【コラム】
神社の源流を訪ねて(24)

滋賀県 長浜市余呉の新羅崎神社と鉛練比古神社(えれひこ)

栗原 猛

◆ 天日槍(あまのひぼこ)余呉湖を開拓

 余呉の湖の穏やかな湖面は、鏡のようであると称される。周囲6.4キロほどなので、JR余呉駅で自転車を借りて1時間ちょっとで回った。この辺一帯は「白木の森」と呼ばれ、湖面に沿っているためか明るい森で、白木は新羅のこととされている。
 「近江伊香郡志」によると、「天日槍、新羅より来り、中之郷に止り、坂口郷の山を切り、余呉湖の水を排して湖面を四分の一とし、田畑を開拓し余呉之庄と名づけし、という伝説あり」と記す。「湖面を四分の一にする」とあるから、往時、湖はもっと大きかったことになる。干拓やコメ作りの技術者も同行していたのだろう。

 この森にあった新羅崎神社は、明治の神社合祀で別の神社に移されたが、痕跡でもあれば見たいと思った。ほどなく木立のなかに新羅崎神社舊跡と彫られた石柱と、苔むした石段の跡が見つかった。
 郷土史家の朴鐘鳴編の「滋賀のなかの朝鮮」によると、祭神は新羅からの渡来人である天日槍で、明治末期の神社統合のおりに廃止され、川並村の北野神社に合祀された」とある。明治政府の神社統合は徹底していたらしい。新羅とか高麗という名前の神社が別の神社に合祀され、例えば静岡県大磯町の古社、高来神社はかつては高麗神社だった。近くに高麗山があり頂上には高麗神社が祀られる。高来神社のあるあたりは高麗一丁目、二丁目もある。
 新羅崎神社の創祀だが、江戸時代の「近江璵地志略」には、「祭神はスサノヲノ命にして新羅明神也」とあり、今でもこの地方の人々は自分たちは、新羅王族の子孫という伝承を誇りにしているという。

 余呉は三保の松原、丹後の奈具の松原とともに羽衣三大伝説の地とされる。ただ余呉では羽衣を掛けた木は松ではなく、マルバヤナギの木といい、柳のように垂れずに枝を四方に伸ばす別品種の柳である。

 JR余呉駅から数百メートルの地にある中之郷集落の鉛練比古神社(えれひこ)も天日槍が主祭神である。鉛練とは、金属との関係をうかがわせるが、近くの金糞山(1,317メートル)の周辺には、鉄の採掘跡や製鉄の跡などが見つかっている。

 帰りの電車の時間が近づいたが、前から気になっていたJR余呉駅の近くにある、長浜市木之本の黒田集落の黒田官兵衛ゆかりの黒田神社を駆け足で訪ねた。神社の由緒書には「欽明天皇540年に創始」とあり、「近江源氏の佐々木氏の後裔である源宗清がこの地を領し、姓を地名の黒田からとり黒田と称した」とある。
 つまり福岡黒田藩の黒田武士は近江源氏の佐々木氏に連なり、その佐々木氏は新羅神社を尊崇してきたので名門、黒田武士は往古、新羅からの渡来人ということになるかもしれない。

 (元共同通信編集委員)

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