3月30日印刷、4月10日発行、¥290
『象徴としてのお努めについての天皇陛下お言葉』(宮内庁(平成28年)8月8日発表・全文)、2016年8月9日、朝日新聞
『日の沈む国から』―政治・社会論集、加藤典洋、岩波書店、2016年8月4日発行、¥2,000

 (河伯洞会員)

※この記事は「火野葦平の戦争責任観シリーズ-6」を著者が転載を希望して投稿されたもので文責はオルタ編集部にあります。


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