【コラム】『論語』のわき道(53)

漢字の運命

竹本 泰則
 
 齢を重ねたせいか、識らない漢字を新たに覚えようなどという意欲がない。忘れる漢字はとめどない。知っているはずの字が出てこない。辞書を開いても細かな部分はよく見えない。
 使い慣れたはずの漢字だが今ではその厄介さが気に障るようになってきた。

 漢字は、中国大陸の黄河流域に一大文明を築き上げた漢民族が創り出し、使っていたもの。文字をもっていなかった我々の遠い祖先は、大陸・朝鮮半島との交流を通じて漢字に接しました。自分たちが話す言葉を書きあらわす具として漢字を採用したのは、ほとんど自然の成り行きといえるものだったのでしょう。ほかの選択肢はなかったのではないかと思います。
 我が国で漢字が用いられた最古の歴史資料は稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣に刻まれた115文字の漢字で、1550年くらい昔のものだそうです。
 
 わたしたちが話す言葉やその使い方は日本人固有のものであり、漢民族の言語や話法とは異なる。「我破」と書いた場合、漢語であれば「私は相手を破った」のか「私は負けてしまった(我、破れたり)」なのか不明、しかも過去のことを言っているのか、先のことを言っているのかも不明。一方、日本語には時制があり、動詞・形容詞などには活用もある。漢字さえあれば日本語を書き表すことができるということにはなりません。
 このため、我が祖先は「かな」を作り出しました。多くの時間を積み重ねた尊い努力があってのことでしょう。しかし、ひらがな、カタカナのいずれにしても、漢字体の「くずし」あるいは字画の簡略化であり、いわば「亜流」の文字といった位置づけで、あくまで漢字が格上であったようです。
 わが国の学問といえば、江戸時代までは一貫して漢籍を読むことが中心であり、そのためには漢字を知ることが欠かせなかった。
 こんな話があります。頃は明治。大学を卒業したあと大学院に進むことを決心した若者が故郷に帰り、そのことを報告します。それを伝え聞いた村人たちは「大学を出てもまだ読めない字があるのかね」と驚き入ったというのです。当時の人々にとっては、学問とは難しい漢字を覚えることであったという話です。
 
 そのような漢字ですが、幕末から明治にかけては逆風にさらされ続けます。
 嚆矢は前島密による「漢字廃止論」です。前島は幕末の慶応二年(1866年)に「漢字御廃止之議」を徳川慶喜に献じ、明治二年には政府に対して、かなを国字とするよう建議しています。
 その後、明治の代になると漢字をめぐる議論は一層盛んになります。
 わが国最初の内閣である第一次伊藤内閣で初代文部大臣をつとめたのが森有礼。この人は、漢字どころか、日本の国の言葉を英語に変えることを主張した人ですが、明治六年に啓蒙思想家の西村茂樹とともに、明六社という団体を設立しています。この結社には当時の代表的な知識人たち(西周、中村正直、加藤弘之、福澤諭吉など)が参画していますが、ここから『明六雑誌』という啓蒙雑誌が出版されます。また、明治二十八年にはわが国最初の総合雑誌『太陽』が発行され(博文館)、これには広い分野の指導的な人々が寄稿しています。これらを通じて、漢字使用に関する当時の代表的な主張がみられるようです。
 先行の『明六雑誌』で西周ほかによる漢字廃止、漢字制限の主張が展開されます。こうした漢字批判の流れは、日清戦争終結後から大正期まで続く『太陽』に引き継がれています。ただ時代が移ると論調には変化が見られといいます。『明六雑誌』のころにはあまり認識されていなかった用字としての漢字と漢学、儒教とを区別して考える傾向が『太陽』などでは強くなったようです。
 維新前後は、西洋列強との力の差を目の当たりにして、それまで漢学一辺倒であったことへの反動から、ともかくも近代化(それは「西洋化」でもあった)を急いでいた時代であり、『明六雑誌』はそれを反映している。一方、『太陽』の方は国の存立に自信のようなものをもち始めた時代の落ち着きが映し出されている、そんな風にも感じられます。
 
 それはともかく、渦巻く漢字批判の中で福澤諭吉も漢字制限論を発表しています。
 曰く、「日本に仮名の文字ありながら漢字を交え用いるは甚だ不都合なれども、… 今俄かにこれを廃せんとするもまた不都合なり」。
 「今より次第に漢字を廃するの用意専一なるべし。その用意とは文章を書くにむづかしい漢字をばなるたけ用いざるよう心がけることなり。むづかしい字さえ用いざれば、漢字の数は二千か三千にて沢山なるべし」、と。
 はからずも、その後の漢字にかかわる施策は福沢の言葉に重なっていきます。漢字は、用字数を制限する策によって命運を保ったのです。
 
 漢字の字数制限は学校教育の分野で先行しました。明治三十三年(1900年)には「小学校令施行規則」によって、小学校で教える漢字数は1200字に制限されています。ところが、この規則では仮名遣いを表音式に改めるという改定も行われました。それによって「学校」はそれまで「がくかう」であったものが「がっこー」となり、「こーちょー」(校長)、「いーえ」(いいえ)などといったように長音を棒引きの符号で表記するとされたのです。こうしたことへの反対意見が強く、漢字制限・仮名づかいの改定とも11年後には廃止されます。
 一般に用いられる漢字に対しては、大正末から戦前にかけて字数制限に向けての動きがはじまります。
 大正十二年(1923年)五月に公布された官報にて「常用漢字」1962字が発表されています。この時代の漢字は「旧字体」。体は體、芸は藝で医は醫。弁に至っては、意味によって辯のほかに辨・辯の使い分けが必要でした。このときの官報には、いま例示した字を含む154字について、字体を簡略化したものが「略字表」としてまとめられています。しかし、この策は施行日とされた9月1日に関東大震災が起こったために実現しないままに終わったようです。それでも、この動きに呼応して新聞社、出版界は漢字制限に取り組んでいます。大正十四年当時の新聞における使用漢字は約6000字もあったのだそうです。
 常用漢字の字数は、その後昭和六年(1931年)に1858字となります。
 
 いろいろな議論がある中にも、命運を保ってきた漢字ですが終戦を機にその存在が危うくなります。
 昭和二十年八月十四日、御前会議においてポツダム宣言の受諾の決定を受けて、鈴木貫太郎内閣は総辞職します。その後継の東久邇宮稔彦王内閣によって戦後処理(軍の武装解除、連合国軍の進駐受け入れ、降伏文書の調印(九月二日)など)がおこなわれます。
 米軍を主体とする連合国軍の進駐は、九月初めの首都・東京を含む関東圏を皮切りに、中旬以降には地方都市、十月の初めには日本列島全体が進駐軍の制圧下に入ります。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領政治が始まりました。
 十月四日、GHQは治安維持法の廃止、政治犯・思想犯の釈放、内務大臣及び同省幹部の罷免などを指令。組閣から間もない東久邇宮内閣はこれに抵抗して五日に総辞職、幣原喜重郎が後継首相となります。
 内閣発足の二日後にGHQを訪ねた幣原との会談の中で、マッカーサー司令官は、婦人解放、労働組合結成奨励、経済民主化(農地解放、財閥解体ほか)など「五大改革」と呼ばれる民主化指令を伝えます。そこには「学校教育民主化」も含まれていました。
 この後GHQは、教育関連の分野においても矢継ぎ早に指令を出します。
 戦前に自由主義的あるいは反軍的言動のゆえに解職された教職員の復職、教科書・教材の中にみられる軍国主義や極端な国家主義的イデオロギーを助長するような箇所の削除、そうした思想をもつ教職員の排除、さらには国家神道・神社神道に対する支援の廃止などです。年末には修身、日本歴史、地理の学科中止も指令しています。
 その一方で、GHQはアメリカ本国に対して教育使節団の派遣を要請します。
 来日した使節団による勧告書の中には、漢字およびかなの使用に関する勧告が含まれていました。
 (次号に続く)

(2023.10.20)
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