【コラム】中国単信(27)

沈思黙考のすすめ

                               趙 慶春


 2015年9月、台風18号による豪雨は各地に大きな被害をもたらしたが、なかでも常総市での堤防決壊での被害はきわめて甚大だった。
 鬼怒川の氾濫で逃げ場を失った住民を救出する模様がテレビを通して全国民に伝えられ、大きな関心を集めた。アナウンサーがテレビ中継で「絶対諦めないで」と連呼して被災者を励ます姿や、自衛隊員の救助ぶり、さらには災害に直面したときの的確な判断が国民の感動さえ呼んだほどだった。

 しかし残念なことに、いくつかの「人災」と思えるものや、「規制」や「取り締まり」の強化が求められそうな事象も起きてしまっていた。たとえば、
 1、市が避難指示を出さなかった。決壊の方向へ市民を誘導した。
 2、大規模なソーラー電池設置のために堤防を削ったことが決壊につながった。
 3、報道各社が報道のためヘリコプターを飛ばし、自衛隊の救助の邪魔になった。
 4、避難者の留守宅を狙う空き巣が出没した。
などがそうだろう。

 しかしマスコミや報道機関は上記の問題点を執拗に、そして過重に取り上げることはなかった。むしろ被災者の人命救助と今後の生活に報道の力点があったように思われる。
 そこで筆者は、あくまでも仮定の話だが、同じ天災及び同じ「人災」報道が中国で起きたらどうなるだろうかと考えてみた。おそらく以下のような報道内容になったのではないだろうか。

1、「避難指示を出さなかった」点では、強い政府非難が、「誘導ミス」などでは、「管理ミス」「危機管理システム不備」「役人危機意識希薄」「役人モラル欠如」などの批判が起きた。
2、「ソーラー電池報道」では、「役人の腐敗」や政府と業者との癒着疑惑が持ち出された。
3、日本での「報道ヘリコプター邪魔説」は、「自衛隊救助活動」への支持から生じたもので、自衛隊員たちの懸命な救助活動に感動したがために、逆に報道ヘリコプターが救助活動を妨げると見たからだろう。
 だが中国では大きな災害が発生すると、人民解放軍が救助に当たるのが通例である。ただし、事件の原因究明や責任者追及より、もっぱら解放軍の活躍ぶりだけを報道する政府の姿勢は、人びとの反感を買うようになっていて、軍への感謝どころか「なぜ解放軍の救助活動ばかり報道するのか」「何か隠したいことがあったのではないか」とその報道ぶりに不満や不信感を抱くことが珍しくない。
4、「空き巣被害」からは、確実に「民度の低さ」を批判する声があがる。ちなみに「民度」とは、日本語としても使われるが、人びとの生活や文化の程度を指すのに対して、中国ではむしろ社会の中で守るべき礼儀やエチケットなどに重きが置かれる。

 要するに中国で災害が起きれば、「民度批判」と「政府批判」が一種の「慣例」になっているということである。

 確かに中国の民度は決して高くない。例えば中国人観光客がフランスのグッチ店前でカップ麺を食べるのは民度が低いと日本では「ニュース」になり、中国人男性観光客が香港ディズニーランドで暑かったため、上半身裸になったのは民度が低いと批判されてしまう。

 しかし「カップ麺おばさん」はよほど空腹だったか、欧米食に慣れていなかった可能性が充分に考えられる。また「上半身裸男」は中国北方地域ではむしろ夏の風物詩になっていて、「慣習的な行動」と言える。勿論、これらは品格のある「姿」ではないが。

 つまり今回の日本での水害後の空き巣窃盗はあくまでも個別犯罪で、民度の低さを反映しているとは言えないわけで、中国でも「民度」に結びつけて、極度の自虐的反省は必要ないのではないだろうか。

 中国人の「政府批判」は、紛れもなく「政府不信」から出ている。例えば「歴代政権の反腐敗運動の形骸化」「官僚と商人の癒着」「仲間を庇う隠蔽体質」等々である。
 しかし、なんでもかんでも「政府不信」を正当化し、「政府批判」を「正義」とするのは問題だろう。

