■【エッセイ】

柘 榴                高沢 英子

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  激しい風が吹いて、マンション構内の庭の柘榴の花が随分散った。
  花びらは、いつのまにか吹き散らされたり、萎れてしまったりしたが、先が綺
麗な星形に開いた小さな筒状のガクが、木の根方に散乱している。

 柘榴の花は、白,淡紅、朱、絞りと色や形に様々な種類があり、八重咲きの花
などもあって、花びらは、実とは似ても似つかぬ、薄くあでやか、楚々とした風
合いをもつ。そして、この花びらが散り果てたあとの、がっちりとしたまるで兜
のようなガクが、これまたおもちゃの様に美しい。拾い上げると、赤味がかった
オレンジ色の6枚の硬い弁の中に、頭が黄色く、軸の柔らかな雌しべと雄しべが
びっしり詰まっている。

 落ちてしまったものは仕方がないが、木に残っているガクの根元の硬く締まっ
て膨らんでいる部分は、やがて大きく成長して、秋には実となるのである。けれ
ども落ちてしまったものの愛らしさも、たとえようなく、手にとってよく見ると、
はや秋の実が連想されて、自然の造化の見事さに、今更ながら賛嘆の思いが沸
きあがる。

 淡い頼りなげな花のあとの、まるで磨かれた彫刻のような硬質の実。つい捨て
がたい思いで、二つ三つ拾って帰り、食卓の上に転がしておいたら、2,3日で、
からからになって、みるかげもなく縮かんでしまった。

 当てられる漢字はなぜか二通りあり、柘榴とも石榴とも書く。
  もともと原産地は、ペルシャともインドともいわれ、ザクロという日本語らし
からぬ名も、もとはそのあたりの呼び名だったのかもしれない。

 歳時記によると、柘榴は季語としては、秋の部に入っている。独特の形状と、
艶やかな粒を並べた実が、印象に強く訴えることから、花木というより、果実樹
の扱いを受けて実が熟する秋の季語となったのだろうか。実は古来中国でも、中
秋の名月の祭に欠かせぬ果物として供えられてきたという。
  歳時記を繰っていて面白い句を見つけた。

  柘榴火のごとく割れゆく過ぎし日も 加藤楸邨

 はて柘榴火とはなんのことだろうか。特殊な俳諧用語のようで、意味がよくわ
からない、作者楸邨の造語であろうか、など、あれこれ考えてみたが、今ひとつ
胸に納まらない。

 俳人の富田さんにお尋ねしたところ、早速お返事をいただいて、柘榴、火の如
く割れゆく、という風に区切りなさい、と教えてくださった。

 なるほど、それならなんとなくわかる。富田さんも、難しい句です。と付け加
えられた。よくわからