【沖縄の地鳴り】

沖縄の独自外交の必要性(1)

<沖縄の誇りと自立を愛する皆さまへ:第37号(2016年9月号)>

辺野古・大浦湾から 国際法市民研究会


 翁長知事が2015年9月22日、国連人権理事会で訴えたのは、自己決権、環境、人権という普遍的価値(または国際共通益)が政府によって無視されていることだった。「自由、平等、人権、民主主義という価値を自国の国民に保証することができない国は、これらの価値を他国民に提供できるはずがない[注1]」と発言。これを契機に、沖縄の独自外交がなぜ必要なのかを考えてみたい。 

[注1] Can a country serve values such as such as freedom, equality, human rights, and democracy with other nations when that country cannot guarantee those values for its own people?

◆◆ 沖縄における国際共通益の衝突

 日本が、これらの価値を沖縄に「保証することができない」理由は、知事が日ごろ指摘しているように「極端なまでの過度の基地集中」にある。人々はそれを日米による国家的差別であり、植民地的状況だという。それは、米軍が全県的かつ恒久的に基地を自由に使用できるよう、国家主権の相当部分が放棄され、制限されている事実を指している。

 政府は日米同盟を「抑止力」「公共財」とし、だから沖縄に“受忍義務”があるかのような論理を展開している。たとえば防衛省・自衛隊のHPは、「公共財としての役割」とは、駐留米軍が「抑止力として機能し、地域の諸国に大きな安心をもたらすこと」。つまり米軍の「抑止力」は、東アジアの国際共通益という主張だ。しかしそれは「基地集中」の理由にはならない。「沖縄の地理的優位性」も指摘されているが、説得力がない。

 ここで、2つの国際共通益が衝突している。それは「自由、平等、人権、民主主義」対「抑止力」。前者の侵害は、駐留米軍による生活被害、民意に反する新基地建設など具体的だが、後者「抑止力」の低下は具体的・実証的でないため、県は「抽象的・情緒的なマジック・ワード」と批判している[注2]。

[注2] 沖縄県が国地方係争処理委員会に提出した2016年3月「審査申出書」p80〜81、p165。

 人々の基本的人権を制限できるのは、正当な権利が実際に衝突する場合だけで、「抑止力」のように不確実で抽象的な理由によって制限することはできない。また、東京高裁の横田基地訴訟判決(1987年7月15日)は、平時には、「国防のみが独り…優越的な公共性を有し、重視されるべきものと解することは、憲法全体の精神に照らし許されない」とする。要するに「国防」には、基本的人権を制約する優越性はない。

◆◆ 住民益・国民益・人類益の一致点

 国家主権の内実は、国民主権でなければならず、その基盤は地方自治と住民主権にあるから、国益は自治体益に資するものでなければならない。しかも2001年以来、ASEANと日中韓の13ヵ国が「東アジア共同体」を共通目標にするという本格的な国際協力の時代に入っている。言い換えると沖縄は、自治体益(住民益)・国益(国民益)・国際共通益(人類益)の一致点で生きなければならない。これが独自外交を必要とする第一の理由である。

◆◆ 抑止力論の根拠

 「中国や北朝鮮の軍事力の近代化や活動の活発化」に対応する「抑止力」が必要という政府は、両国が日本の領土領海を侵す恐れや脅威の存在を不動の前提にしている。しかし政府は、それを除去する努力に徹するのではなく、駐留米軍の必要性の口実にしているようにみえる。つまり米軍基地の維持・拡充が目的で、「脅威」がその手段に使われているのではないか。
 そもそも「脅威には抑止力」という対応は「眼には眼を…」と類似し、戦争を防止することなどできるはずがない。国連憲章や日本国憲法は、一つにはその反省から立案され、制定されたものだった。
 武力衝突の偶発事故に備えるためなら、「抑止力」はかえってその規模を拡大し、双方の被害を深刻にする。そもそも、国際法も憲法も「武力による威嚇」を禁じているが、「抑止力」はそれを使って相手に脅威を与えるのが目的といえるだろう。この違法性からみて「抑止力」は、住民益・国民益・人類益の一致点を阻害するといわねばならない。 

◆◆ 自衛権行使に関する慣習国際法

 専守防衛の自衛隊では「抑止力」にならないから、駐留米軍が必要という政府は、アメリカに先制攻撃の能力を期待していると思われる。しかし先制攻撃は、核・非核を問わず、国際法違反である。
 米英両国の1841年合意が、自衛権行使の要件に関する慣習国際法といわれている[注3]。その要件とは、「急迫し、圧倒的で、他の手段も熟慮のための時間もない自衛の必要性」「必要があったとしても、不合理で過度のことはしない」というもの。

[注3]1837年12月29日、英国が米国の港に停泊中のカロライン号(米国籍)を拿捕、放火し、ナイアガラ瀑布に落とした。数年間にわたる交渉で米国務長官ダニエル・ウェブスター提案が合意された。

 日本と中朝両国との間には、武力行使を回避する手段と熟慮の時間は十分にある。1972年日中共同声明、78年日中平和友好条約、2002年日朝平壌宣言からみても、政府は2国間協議による「脅威」の除去に積極的でなければならない。その過程で「軍事力の近代化や活動の活発化」は、日韓米の側にも原因と責任があることが、内外に明らかになるはずである。

 要するに、政府が“マジック・ワード”を振りかざして沖縄を差別し続けることが、独自外交を追求しなければならない理由ともいえるだろう。  

 (文責:河野道夫/読谷村 international_law_2013@yahoo.co.jp 080-4343-4335)


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