■ <沖縄密約37年目の真実~吉野文六証言をめぐって>

                           北岡 和義
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  2010年がヒタヒタと"近代の足跡"を引きずって近づいてくる。
来年は日韓併合から100周年、60年改定安保から50周年である。NHKが司馬遼
太郎の『坂の上の雲』を3年間の大河ドラマとして放送を開始した。
日清、日露の戦争を舞台にした歴史ドラマは、日本が太平洋戦争へ突っ込んで行
った近代史の原点である。

 この秋、本メルマガの主宰者、加藤宣幸の誘いで、深津真澄著『近代日本の分
岐点~日露戦争から満州事変前夜まで』(ロゴス刊)の石橋湛山賞受賞の祝賀昼
食会に出席した。22名の小宴だったが、河上民雄(元衆議院議員、東海大学名誉
教授)細島泉(元毎日新聞編集局長)、羽原清雅(元朝日新聞政治部長、平成
帝京大学教授)、竹中一雄(元国民経済研究協会会長)、船橋成幸(元日本社
会党本部中央執行委員)、初岡昌一郎(姫路独協大学名誉教授)ら懐かしい先
輩たちに会えた。若い研究者も少しいた。

 この書は、小村寿太郎、加藤高明、原敬、石橋湛山、田中義一という日本の近
代を生成した人物を縦糸に、ポーツマス条約や対華21か条要求など歴史の事象を
横糸に編みなした読物で、文字通り日本の「近代の分岐点」を大正デモクラシー
と重なり合う25年間と捉え、描いている。
  この会合でぼくは久しぶりに会えた大先輩の河上民雄に挨拶したのだが、しば
らくして1冊の書が送られてきた。河上が2007年に上梓した『勝者と敗者の近現
代史』(かまくら春秋社)だった。

 この2冊の書を読んで、まさに目から鱗が落ちる思いだった。
  若きジャーナリスト、石橋湛山の「小日本主議論」は、韓国併合、中国大陸武
力侵攻という日本の帝国主義的大陸進出を厳しく批判、糾弾している。
  石橋は「青島は断じて領有すべからず」と題した論文で「ドイツを支那大陸の
一角より駆逐して日本が代わってその一角に盤踞すれば、何故に東洋の平和を増
進することとなり得るや」と論じ、「朝鮮、台湾、満州、樺太を棄てよ、中国、
シベリアへの干渉をやめよ、アジアの民衆はやがて立ち上がり、われわれの手か
ら独立を奪うであろう、それならば、むしろ彼等に独立を進んで与え、尊敬と信
頼を得た方が得だ、という趣旨を展開した」(前述『勝者と敗者の近現代史』)

 石橋湛山が書いた「大日本主義の幻想」は、まさに日本近代史を見直す格好の
論文であり、ぼくは2010年という歴史の折り目に相応しい好著に出会えた喜びを
噛み締めている。
  滞米27年という途方も無い、長い、長い海外生活から帰国して3年になるが、
こうした会合に出られたこと、そして二冊の書を手にしたことの幸甚を痛切に思
う。
  「坂の上の雲」を見上げながら近代と言う急峻を駆け上がった日本国と日本人
の歴史と向き合う絶好のチャンスではないか。

 日本がアジアで唯一、帝国列強と肩を並べることの誇りが、いつしか驕りと
なって韓国併合を正当化した。大正デモクラシーが軍権力に封殺され、抵抗力を
失ったのは何故か。日清・日露を戦った軍人たちは本当に偉大だったのか。
  その軍事力は国民を妙に昂ぶらせ、軍人礼賛の時代の空気を醸成した。権力は
自由人を弾圧し、社会主義者を虐殺した。
  張作霖を謀殺し盧溝橋を爆破し、中国大陸に侵攻、米国の警告を無視し、イン
ドシナに兵を進め、ついに対米戦争に突入していった軍人は立派だったのか。ド
ラマの主人公、秋山好古、真之兄弟と正岡子規たちの溌剌たる青春についてぼく
はじっくり考えてみたい。

 2009年はぼくにとって人生最大と言ってもいい"歴史"を体感した年となった。
それは戦後史の曲がり角、60年安保闘争と深く関わる。1960年、A級戦犯・岸信
介首相が渡米し調印した改定日米安全保障条約と1971年、岸の実弟・佐藤栄作首
相の沖縄返還協定が、現在の思いやり予算や普天間海兵隊基地の移転問題の原点
だった。
  その意味でぼくらが踏み切った沖縄密約文書開示請求訴訟は在日米軍基地の存
否を問う歴史的意味を有していると思う。

