■ 【オルタのこだま】                     

中国深センの今昔           今井 正敏

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  「オルタ」に毎号、深センから送られてくる佐藤美和子さんのレポートは日本
の一般紙では伝えられない中国市民の生活ぶりが伝わってくるので読むのを毎
月楽しみにしています。

  佐藤さんは改革開放政策でつくられた大都市深センで8年目になり、いまは
「32階建てが15棟、少なくも3500世帯はあろうかという巨大マンション」に
住まわれていてスーパーからスポーツジムまで何でも揃った所のようです。
  この深センは1972年(昭和47年)に日中の国交が正常化するまでは、日本
から中国に行くときには香港経由が唯一のルートでこの深センで入国手続きし
たのです。また、戦後日本政府は中華人民共和国の国名が入ったパスポートを発
行しなかったので、中国側の正式な招待状がなければ中国に入れませんでした。
  私が初めて訪中したのは1956年(昭和31年)に中国民主青年連合会(中青
連)が日本青年団協議会(日青協)の50名を招待したときにメンバーとして参
加したときです。羽田から香港に飛び、列車で中国国境まで行き、国境の川を歩
いて渡ると中国側の管理事務所があり、そこに中国側の人が迎えに来ているとい
う仕組みでした。当時迎えに来られたのは後年、日本駐在大使を勤められた楊振
亜さんで肩書きは中青連の日本課長でした。

  日本政府は私たちの代表団にも中華人民共和国の国名が入ったパスポートを
発行しなかったので、日青協は政府自民党と半年がかりで強力に交渉し人数を
25名に減らすことで妥結して正式なパスポートを手にして訪中しました。ちな
みに幹事長は岸信介氏、交渉当事者は中曽根幹事長代理でした。深センの事務所
でこのパスポートを楊さんに見せると「中華人民共和国名のパスポートで入国す
るのはあなた方の代表団が初めてです」といわれたのを鮮明に覚えている。
  当時の深センは広い田園地帯で国境の町らしい風情はまったくなく入国管理
事務所と国境警備の解放軍兵舎の二つがぽつんと立っていただけで過疎ともい
えないような淋しいところでした。その深センが僅か30年余りで佐藤さんがレ
ポートされるような大都会になったのですから昔を知る者にとっては驚くばか
りです。中国には「桑田変じて海となる」という言葉がありますが、まさに田園
変じて大都会になったのが深センなわけです。

  ところで佐藤さんの1月号「深センから」は中国の「春節(旧正月)」直前の
発信なので中国中南部を襲った歴史的な大寒波について触れられていませんで
した。新聞は広州駅は帰省客で大混雑したと伝えています。これを読んだ私は寒
波の中で駅に集まった膨大な数の人たちは列車が動かなかった時、宿舎。食べ物
の調達。トイレの処理。など大変だったと思うのだが、中国ではどのように対処
したのか気になっているので、いずれ佐藤さんからのレポートに期待していま
す。
もう一つ、今日本では中国製ギョーザが大問題になっています。まだ真相が解
明されていないので、論ずるのは控えますが中国では「食と安全性」について
どのように取り扱われているのか。一般人民の視点でレポートしてください。
                    (元日本青年団協議会本部役員)

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