【コラム】神社の源流を訪ねて(58)

査定間違いと兵主神社(ひょうず)

栗原 猛

査定間違っても修正は難しい      

 壱岐の兵主神社とは、いかめしい名前なので何かあるのかと思い、訪れることにした。芦辺港から車で約4キロ、10分である。複数の神社を回るのならば、バスよりタクシーの方が効率的ですと港で、アドバイスを受けたのでタクシーにした。                  
 鳥居は太くがっしりした石柱で、柱のところどころ石がはがれ、古社の貫禄十分である。鳥居をくぐり、参道は階段のない緩やかな坂道を50㍍ぐらい上ると、拝殿とその先に本殿がある。拝殿は民家風で、日吉大明神という石額も飾られてあり、ちょっと不思議に思った。宮司さんは常駐ではなく、いくつかの神社を兼務しているとかで、聞くことができずに残念だった。                             

 祭神は素戔嗚尊、大己貴神、事代主命だ。兵神社は全国に19社あるといわれ、兵庫県北部の7社を中心に山陰地方に多い。この兵主神は「古事記」(712年)「日本書紀」(720年)には出てこない。祭神はどこも同じとされる。「日本三代実録」(901年成立)に初めて登場する神社だが、「史記」の封禅書に載っている諸神の中に、「兵主」という神がいるので、中国からの渡来神ではとの見方もある。            
 ところで、927(延長5)年に作られた延喜式神名帳は、神社の格付けともいわれ式内社に記載されるかは、社格にかかわることなので、背景に政治的な動きがあったといわれる。   

 その後、長い間に社名や祭神、鎮座地などの変更、荒廃したあと勢力を盛り返し、また長い間に記録が失われたということもある。廃止され、他の神社に合祀して祭神が複数になるなど、神社にも栄枯盛衰があった。    
 1676(延宝4)年の式内調査では、壱岐の式内社24社について、廃れた神社があれば再建し、それぞれの神社の祭神の名前を整理して後世に残そうと、記録をチェックし直している。その中で兵主神社は、古くからの呼び名があり、それは日吉山王権現だったことが確認された珍しいケースである。                 
 中留久恵氏はこうした間違いについて、「日本の神々」(神社と聖地1)で、こういう例を紹介する。延宝7年、箱崎八幡宮の詞官が聖母神社の詞官後見という立場から、措置は間違っているので旧に復してほしいと藩に歎願が出され、藩も非を認めて、日吉山王社に掲げた聖母神社の石額を外して、聖母神社に返還させ…」ている。そこまではよいとして、その代わりに「新調の兵主神社の石額が日吉山王の神社に懸けられ、今日まで来ていることである」と述べている。つまり日吉山王の神社に兵主神社の石額が掛けられ入れ替わったわけで、拝殿に掛けてあった石額こそ、往古からの神社名だったのである。                          

 こうした間違いは壱岐と対馬には、式内社が集中していることから起こったとみられている。このほか、神仏習合で古い社名、神名が失われ、今度は神道の復古が起こり、再び混乱を生んだようだ。                     
 郷ノ浦町大原触の大國玉神社は 社伝によると、811( 弘仁2)年の草創とされる。1676年の式内社調査以前は、田原天神(たいばるてんじん)と称していたが、祭神は大國玉神社 、大己貴命に神改めされたという。 
 この調査は、平安時代にさかのぼっての調査なので、すでに廃止され失われている神社もあれば、神社名が変わった神や移転した神社もある。また壱岐も対馬も蒙古襲来で、大きな被害を受けている。元寇は壱岐の島民を惨殺し連れ去り、残った島民はわずか数百人になったといわれる。そのたびに多くの神社とともに記録も失われた。           
 ただ一度、結論を出して藩に報告すると、たとえ間違い個所があっても変更は難しく、訂正されないまま今日に至っているケースもある。   
 延宝4年の査定で平戸藩の国学者、橘三喜が、聖母神社の額を持って来て納め、聖母神社には、兵主神社の石額をかけたが、延宝7年(1679)、箱崎八幡宮が異を唱え、藩もそれを認め、聖母神社を元の名前の聖母神社に戻したケースもある。ただこれはまれでいったん決まった祭神を間違いだったからとはいえ、正しいもとの名前に戻すことは、なかなか難しいようだ。人々の信仰もかかわっているからかもしれないが、いささか今の政治に似ているところが感じられる。                以上

(2023.9.20)
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