 2009年12月1日、東京地裁103号法廷は満席だった。傍聴席数の3~4倍の人
が入ることができなかった。
  開廷時間ギリギリに駆け込み、たった一つ空いていた原告席に座った途端、裁
判長の許可を得た報道陣のビデオ・カメラが回り始めた。2分間の撮影が終わる
とぼくの席のすぐ後の扉が開いた。
  小柄な老人が目の前をそろそろと通り過ぎた。高齢ながらしっかりした足取り
で証言席に向かう。証言台で「真実を述べる」と宣誓した。
  証人は元外務省アメリカ局長・吉野文六、91歳である。

 ぼくにとっては実に37年ぶりの吉野との再会だった。満席の廷内だが、事件
当時の吉野本人を知る者は、恐らくぼくと同じ原告席の西山太吉(毎日新聞記者)
くらいだろう。
  原告、被告の代理人である弁護士も裁判長も37年前と言えば幼児か少年少女だ
った。沖縄返還協定により、米軍施政下の沖縄が本土復帰したのは1972年5月15
日。ぼくは国会議事堂裏の衆議院第二議員会館で青年代議士、横路孝弘(北海道
知事を経て現衆議院議長)の事務所にいた。1970年3月に読売新聞記者を辞め、
乞われて横路の秘書となった。
  青い書生っぽい、正義感に溢れた代議士と秘書だった。
  沖縄返還協定を議論するため日本社会党に「沖縄返還協定プロジェクト・チー
ム」が結成され、党の重鎮・安井吉典代議士をチーフに楢崎弥之助、大出俊、田
英夫、横路孝弘、中谷鉄也ら論客がチームを構成した。

 毎日新聞記者、西山太吉が「返還協定には密約がある」との解説記事を書いた。
横路からその記事を見せられたことを覚えている。真面目な勉強家だった横路
は、この密約疑惑を調べ始めた。
  1971年12月、衆議院沖縄返還協定特別委員会で横路は密約を質した。
  時の総理大臣・佐藤栄作、外務大臣・福田赳夫、外務省アメリカ局長・吉野文
六ら政府首脳は横路指摘の密約を全面否定した。その吉野が今、目前にいる。

 吉野は耳が遠いようだ。マイクの音が聞こえるように廷吏が吉野の両耳にイヤ
ホーンを取り付けた。
  日隅一雄弁護士が尋問に立ち、提出済の証拠書類を示しながら吉野の証言を誘
う。
  吉野は聞きづらいのか何度も聞き返し、質問の趣旨を理解すると迷わず証言し
た。
  弁護人が示す文書は吉野と駐日公使、スナイダーとの間で交わしたものであり、
「BY」のサインが吉野本人のものであることを認めた。
  「密約は一切無い」と否定し続けてきた沖縄協定で、この瞬間、政府のウソが
崩れた。しかも政権はことし8月30日の総選挙で、民主党に移っている。岡田克
也外務大臣は沖縄密約を調査する、と選挙で公言していた。大臣命令で調査委員
会が発足し、秘密のベールに包まれていた沖縄密約にメスが入る。

 1972年3月27日、機密電文のコピーが密かに横路に渡った。衆議院予算委員会
の最終質問という際どい瞬間、横路はそれを手に再質問した。
  密約を記した極秘電報を振りかざす横路に政府は答えるすべがない。福田赳夫
外務大臣も吉野文六アメリカ局長も答弁できない。全否定した機密外交文書を横
路が国会の場で暴露したのである。委員会は暫時休憩となった。
  横路が指摘したのは返還協定にある「アメリカが自発的に支払う軍用地の復元
補償費400万ドル」は、実は日本がアメリカに支払う3億2000万ドルに含まれている、
という密約だった。

 廊下に出て報道陣にもみくちゃにされたところへ吉野が近づいてきた。緊張の
表情である。
  「横路先生、その文書を見せてください」
  横路のすぐ脇にいたぼくは怒鳴った。
  「外務省にあるだろう。外務省に戻って文書を探したらどうだ」
  吉野はじろっとぼくを睨んだ。

