【追悼】仲井 富氏

永田町と市民を繋いだ仲井富さんの思い出

政野 淳子

 仲井富さんとの出会いは1995年。今は完成してしまった長野県営「浅川ダム」の反対運動の集会後の懇親会だ。主催関係者に、始発列車(当時は新幹線ができていなかった)が始まるまで数人で喋り明かすというのでついて行った。そこに仲井さんがいた。何を話したか全く覚えていないが、後日、「東京で蕎麦でも食べよう」と誘われた。
 前年、私は中南米放浪から帰国したばかり。新聞で知った徳島県木頭村(現、那賀町)の細川内(ほそごうち)ダム反対運動をパソコン通信による発信(インターネット普及前)で応援していた。仲井さんは木頭村に行ったことがあり、藤田恵村長(当時)とも既知の仲だった。
 お蕎麦を食べ終わると、仲井さんは突如、「君さあ、僕の人脈を全部あげるから、跡を継がないか?」と言う。「は?」としか言いようがなかった。仲井さんは、「公害問題研究会」の名刺を持っていること以外は、自分のことを語らない「おじいさん」だった。
 かつて社会党の青年部事務局長だったことや、公害国会で裏方を務めたであろうことや、与野党議員に人脈を持っていることは、後々、薄っすらわかっていった。それぐらい仲井さんは自分のやってきたことを人に話したり手柄にしたりすることに興味がない人だった。語弊を恐れずに定義すれば、「永田町人脈を駆使して、フィクサーとして党派を超えて闊歩し、各地の住民運動を助けた人」だ。
 当時の私は、ろくに「公害国会」のことを知らなかった。「大石武一さんとカレーを食べに行こう」と誘われ、老舗カレー屋でスプーンを動かしながら「この人が実質の初代の環境庁長官なんだ」と言われてもピンと来ないほど不勉強だった。その二十数年後に、別のご縁で「四大公害病」(中央公論新書)を書いた時に、仲井さんの言う「僕の人脈」の意味に気づいたが遅すぎた。
 
 縦横無尽の仲井さん
 ある時は仲井さんに「木頭村を応援するなら、この運動を見ておいた方が良い」と山形に誘われた。「この運動」とは「大規模林道」事業に反対する「葉山の自然を守る会」の運動だ。林野庁が全国に数カ所の林業圏を作ると言いながら、実は林業振興には役に立たない、政官財の癒着を絵に描いたような自然破壊の土木事業だった。仲井さんは山形に何人もの国会議員や記者を連れていき、現場を見せ、後の国会審議や報道につなげた。
 それからしばらくして、私自身も後述するように縁あって議員連盟「公共事業チェック議員の会」の事務局長を務める佐藤謙一郎衆議院議員の秘書として永田町の人になった。仲井さんは議員会館の部屋にフラっと立ち寄り、「アンタの“ボス”さ、これやらないかな?」と仕事(住民運動の手助け)を持ち込んでは帰って行った。
 その頃までには、山形の運動は全国に散在する運動体とつながり「大規模林道問題全国ネットワーク」が結成され、事業見直しの機運が起きた。見直し対象に山形の事業も入った。ダメ押しで、林野庁長官への申し入れを仲介してくれと依頼され、議員秘書として国会の正式ルートでアポ取りを試みた。日程が詰まっていると断られたが、その時、頭に浮かんだのは仲井さんから学べと言われた「葉山の自然を守る会」の原敬一代表の「闘いの手を休めるな」という教えだった。
 一か八か、長官の秘書室にダイレクトに電話し、「衆議院議員佐藤謙一郎事務所です。長官にお引き合わせしたい団体が」と言ってアポを取りに成功した。正式ルートでは居留守を使われていたのだ。一か八かの秘訣は、団体名から「問題」を抜いて「大規模林道」の「全国ネットワーク」ですと推進団体に聞こえるようにねじ込んだこと。ウソのような本当の話だ。そんなことがシレっとできたのは、仲井さんの縦横無尽さを見ていたからだと思う。
 仲井さんは、ある時は、与党議員に仲介を依頼して、藤田村長に連れ添って、大蔵省に「細川内ダムに予算をつけないで下さい」と陳情に行った。帰りに議員会館に顔を出し、愉快そうに「予算をつけろという陳情はあっても、つけるなと首長が陳情したことはないだろう」と笑って帰って行った。ある時は、長良川河口堰反対運動の天野礼子さんを伴い、亀井静香建設大臣(当時)に会いに行った。気づけば私の“ボス“までが「自分の持つ国会の機能をみなさんに使って欲しいんだ」と言うようになっていた。
 話は前後するが、1997年には河川法改正審議の中で、石井紘基議員(故人)の国会質問に亀井建設大臣が「(細川内ダムを)いつまでも牛のよだれのようにダラダラと」やるべきではないと答弁した。石井議員は仲井さんが木頭村に連れて行った国会議員の一人だ。私はすぐに大臣答弁を既成事実化しようと、生まれて初めて「細川内ダム中止への第一歩」と題して集会を催した。その時、別のダム反対運動の集会で良い発言をしていた佐藤謙一郎議員に「来てください!」とFAXを送っておいたら来てくれた。それが“ボス”との出会いだった。
 大臣答弁後も建設省は予算をつけ続けたので、藤田村長は闘いの手を止めず、「大蔵省作戦」を続けていた。2年後だったか、佐藤謙一郎事務所の電話に出ると、木頭村の田村好村議(故人)からだった。「聞こえますか、政野さん!今、藤田村長が、細川内ダム中止の村内放送をしています」と宙に受話器を掲げてくれているようだった。その時から、完全に「細川内ダム」という言葉が行政文書から消え去った。
 
 運動の成功を喜ぶことに時間を割かない仲井さん
 そして、山形の大規模林道事業反対運動も成就。最後には大規模林道という事業そのものが継続中のものを除いては終了した。以後、破壊から守った山河に入り山菜を採って食す合宿行事が定例化した。しかし、仲井さんはそんな場に顔を出さない。次の人助けに忙しいのだ。
 今春、そんな仲井さんを偲んで久しぶりに山菜の会をしようと山形から連絡が来た。福島第一原発事故の影響とコロナ禍のため、10年以上ぶりの合宿だった。夜、「仲井さんを追悼する冊子が出たんだけど、その中に大規模林道のことがなかった。仲井さんは私たちには欠かせない存在だったけど、仲井さんにとってはたくさん関わった運動の一つだったのね」と寂しそうだった。山形からの帰り、偶然、藤田村長からのメールが届いていた。仲井さんや運動の同志たちが亡くなったことを惜しんでいた。そんな縁に囲まれて29年。楽しかった思い出と感謝は尽きないが、この辺でサラっとやめておくのが、跡をつぐことなどできなかった仲井さん流かもしれない。

 (ジャーナリスト まさのあつこ 2024年5月28日)

(2024.6.20)
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