横丁茶話
死の真実
「土」を書いた長塚節は37歳で死んだ。「土」そのものは、ひたすらに死をあこがれたとしても何の不思議もないと思える農民の生の悲惨を、これでもかこれでもかと描いたものである。
にもかかわらず
病中雑詠 その一には 「喉頭結核といふ恐ろしき病ひにかかりしに知らでありければ心にも止めざりしを打ち捨ておかば餘命は僅かに一年を保つに過ぎざるべしといへばさすがに心はいたくうち騒がれて」
というまえがきがあって
冒頭に
生きも死にも天のまにまにと平らけく思ひたりしは常の時なりき
次に
わが命惜しと悲しといはまくを恥じて思(も)ひしはみな昔なり
が並んでいる。
「昔」、すなわち「常の時」には、死について人はみな大口を叩くものである。私自身今それを恥ずかしく思う。それ以上に37歳の長塚節が感じたのとあまり変わらぬものを88歳にしてなお感じるのを、さらに恥ずかしく思う。
近ごろはガンなどでも放射線や抗ガン剤で首尾よく治ったりする場合も増えているから、皆が皆というわけではないし、私ももうすこし修養が進めば変わるかもしれない。
しかし、動かぬ現実に直面したときの最初の反応はみなこんなところでないかと思う。でなければ縷々として病状の詳細を綴っておきながら、なおかつ老衰死などとあからさまなウソを新聞が書くことはおこりえないであろう。
また、ゲツセマネの祈り「できるならこの盃を去らせたまえ」の意味は失われるであろう。
もう一つの厄介は「常の時」に吐いた恥ずかしい大口が、すべてウソだったかと言うとそうではなくて多分に真実を含んでもいることである。じっさいに死はつねに他人にしか起こらないし、死は救済でもあることには間違いはないのである。 (2015・02・14)
(筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)