 その吉野文六が37年経った今、密約の事実を法廷の場で認めた。吉野証人を見
つめるぼくの胸に深い感慨と熱いものがこみ上げた。法廷は静まり返り、日隅弁
護士と吉野のやりとりを、固唾を呑んで見守っている。
  日隅代理人「(日本がアメリカに支払う)3億2000万ドルに(アメリカが日本に
支払う、と協定にある基地の復元補償費)400万ドルが含まれているのですね」
  吉野「そうであります」
  「このスナイダー公使と吉野証人との間で交わされた文書にある『BY』とい
うのは吉野さんがサインしたイニシアルですね」
  吉野「そうです。私のサインです」
  日隅「どこでサインしたのか記憶がありますか」
  吉野「私の部屋にスナイダー(公使)がやって来て、その部屋でサインしたと
思います」
  日隅「その文書はどうしましたか」
  吉野「事務官がコピーして保管したと思います。私の手元にはありません」

 法廷で証言した後、吉野は東京地裁2階の狭い司法記者クラブでたった一人、
記者らの質問に答えて45分間、語った。
  「アメリカで文書が公開された限り、これ以上隠すことはできないと思い・・・
歴史の歪曲は国民にとってマイナスです」
  ぼくが記者席から「西山さんをどう思っていますか」と訊いた。
  「西山さんはよく存じております。とてもしっかりした記者でした。一緒に食
事をしたこともあります」

 吉野証言の後、琉球大学教授・我部政明の証人尋問があり、公判は3時間に及
んだ。我部は米国公文書館で公開された機密文書から沖縄密約を発見した研究者
で、その事実を朝日新聞が特報した。
  37年前、横路の爆弾質問の後、西山記者と外務省女性事務官が機密漏えい罪で
逮捕された。起訴状に「情を通じ」という文言で男女のスキャンダルを検察官が
暴露、メディアが飛びつき、国家権力による「密約事件」は男と女の隠微な「機
密漏えい事件」に摩り替えられた。
  女性事務官は一審有罪、(西山は無罪、二審で逆転有罪、最高裁で有罪が確定)
となった時点で、西山は毎日新聞社を辞め故郷に帰って一切のメディアとの接
触を絶った。自ら密約事件に封印してしまったのである。

 ところが沖縄返還から33年を経て思わぬ展開となった。
  2005年4.月25日、西山太吉が「悪いのは政府の方だ」と国家賠償と謝罪を求め
東京地裁に提訴した。提訴に至るには静岡在住の弁護士・藤森克美の西山説得が
あった。
  その時、ぼくはロサンゼルスにいた。知り合いの外交官からeメールが入った。
  「あなたが以前、話していた沖縄密約が訴訟になっているわ」
  その新聞記事は朝日新聞だった。西山提訴の朝、JR西日本の福知山線で列車
の脱線事故があり、各紙の紙面はこの記事で埋め尽くされ、西山提訴を書いたの
は朝日だけだった。

 長い沈黙を破った西山提訴にぼくは心底、驚いた。事件の当事者ではないが、
当事者のすぐ脇にいた人間として西山を支援する義務と道義的責任がある、と考
えた。
  急遽、帰国した。
  帰国して取材を始めるといろんな展開があったことが分かった。
  琉球朝日放送の土江真樹子というディレクターが沖縄返還30周年に西山本人を
引っ張り出し、ドキュメンタリーを制作したことを知った。すぐビデオを取り寄
せた。

 「告発」と「メディアの敗北」と2編あり、西山本人が登場していた。
  土江に会いたいと思っていたところへ本人から電話が入った。ぼくの帰国を知
ってかけてきたのである。ぼくの不在の時間に沖縄密約問題がどう経過したのか
次第に分かってきた。西山提訴の意義を認め、応援のジャーナリストや研究者た
ちがいた。彼らは公判が終わると弁護士のブリーフィングを聞き、勉強会という
名目で都内の大学に集まり議論した。
  西山に会おう。会って話してみよう。ぼくは新幹線で九州へ向かった。
  小倉駅に出迎えてくれた。西山に会うのは初めてである。駅に隣接しているホ
テルのラウンジで西山と語り合った。老齢ながら精悍で鋭い気迫の残影を十分、
宿していた。西山は73歳になっていた。

