【コラム】1960年に青春だった(19)

桃紅さんの蟬蛻──性なし筆の未完の業

鈴木 康之

 奥付を見ると「発行・昭和37年1月1日」とありますから、小学館から『源氏物語図譜』が刊行されたのははや60年前のことになります。
 著したのは古典文学の二人の大家でした。
  著・小野教孝/序・解説・久松潜一
 ついでに造本関係のクレジットを補足しますと、
  装丁・沢田重隆/書・篠田桃紅/デザイン・鈴木康之
となります。

画像の説明
  『源氏物語図譜』表紙
   39×32センチ/169ページ/外箱+内箱

 沢田さんは発想力と描写力で伊藤若冲に迫ろうかという画家でした。また装丁家としても数多くの全集・事典を手がけていました。
 パソコンはもちろん写真植字もない時代、指定原稿や版下など手作業を、会社勤めしていたボクが夜や休日に沢田さんのアトリエを訪ねて手伝っていました。

 沢田さんが、図録作家の第一人者・小野さんの労作『源氏物語図譜』の表紙に桃紅さんの墨筆を考えたのは時宜を得た発想でした。
 桃紅さんは50年代からすでに丹下健三、剣持勇ら錚錚たる建築家に壁書を依頼されてその名が知られ、56年から2年間の米国時代をへて、その墨筆は書道を超えた抽象画としても国際的に高い評価を得、日本の伝統美を表す新しいシンボルとなっていました。

 61年春にアプローチしましたが桃紅さんのスケジュールに空きはなく、鶴首していたところ漸く秋になって田園調布のお宅を訪ねる運びとなりました。
 沢田さんは嬉しいことにボクを連れて行ってくれました。ボクはボクでその数年前から桃紅さんの墨筆に馴染んでいたからでした。

 銀座に日航ホテルがありました。59年に開館。勤め先から近くて便利、クォリティは高いけれど腰の低いホスピタリティ。山手線の向こう側の帝国ホテルとは別な庶民的な魅力がありました。
 まだ部屋をとる柄ではなく、利用したのは中2階のロビーです。ソファとテーブルが5、6組あったかどうかというほどの狭いロビーでした。その一壁面に短歌か和歌を素材にした桃紅さんの壁書がありました。

 天地床から天井まで、左右はその数倍。歌は読めませんでしたが、素晴らしい作品なのだと自らに思い込ませて、仰ぎ見ていました。
 数年するうちに墨が年々色褪せていることに気づきました。そして、作者があえて褪色しやすい墨を用い、しかも色褪せを防ぐ技術を施していなかったこと、これこそが自然の儚沙、褪色もまた桃紅さんが意図した自然表現であることなどを知り、制作意図の深さに感嘆したものでした。

 田園調布のお宅には予め、趣意書、小野さんの図譜のサンプル10点ほど、書籍本体のツカ見本を届けてありました。桃紅さんの自由な発想を妨げないようにとの配慮でラフスケッチは添えませんでした。

 広い和室づくりの仕事場に通されました。主が這入ってくるための一刻が流れ、空気がととのって、ボクたちの目を奪うために桃紅さんが姿を見せました。
 細面に薄化粧。鼻筋が受け口に向かってご自身が描く「線」のごとく。
 長身、痩身。地味な柄物をきりりと巻き締めて「穂」のごとく。
 肩揺れしない摺り足。能のシテ役の妖しい若女のごとく。

 じつはボクは拙稿をものするにあたり「凛」の1語を禁じることに決めました。
 さもないと、桃紅さんのどこを、なにを表現するにも「凛」、この重宝な日本語1語ですますことになりかねませんので。

 あの年、桃紅さんは48歳でした。ボクは24歳。ボクが若過ぎました。「ずいぶん年配のお方だな」と思った記憶が残っています。否、あのお歳であのように端正な容姿の婦人がボクの周辺におらなかったからでしょう。
 桃紅さんはあのときのボクよりひとつ若くして親の元をはなれ、習字教室を開き独立しています。

 ことし弥生1日訃報に接しました。長いご無沙汰から目を覚ますように録画ドキュメンタリーを1本を見直し、その中で40歳代、50歳代のころの容姿を拝見しました。なんとお若く、そして艶っぽいことでしょう。
 その色香を見抜けなかった青二才も齢を重ねて84、ようやく熟女の若さを愛でる視力を養えた次第です。

 桃紅さんは20代に結核を患っていたそうです。今日のように医学が頼りにならなかった時代、病棟や戦地の生死の境から生きて帰った人は土性骨が半端ではなく、確かです。シンプルですが、堅固です。

 桃紅さんの筆や墨のお話にはそのあたりのことがよく窺えます。

──扱いにくい筆が好きです。さばきも腰もない、文字通り性(しょう)もない筆が好きで、そんな筆をもてあましながら書いていると、楽しいのか苦しいのかわからなくなってきます。書きたいものを書きたいように書く楽しみ、書きたいものを書きたいように書けぬ苦しみのはざまに漂うのです。

──命毛といわれる芯もない文字通り性もない筆で、何ぶん筆としての定まった表情や性格をもってはいないので、こちらのちょっとした油断や、心のかげり、すぐ過ぎてしまう捉えようのない想いまでうつすのである。わたくしのかくしている裏顔というようなものを、かいま見せることもある。わたくしをわたくしから逃げかくれさせない手きびしさで追い込んで来る。

──老子によると、墨いろは、黒の一歩手前の色、という。淡墨を重ねて、真の黒に至る一息手前でとどめる色が「玄(くろ)」というものなのだそうである。「玄」は「くろ」で「黒」ではないという。

──「川」の字はタテ三本に決まっている。けれども私は五本とか十三本とかの線をかきたくなる。ヨコの線もナナメの線もいれたくなる。そのかきたいという心はおのずからわき出てくるもので止めるわけにはいかない。

 桃紅さんは文字の墨書から形を描く墨絵に変わっていきました。詩歌をモチーフにしても、文字と文字の一画一画をくっつけてみたり、重ねて文字として読めなくしてみたり、そうした桃紅さんの大胆な挑発を得て、文字は自由を得たかのように新しい形となって自立します。
 松葉のように見える形、折れた稲穂の先端に見える形、文字のようで文字ではない形が、桃紅さんの「性もない筆」の先から生まれました。

 読める墨書の流れと、読めない墨絵の流れ。これを加速させたのが56年からの渡米でした。読める日本人は文字という意味性を探って鑑賞します。読めない外国人は「玄」の神秘や筆の走りでイメージを湧かせ抽象画として鑑賞します。

 可読性をとどめた墨書は壁書や出版物のために、イメージ世界に突き進んだ墨絵は自身の作家生命を証すために、両者は共存しました。

 その二つの流れの混沌の時期に『源氏』の仕事はありました。

 引用した筆についての2つの話は、ご自身の生き方、来し方をも思わせる象徴的で、心象的な話に感じられてなりません。ほかに、結婚、孤独、人間、理解などについての呟くような言葉もあります。
 ボクの臍下に棲む性癖で、桃紅さんの生身の日々へ妄想を飛ばしたくなるのですが、ゆめゆめしてはならない戯れなのでしょう、自重します。

<引用出典>
 随筆集『墨いろ』PHP研究所
 自伝『百歳の力』集英社
 YouTube『みんなの図書館おとなの夜学【第27夜】人生は一本の線』

 (元コピーライター)
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