 まだ記憶に新しい天津大爆発では、現場周辺への立ち入り禁止措置が取られたが、これは化学物質爆発だっただけに、二次被害を防ぐ必要、かつ正当な措置だったと言える。ところが情報隠蔽と決めつけ(確かに情報隠蔽は否定できないが)、規制区域に潜入した者を英雄扱いにするとは愚かしい限りである。
 自然災害や人災事故が起きると、当然のように「民度批判」や「政府批判」を行うことは、むしろ大きな弊害を生みだす危険性が潜んでいるように思える。

 たとえば安易な「民度批判」、「政府批判」は「政府が解決しないなら、仕方ない」という思考の蔓延を招き、事故の真相究明や対策の改善を図る努力を阻害する可能性がある。

 大気汚染問題を一例として挙げてみよう。
 北京の大気汚染の「主犯」は林立している工場の煙突からの煤煙ではなく、一般市民が暖房に使う劣悪な石炭である。第二位の犯人も森林乱伐による風塵黄沙ではなく、車の排気ガスである。つまり安易に「政府批判」をする前に、一般市民一人ひとりが環境保全のために車の利用を控えるとか、エコカーを使おうとする人がいったい何人いるだろうか。

 中国人の「政府批判」は「政府不信」から生まれ、今や習慣にまでなってしまっている。だが安易な「政府批判」が「完全な政府任せ」という結果を招き、すべての責任を政府にかぶせてしまう極めて無責任な行為であることの自覚が皆無だと言えるだろう。

 もう一つの例を挙げよう。
 事故や災害が起きると、多くの中国人の脳内に占めるのは「なぜ」ではなく、「どうやって」である。
 つまり原因究明にはほとんど目が向けられない。理由は簡単である。「どうせ政府の責任」という責任転嫁の思考経路に繋がっていくからである。
 しかし「どうやって」についてはそうではない。なぜなら「どうやってこの危難からわが身を守るか」という思考経路につながっていくからである。言い換えれば利己的な保身主義にほかならない。
 かくして「真の原因究明と改善策」への取り組みは放棄され、改善への努力が失われるだけでなく、弊害への無頓着、あるいは非難だけが起きてしまうのである。

 この責任転嫁と保身主義に、さらに安易な「民度批判」が加わるとどうなるか。
 最近のことだが、上海のネットユーザーが「座って雑談にふける若い3人のOL風女性の足元に、ジュースかビールの空き缶が転がり、落花生の殻やお菓子の包装紙などが散乱している」写真を公開した。これへの書き込みが最初は「民度の低さ」を嘆く声だったが、次第に「この3人は上海人か、出稼ぎ労働者か」というあらぬところに論点が移っていった。つまり中国人の「民度」ではなく、どの地域の者かという地域性の面子問題に矮小化されていってしまったのである。

 ここでも「真の原因究明と改善策」は論点とならず、責任転嫁の応酬となるだけで、「自分には何ができるか」という発想自体が欠けてしまっているのである。
 すでにこの欄で触れたことがある武漢エスカレーター致死事故も、事故原因は保守点検時のネジの締め忘れという小さなミスに過ぎなかった。しかし大々的に「政府批判」が展開され、「経済構造の問題」にまで及んでしまっていた。
 何のことはない「我々一人一人の労働者の「責任」のある働きこそ、社会の安全を支えている」という自覚と実践さえあればすむことなのに、残念ながら現在の中国人にはこのような考え方はまったく見当たらない。

 日本製品の品質を高く評価して「爆買い」をする中国人は少なくない。しかし日本製品の優れた品質は従業員一人一人が一つのネジであっても、自分の持ち場での責任をしっかり果たしている結果だと気づく中国人がどれだけいるだろうか。
 中国での民度批判や政府批判の効用はもちろんある。だがひたすら「批判」を繰り返す行為は、責任逃避、責任転嫁にほかならない。何よりも自分の責任を自覚し、与えられた役割をきちんと果たさなければならないだろう。

 現在、中国人にもっとも求められているのは、批判ではなく自分が何をすべきなのか、しばらく心静かに自分をしっかり見つめることではないだろうか。

 (筆者は大学教員)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