 2007年3月27日、西山の国賠訴訟は除斥期間が過ぎていることを理由に門前払
いの判決となった。
  ところがこの訴訟が歴史を紐解く重要な役割を果たした。引退していた吉野が
この訴訟を自宅でじっと見つめていたのである。言うまでも無く吉野は記者時代
の西山を知っている。恐らく忸怩たる思いを拭いきれなかったのであろう。
 
北海道新聞記者、征住嘉文が戦後企画の取材で吉野を訪ね、インタビューし
た。往住の食い下がりに初めて吉野は沖縄返還協定の日米密約を認めた。
このインタビューで往住は歴史的スクープを放った。提訴の翌2006年2月8日
だった。
  共同通信、朝日、毎日が追いかけた。琉球新報や沖縄タイムスは記者を上京さ
せ、吉野証言を大々的に書き、報道した。読売、産経、NHKは無視した。
 
テレビ朝日の鳥越俊太郎は毎日記者出身のキャスターだ。鳥越は特集で密約と
吉野証言を取り上げた。テレビ朝日「報道ステーション」の古舘伊知郎が吉野イ
ンタビューを放送した。肝心のNHKは沈黙である。何が報道のNHKだ。ぼく
の怒りが静かに燃えた。
  だから沖縄密約は一部の新聞やテレビが報道した一方で、まったくニュースと
して取り上げないテレビや新聞もある、という変則的な報道となった。

 気骨の老ジャーナリスト・原寿雄(元共同通信株式会社社長)や知る権利で著
名な奥平康弘(東大名誉教授)、情報公開法や個人情報保護法で論陣を張ってい
る田島泰彦(上智大学教授)らジャーナリストとメディア学の研究者たちは2008
年9月2日、外務省に沖縄密約にまつわる外交文書の公開を請求した。外務省は「
文書は無い」と不存在の回答。
  小町谷育子、日隅一雄、飯田正剛、岡島実ら若手弁護士らが代理人となって密
約文書の開示請求訴訟に踏み切った。原告団に我部政明、桂敬一、作家の沢地久
枝、柴田鉄治、松田浩らジャーナリストとジャーナリズムの研究者が原告団を構
成した。ぼくも原告団の一人に加わった。

 沖縄密約は単に基地の復元補償費をごまかしただけではない。もっと重大で深
刻な核兵器持ち込み疑惑もある。1978年11月、ペンタゴン・ペーパーで著名なダ
ニエル・エルズバーグ博士が来日したとき、ぼくは岩波書店でエルズバーグ博士
にインタビュー、在日米軍基地に核兵器が持ち込まれているという証言を雑誌『
世界』(1979年2月号)に書いた。
  佐藤栄作首相の密使だった国際政治学者・若泉敬が『他策ナカリシヲ信ゼムト
欲ス』(文藝春秋社刊)で核兵器持ち込み容認密約を暴露している。若泉は英文
の翻訳が出版された直後、友人知人の目前で毒を飲んで自裁した。自責の念に耐
えられなかったのか、真相は藪の中である。

 ノーベル平和賞を受賞した総理・佐藤栄作の非核三原則は最初からまやかしだ
ったのだ。外交交渉の当事者が法廷で真実を語ったことの歴史的意味は計り知れ
ない。
  『毎日』が14日、吉野が証言した文書が無い、という外務省の調査結果を特報
した。無いという事は、外務省が破棄処分にしたに違いない。情報公開法が施
行となる直前の2000年に霞ヶ関の官庁街では大量の破棄文書の処分が密かに実
施されたと言う。
  外務省がもっとも多かったそうだ。しかも破棄した文書を処分するため受け取
った業者がその断裁した紙を再生しトイレットペーパーとして外務省に納入した
と言うウソのような笑えぬ事実も『週刊朝日』が書いた。
  まさに終戦前後、霞ヶ関で大量の機密文書が焼却処分にされたという話がある。

 来年2月に最終弁論があり、3月には判決となるようだ。しかし判決の結果が
どうであれ、沖縄密約は吉野証言でほぼ歴史的検証ができたとぼくは考えている。
  今年8月30日の総選挙で、民主党が圧勝、長く続いた自民党の政治が終わっ
た。
  政権与党である民主党は沖縄協定の真相を明らかにする義務と責任がある。
  鳩山政権が揺れている普天間海兵隊基地移転問題や思いやり予算の原点が沖縄
協定にあったのだから。

           (筆者は日本大学国際関係学部・特任教授)

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