■臆子妄論   

柳澤伯夫弁護――オーウェルのひそみに倣って       

                     西村 徹
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◆まえせつ


 もはや旧聞に属することかも知れぬが今年はじめ柳澤伯夫厚生労働大臣が失言
して騒ぎになった。その騒ぎのもとになった発言内容は次のようなものだ。

 「なかなか今の女性は、一生の間にたくさん子どもを産んでくれない。人口統
計学では、女性は15才から50才が出産する年齢で、その数を勘定すると大体分
かる。他からは産まれようがない。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決
まったとなると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね、
後は産む役目の人が1人頭でがんばってもらうしかない」

 これはまずかろう。本人が「産む機械」と言って、すぐさま「ごめんなさい」
では、いよいよまずかろう。「ごめんなさい」と言ってしまえば自ら非のあるこ
とを白状したことになってしまう。裁判沙汰になればそれが証拠として採用され
る。だから濫訴のアメリカでは交通事故などでも絶対に「ごめんなさい」を言っ
てはならぬとされている。シンドラーもパロマもなかなか「ごめんなさい」を言
わなかったのは、長年アメリカで商売してきたからだった。
 
「機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね」を言わなかっ
たとする。こんな騒ぎになっただろうか。なってもおそらく言い訳はしやすかっ
ただろうし、騒ぎにしにくかったろうと思われる。言い換えた、あるいは言い足
した「装置」のほうが、実際はおなじだけれども「機械」より風当たりの和らぐ
言葉だろうからだ。核燃料棒を取り出す「装置」などといって「機械」といわな
い。それだけ「装置」のほうが「機械」よりなんとなく高級感があるというわけ
だ。
 
なにはともあれメディアを介して「産む機械」という言葉だけがまず吹きこぼ
れて大臣は袋叩きにあった。おかげで男の多くはこれまで気づかずにいた女の側
の怨念「と言ってはなんだが」痛みの根の深さをあらためて知ることが出来た。
不妊に悩む人、産めるが産みたくない人などを激しく傷つける言葉であったこと
を学んだ。私自身、既婚の女性に「お子さんは?」とたずねてしまったことがあ
るが、そのときはそれがいけないとは知らなかった。「家族にカンパイ」とかい
うテレビ番組でツルベという芸能人が、やはり「お子さんは?」とたずねていた。
どうしても男はそのあたり鈍感だ。必ずしもすべての女性を傷つけるとはかぎら
ないので、なおさら鈍感になる。
 
病院の泌尿器科の待合室で隣に座っていた私よりは若い老人が言った。「男は
やっかいですな。損ですな」。前立腺は男にしかないからのことだ。男の手前勝
手を絵に描いたようなことを、しかも真顔でため息混じりに言うのがおかしかっ
た。女の人が聞いたらおかしいと思うより怒る人のほうが多いだろう。子宮がん
も卵巣がんも女だけがかかる。乳がんもまず女だけがかかる。出産と関係してい
るのかいないのか骨粗しょう症も女のほうが断然多い。素人目に見て女のほうが
男のように構造が単純でなく、女が機械なら男は道具ぐらいちがう。なにしろ産
む性ではあるから複雑にできていて、そのぶん生理的負担が段違いに大きいよう
に思う。妊娠、出産に伴うリスクに加えて毎月の生理だけでもたいへんだ。兵隊
に行くことが避けられないと観念したとき以外に、女であればよかったと思った
ことはあまりない。ところが男にはこの前立腺肥大の老人のように知らぬが仏の
単細胞が多い。
 
しかし大臣が、しかも厚生労働大臣も同様では困るだろう。袋叩きもやむをえ
まい。奥さんにも叱られたというから当然辞任が妥当ではあろう。しかしである。
どんな極悪犯でも裁判には検事の論告だけでなく弁護人の弁論がなければならな
い。なり手の少ない弁護人になったとしてどんな弁論が可能か。それを試みてみ
ようと思う。なにか別なものが見えてくるかもしれない。告発でもなければ判決
でもないことをことわっておく。

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◆ジョージ・オーウェルのウッドハウス弁護
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 ジョージ・オーウェルのIn Defence of P.G.Wodehouse「P.G.ウッドハウス
弁護」(1945年)を思い出してのことである。以下引用は平凡社刊『オーウェル著
作集III』(1970年)の小野寺健訳による。 P.G.ウッドハウス(1881-1975)
というユーモア小説の作家がいた。パブリックスクールを出て銀行員だったが副
業の小説が当たって専業の作家になった。小説のほかにゴルフの本も書いている
ので小説に縁はなくてもゴルフ・マニアは知っているかもしれない。1940年初夏
にドイツ軍は電撃的にベルギーに侵攻した。P.G.ウッドハウスはル・トゥケの別
荘に住んでいたが、ドイツ軍はよりにもよってこの笑話作家を逮捕し、さしあた
り自宅拘留にした。自宅拘留といってもウッドハウスの開くパーティーにドイツ
軍将校が客として出入りしていたが、結局42週間ほど他のイギリス人と団体で精
神病院に収容されたらしい。一年後に拘留を解かれてベルリンのホテルに移りド
イツのラヂオ局から英国向けの放送をすることになった。
 
放送は5回に亘り、ナチの勧めによるものではあったが強制によるものではな
かった。放送原稿は検閲らしい検閲もなかった。NHKに対する当局の干渉ほどに
もナチは干渉しなかったらしい。収容所のイギリス人は「みな最後にはイギリス
が勝つと堅く信じている」と放送で言うことも許した。中身は低調で、いつまで
も気の抜けたものだったから、ナチも5回でお払い箱にして釈放したが、最初の
放送の
「私は政治に関心をいだいたことはない。およそ、戦闘的な感情をかきたてる
ということができないのである。どこかの国に対して戦闘的な感情をいだこう
としたとたんに、ちゃんとした男に会ってしまう。その男といっしょに遊びに
出かけて、どちらも戦闘的な思想や感情などは失ってしまう」

は当時のイギリス人の間で非常な憤激を買ってしまった。今の平和な、とりわけ
日本でなら、こんなことを言って国民の憤激を買うなどはありえない。戦時中で
も永井荷風ならもう少し毒を含んだ言い方で似たことを内緒でなら言ったかもし
れない。むしろきわめて平和主義的な言辞である。たしかに民間交流が盛んにな
って人と人とが交われば仲良くなるにきまっている。まだ戦争初期のイギリス人
も概ねみんな似たり寄ったりだった。
 
しかし戦争は人を狂わせる。開戦一年後にはイギリス人も概ねみんな狂ってし
まった。国がのるかそるかの瀬戸際だったのだから無理もない。ウッドハウスは
のほほんと外国に暮らして、追い込まれて以後のイギリス国内の対独感情の変化
を知らなかった。知らぬが仏の能天気。反英的でも親独的でもなかった。オーウ
ェルによるとイギリス人は鈍感で危機に臨んで目が覚めるのが非常に遅いという。
それにしてもウッドハウスは遅すぎた。
 能天気さ加減を表すものとして、もうひとつ放送からの引用をする。

 「戦争前には、私はイギリス人であることにいつもささやかな誇りをいだいて
いた、しかし数ヶ月、このイギリス人ばかりの置き場というか倉庫といったと
ころで暮らしてみた今は、いささか怪しい。・・・私がドイツ側に望む唯一の
譲歩は、パンをくれること、正門に銃をもって立っている方には横を向いてい
ていただくこと、そしてあとのことは私に任せてもらうことである。お返しに
はインドと、署名入りの私の著書ひとそろいをさしあげ、薄切りポテトをラジ
エータで料理する秘訣をお教えしてもよろしい。この申し出は来週水曜まで有
効である」

 笑いを取ろうという魂胆が見え見えだが、これに加えて別な場所で「イギリス
が勝とうが負けようが」と言ったというので国を挙げての「売国奴」攻撃になっ
た。図書館から彼の著作は追放され、放送からも締め出された。反逆罪で裁判に
かけようという声もあがった。しかし彼の念頭にあったのは「コメディアンの最
大の願望――人々を笑わせたいということだったのである」。「罪状はせいぜい
馬鹿だという以上のものではない」とオーウェルは言う。政治音痴、思想音痴だ
っただけである。


◆日本テンション民族


 日本人はもっとテンション民族だから戦時中捕虜の行列を見て「お可哀そうに」
と言った女性が「非国民」と罵られた。教育勅語をちょっと読み違えて自殺した
学校長もいた。軍人勅諭の棒暗記をさせられて「な思ひそ(so)」を正しく発音する
たび「な思ひぞ(zo)じゃ」と殴られた国語学者の新兵もいた。京都の市電のなかで
赤い表紙の横文字本を読んでいた青年を第三高等学校の国史の教授は「怒鳴りつ
けてやった」と教室で昂然として生徒に話した。山口高等学校の生徒だった私の
友人は国史の授業中に、天孫降臨は物理的にありえないと疑義を呈していきなり
教授に殴られた。物価統制令で小売商は公定価格の表示を義務づけられた。書い
た値札が漢数字でなくアラビヤ数字だというので経済巡査に咎められ、警察署に
呼び出されて「敵性語(!)を使う非国民」と罵られ、手ひどく小突き回された。
商店街の入口の交番で巡査は退屈しのぎに通りがかりの朝鮮人を引きずりこんで
殴った。
 
国および国民が集団発狂状態にあるときは多数派の理不尽がまかり通って集団
リンチが発生する。戦後民主主義になってもそれは変わらない。Political
correctnessが幅を利かせてリンチが起こる。焼け跡の闇市で今度は日本の巡査が
いわゆる三国人にとっ捕まって袋叩きにされた。小泉苳三という歌人は「歌集『山
西前線』のただ一首によって不適格とされ、立命館を追われた」(折々のうた 朝
日新聞 07年2月23日)という。「東亜の民族ここに戦へり再びかかるいくさ
無からしめ」の一首に学内の教授たちは襲いかかった。「歌を読めない烏合の衆
による血祭りにあげられた」と大岡信はいう。歌を読めなくてもこの日本語の意
味は誰にもわかる。東洋平和が戦争の理念になっていた。それを逆手にとって反
戦を歌いこむ苦肉の策とも読める。苳三の意図は別として、戦時中ぎりぎりの抵
抗はその種の韜晦によらざるをえなかった。藤田嗣治の戦争画についても同じよ
うなことがあった。
 
四人組全盛のころ、江青ではなくて前の毛夫人だったかへのオマージュとして
書かれたはずの詩に、嬌の一字があったことに言いがかりをつけられ人民裁判に
かけられた詩人がいた。その当時に熱烈文革支持派の日本人中国文学者から聞い
た話だ。「嬌」にはいろんな意味があるが、その詩の英訳では「嬌」がproudに
なっていて、それが咎められたらしい。Proudには「傲慢な」の意味もあるから
だった。
 
ウッドハウスとこれらの例とはまったく同質でもないが、まったく異質でもな
い。悪気などなくて時の狂気に翻弄されて災難にあった点はおなじだ。同質でな
いのは、これらの犠牲者は純粋に不幸な犠牲者であって決してウッドハウスのよ
うにおめでたい馬鹿ではなかった点だ。したがってこれら犠牲者の災難は悲劇的
であった。ウッドハウスは「馬鹿だという以上のものではない」点、災難は喜劇
的であった。悲劇というにはあまりに間抜けな時代遅れの俗物に過ぎなかった。


◆柳澤氏の口通事故


 柳澤氏の場合もウッドハウスの場合と同じようなものではないかと私には思え
る。袋叩きにあったのを悲劇として弁護する余地はないが、これを機会に議論を
大いに深めうることを怪我の功名として、とんまな喜劇を笑うこともあっていい
のではないか。女性を怒らせもしたが笑わせもしたぶん情状酌量の余地はありえ
まいか。これ以上ひっぱたくと、アメリカ人でありながらムッソリーニを熱狂的
に支持して、イタリアのラヂオからアメリカの参戦に反対し反ユダヤ主義を鼓吹
した「エズラ・パウンドがアメリカ当局によって逮捕され銃殺されたならば、彼
は数百年にわたって詩人としての名声を確立するであろう。ウッドハウスの場合
でさえ、追い立てられた彼がアメリカに逃亡してイギリスの市民権を放棄したと
するなら、われわれは結局ひどく恥ずかしい思いをすることになるであろう」と
オーウェルがいうようなことに柳澤氏の場合もなりかねないだろうからである。
 
おそらく柳澤という人はクソ勉強をして大蔵省に入った金融とか経済のことで
は一家言を持つ優秀な「精密機械」なのであろう。銀行に公的資金注入の必要な
しとする自説を曲げず竹中平蔵と対立して金融大臣の職を解かれた硬骨漢でもあ
る。狭斜の巷になど近づいたこともない石部金吉の堅物なのであろう。女性の秘
部をたわむれて機械と呼んだりするような駄洒落には馴染んでいなかったにちが
いない。そうでなければ金輪際こんな言葉を公の場で口にはしなかったはずであ
る。機械本来の意味でよりもセクハラを責められる恐れ十分だからである。
 
時にそういう人物が本人はまったく知らずに発する言葉の含意に周囲は抱腹絶
倒することがある。本人はきょとんとして「なにがおかしい?」というのがまた
さらなる笑いを誘うということがある。松江でしゃべったこの失言はじつはその
類のものであったと思われる。野暮といえば野暮、「なにがおかしい?」のかわ
りに「ごめんなさい」だからますますこじれた。趣味は謡曲・オペラ鑑賞とくれ
ばいよいよその気配は濃い。母子家庭に育ったこともあずかっていよう。官僚は
それですむが政治家はそれではすまない。


◆言葉狩りの危うさ


 敵失に乗じるのは野党として当然だから審議拒否も当然として、言葉狩りであ
るかないかといわれれば言葉狩りでないとはいえなかろう。生物と無生物、意志
のあるものとないもの、恐れ多くも人間様と機械という、まるで遠いものを一緒
にしたからいけないというわけだが、類比というのは遠くて近いものを結びつけ
るところに成り立つ。日本の官僚は精密機械などという。ザトペックは人間機関
車などという。鉄の女などともいう。天皇の肉体を玉体などというのも物を修辞
として使う点では同じ部類に入るだろう。
 
ものを考えるとき抽象という手続きは必要だろう。その結果を数式や記号だけ
で表現できればよいが。そうでなければ分かりやすくするには具象を借りること
にもなろう。機関車や鉄や玉はよくて機械は悪いということにはなるまい。機械
だけ悪いとなれば機械工学をやっている人などは愉快でないだろう。いくら気の
強い女であっても、日本の鉄の今日あるについて、どれほどの男の血と汗を吸っ
てきたか、また派遣だの非正規だのが言われていなかったころから高炉の事故で
命を落とすのは本工ではなく下請け孫受請けの男たちだったことを思うと、鉄
が、女にささげる修辞として使われるのは困る気はするが、それをあながちい
けないとはいえないだろう。類比は自由であろう。言論自由に属することであ
ろう。一般論原則論としてそうなる。
 
この一般論原則論は、好みは別として押さえておく必要があるだろう。そうで
ないと好き勝手にタブーをかまえて歯止めなく言葉狩を膨らませることになるだ
ろう。菅直人が出生率の低さを生産性が低いと言ったのは「産む機械」と言った
のと同罪だと公明党が言った。菅は女性に限って言ったわけではないし、出生率
の高低をほとんど記号的に即物的に言い換えただけだ。菅についての公明党の言
いがかりは言葉狩り以外ではない。これは言葉狩りが言葉狩りを呼び出してしま
う適例だろう。戦前、天皇機関説も似た手口でやられた。
 
しかし言葉は時とともに文脈とともにイメージが動いてプラスにもマイナスに
も本来はなかった価値が降り積もり重なってゆく。玉体というとエロチックに感
じる人さえありうる。文字面からは不具というより障害というほうがむき出しで
残酷に感じられるけれども前者の消極表現が遠ざけられ、故障というより不具合
のほうが無難とされる。ひと昔前まで「おんな」というだけで差別のひびきがあ
った。「婦人」はむしろ少しあらたまっていう言葉であったが今日よろしくなく
なった。だから本来価値中立的であった言葉も、理屈は抜きで、その時点で、そ
れを言われて不愉快に思う相手がいるなら使うのは止めるのが礼儀ということに
なる。おなじく中国をシナというようなことは使う側に悪意はなくても使わない
がいい。「機械」の語を女性が嫌うなら使わないのがよい。「なにが悪い」と開
き直る権利は一般論原則論としてありえても、やはり使わないのが作法であろう。


◆作法のしくじり


 作法をしくじったことは間違いない。本人もそれはすぐに気がついた。A slip of
the tongueという類いで、人は時としてしくじる。痴漢でないのに痴漢にされて
しまうことさえある。顧みて寛容でありたく思う。鼻をひくひくさせ、眼を皿に
して人がしくじるのを待ち伏せて踊りかかるのはファシズムの属性でもあるだろ
う。これだけ何本もタオルを投げこんでいるのを打ち続けるのは道徳的にもよく
ないだろう。うっかり舌がもつれて将軍様をショーベンさまとかチョーチンさま
と言ったとする。天皇陛下をテーノー陛下といったとする。その場合の北朝鮮や
大日本帝国といっしょではこまる。
 
鴨がネギをしょって出てきたのだから野党はこれを撃たない手はないが、それ
で内閣を倒せるわけでもないのなら次の手に移らないとやぶへびになりかねない。
知的サービス業で成功した多くの偉い女性がこの失言は男の意識を露呈したもの
だと攻めていて、それはそれでそのとおりだが、これひとつを攻め続けて男の意
識はすぐに変わるほどなまやさしいものでもない。攻めるにしても攻め口に工夫
が要るだろう。失言にしても、安倍首相には「美しい国」など自分の言葉に自己
陶酔する癖があるのを、それを「女学生趣味」だといった大売れ筋なんでも屋の
評論家がいる。女を持ち上げるのに機械を引き合いに出すのが適当でない以上に、
男をこき下ろすのに女を持ち出してくる方がはるかにひどい女性差別だろう。伊
吹文相の「人権メタボリック症候群」などとともによほど悪質なはずだ。
 
辞めてもいいが辞めて男の意識がすぐさま変わるわけでもない。彼が辞めない
のは竹中と対立して職を解かれたことを考えると地位に恋々としてのものではな
いように思う。福井総裁が日銀を辞めなかったのは竹中の登板を阻止するためだ
ったのとおなじような理由があるのかもしれない。
 
産む産まないは個人の問題で国が口を挟む問題でないとして、私自身は少子化
になぜ対策が必要なのか、もうひとつ分かりかねているが、それでも、もし少子
化対策が国の重要課題だとするなら国政に携わる政治家としては国の枠組みでも
のを考えるほかなかろう。その際ルーティナイゼーションといって、いったん情
緒的なものを捨象して冷徹に即物的に対応することは医者が治療に臨むときとお
なじくすべての実務家には不可欠であろう。産める状態をつくること、産みたい
気持ちを起こさせるのが先決だとして、産んでもらいたいと思っていけないわけ
はなかろう。医者にしても何もかもおれに任せろでなくて患者みずからがその気
になってもらいたいと願うはずだ。


◆小物叩きは大物を逃す


 「今度の戦争で、現在行われている反逆者・売国奴狩りほど、道徳的に嫌悪す
べきものはない。・・フランスでは、大物の方はまず例外なくのがれているのに、
あらゆる小物――警官、安ジャーナリスト、ドイツ兵と寝た女など――が狩りた
てられている。イギリスでは、1938年に懐柔策をとった保守党員、1940年にこれ
を唱導した共産党員が、猛烈な売国奴狩りを呼号している。」

 オーウェルは1945年2月このように書いた。厚生労働大臣を「小物」とは言え
まいが、事柄は小物だろう。渡辺美智雄が老人福祉にカネを使うのは「枯れ木に
水をやるようなものだ」と言った。ゼニ勘定の得失でいえばそのとおりだし、問
題発言が売り物の男のいうことだから人々は「またか」と笑ってしまった。けし
からんことではあるが、大きく問題にならなかったのは老人はまだ今ほど多くな
かったし自分は老人だと思う人が少なかったからだ。そろそろ現れ始めた老人男
女を若い男女は露骨に疎んじてはばからなかった。盛り場の喫茶店など老人が入
ってくると人目につかない奥のほうの片隅に隠すようにして座らせた。

「ババアどけーッ!」と自転車で突っ走る小ギャルがいた。今もいる。そして
たしかに、ヒッタクリなどにしても被害を受けるのは老人のなかでも女性が多
い。Fair sexであるぶんweaker sexではあるらしい。ミッチーにはそのあたり
の計算ができていた。老人を切り捨てても票が逃げるほどでないことを知って
いた。露出度の低い俗習に馴染むことの少ない実務家の厚労相は女性が人口の
過半数であることに迂闊だった。一度標的になると、学校の虐めとおなじで、
どう動いても捕まる。「子供二人が健全」と言って捕まり、単純労働を「時間
労働だけが売り物」と言って捕まった。警邏巡査が捕まえやすい子どものバイ
クばかりを捕まえるのに似てくる。
 
どう見てももっとすごいのが、俗悪の臭気芬々たる石原慎太郎みたいなのが強
面だから却ってろくに騒がれずにきて、今度の厚労相は俗臭の少ないぶん余計に
叩かれた。謝ったから叩きやすくなって叩かれるのを見て、これは義にあらず恕
にあらずという気がして一言いいたくてくどくなった。


◆蛇足


 最後にもう一言。産む、産まない、産めない、産みたくないは論議されたが、
生まれてくる側のことはまったく論議されなかった。余程わたしが幼稚なのかも
しれないが、あらゆる生物とひとしく人間も、なぜ石や金属でなくて水以外は他
の生物を食わねば生きられないのかという疑問と同時に、なぜそもそも生まれて
こなければならないのかという疑問が物心つくころから漠然と心の荷になり始め、
それは濃くなり薄くなり、いまだに素朴未熟で分からないまま諦めてしまってい
る。
 だから私には殺生をしない機械には安心するところがある。機械も機嫌がよか
ったり悪かったりするけれど人間のように傲慢なところ生臭いところは少しもな
い。十五歳のころ他生物をいけにえにして生きる罪について話したら家がクリス
チャンの友達が理屈抜きでえらい剣幕で怒り出した。神の定めを疑うことだとい
って怒った。山口高等学校の国史の教授が天孫降臨を疑うことに怒ったように怒
った。そういえばあの子はかしわ屋の息子だったけれど。
 
その頃読んだ芥川の『河童』には電話の送話器を子宮にあてて生まれるかどう
かを本人に尋ねるところがあった。他の部分は忘れてもそれだけが不思議に鮮明
な記憶として残っている。人間も河童のようだといいなと思った。たしかあのな
かでは子宮のこどもは「いやだ」と言ったのだったと思う。英語を習っていて「生
まれる」は自動詞であってもいいはずなのに、いつでも他動詞の受身しかないの
が心にひっかかった。
 
健康を売り物にして活躍する老人もいるにはいるけれど、皮膚一枚下に苦行衣
が貼りついたような愁訴をかかえて老残を過ごす人も多い。眼耳鼻舌身意ことご
とく劣化しながら痛覚だけがぴんぴんしていて困っている老人は多い。生きてい
てほとんど意味を失いながら、そのくせ死にたくはないようにつくられているか
ら余儀なく生きている老人は少なくない。生まれたら死ななければならない。ひ
そかに生まれなければよかったと思っている老人もいるはずだ。
 
だとすると少子化はなぜこまるのか。これからの老人を養うためというのでは
産む側の勝手に過ぎるのではないか。大国である必要はなぜあるのか。フィンラ
ンドは日本と同面積で人口は500万だが、人口56万のヘルシンキには図書館が
38もある。教育がすぐれているのも周知のところだ。自殺者数は2002年WHO
の統計で日本は世界10位、10万人あたりにして男が35.2に対して女は12.8と、
男が女の三倍近い。
 なぜ男がこんなに自殺するのかといったことも頭のどこかに置いて、産む産ま
ない問題は考えてもらいたいものだ。そしてなんといっても公害を出す親玉は人
間なのだから、略奪グローバリズムでなく博愛グローバリズムの観点から人口と
密接に結びつく公害と貧困の問題を国益問題、地政学上問題としてだけでなく、
地球温暖化問題の一環として世界大でとらえるようでありたいものだ。
                  (筆者は大阪女子大学名誉教授)
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