【コラム】
『論語』のわき道(13)

母の日雑感

竹本 泰則

 五月に入ると花屋の店先には赤や白のカーネーションが沢山に並ぶ。いうまでもなく母の日を当て込んでのことだが、コロナウイルス禍で大騒ぎの今年はどうであろうか。
 父の日の方は六月の第三日曜日で、使われる花はバラだという。気のせいか、バラを贈る習慣は未だしの感がある。記念日の起こりも、母が先で父の方は後からできたものらしい。母の日はあっても父の日はないという国もあるようだ。子供にとっての存在感は、父よりも母の方が大きいということだろうか。

 母の日はおよそ百年前に米国で記念日として登録されている。それから一世紀かけて世界的に広がったということになる。
 日本では、昭和の初めころから母親をたたえる動きはあったというが普及しなかったようであり、一般に受け入れられたのは昭和二十四年(1949年)ころからだという。そのころは占領下だから、これもGHQからの「配給」だったのだろうか。
 中国、台湾、香港なども日にちや名称は本家であるアメリカ流を踏襲しているそうだ。

 韓国は毎年五月八日を父母の日としているという。かつてこの日は母の日とされていたが、父の日がないのはおかしいという声があがり、1973年から父と母との両方に感謝をする日になったそうである。
 東アジアの地域ではもともと父が威張っていた。本心であったかどうかは別として、父は家で「一番えらい人」という考え方が社会にあった。つまりは毎日が父の日のようなものだったのだ。そうした伝統も近代化・民主化の波にさらされる。人々の意識の変化に伴って、女性、特にその象徴としての母親に感謝や尊敬をささげようという趣旨への共感が拡がり、次第に伝統を薄め、消していったということだろう。

 『論語』をめくってみると、母の文字は九章に登場する。その内ただ一章を除いて他はすべて「父母」という熟語になっており、単独では出てこない。これに対して、父は単字で十章以上に出てくる。古代の中国社会では母の影は薄い。古くから父系制が確立していた「男社会」の反映だろう。

 『論語』で父母とくればまず孝行が説かれる。その中に、解釈の仕方次第でいろいろな意味にとれる章句がある。
 孔子が自国の家老に当たる重臣から「孝とは」との質問を受けて、こう応える。

  父母には唯その疾(やまい)をこれ憂(うれ)えしめよ

 解釈の一つ。病気はなりたくてなるわけではない、つまり不可抗力的な面があるので、それで親に心配をかけてしまうのは仕方がない。しかし病気以外の心配はかけてはいけない。それが親孝行だというもの。
 二つ目は、親というものは子供が病気をしてやせぬかといつも心配している。そういう親心を知って身を慎むこと、それが孝行だとするもの。
 三つ目は、老親が病気にならぬよう、その健康を第一として気を遣ってあげること、これを孝行だとするもの。

 この三つがあるようだ。どれが正解かは孔子さまにでも訊くしかなかろう。
 自分が子供たちにいうならば「心配などしてくれなくても結構。それより、お前たちこそいい歳をして心配などかけるんじゃないぞ」くらいか。

 他の章では親の歳くらいは知っておかなければいけないと諭す。

  父母の年は、 知らざる可からず。
  一は則(すなわ)ち以て喜び、 一は則(すなわ)ち以て懼(おそ)る

 喜ぶとは「あぁ今年で米寿にとどくか、親が元気で長生きなのはうれしいことだな」というような類い。懼れとは「ぼつぼつ葬式やら、後のことも考えておかなければ心配だなぁ」の類い。
 息子たちよ、君たちの父母の齢はしばらく忘れておいてくれていいからな。

 これを書きながら『広辞苑』で「はは」を引いてみた。この言葉は、奈良時代にはファファ、平安時代にはファワと発音されていたとある。ファワなど云いにくくてしようがない。大和言葉も今や外国語の域だ。

 漢字の母にも煩わしいところがある。習字の先生などはこの字を書くときに三画目と四画目の点を続けてしまって一本の線にしてはいけないと注意する。そのように書くと「はは」とは別の字になってしまうのだ。「毋」という字が歴として存在しており、こちらはブと音読みされる。「君死にたまうことなかれ」などというときの「なかれ」の意味。『論語』にはこの字が七回使われている。

 現在「海」と書く字もかつては「海」と母が入る字だった。「海よ、僕らの使う文字では、お前の中には母がゐる」(三好達治)が成立した。ところが昭和二十三年の「当用漢字字体表」によって文字の形が現在のように変えられてしまった。梅・敏・侮・悔も同様である。これらの字を常用漢字表でみると古い字体をカッコ書きで注記している。

 一方、「毒」は表の漢字欄にはこの字体のみなので、もともと母が部品として入る字ではなかったらしい。また、常用漢字に採用されていない「苺(いちご)」などは省略形の字はないから、下の部分は古い母を書かないと誤字ということになる(自分のメモ類などへの手書きはどう書いてもかまわない。自分が読めればいいのだから)。ちなみに、苺をワープロソフトによる漢字変換で試しても正しい字形が出てくる。
 さらには「毋」の字の一画目と二画目の末尾が互いに飛び出さない形、「毌」という漢字もある。音読みはカン、意味はつらぬく。これを一つの漢字として見ることはまずないが、「貫」という字の上の部分のように漢字の部品としては見られる。

 形が似ているが別々の漢字という例はほかにもあるが、母の字についてはことさら煩雑な気がする。

 男が母を呼ぶのに「おふくろ」という言い方をよく使う。なぜこのような呼び方をするのか由来ははっきりしないが、なじみやすい言い方ではある。しかしあまり連発しているとマザコンの烙印を押される懼れもありそうだ。それでも敢えていうなら、細々したことまで世話を焼かせてしまった悔恨を含めてほろ苦さを伴った思い出の対象がおふくろである。

  「うたた寝の 叱り手もなき 寒さかな」(一茶)

 (「随想を書く会」メンバー)

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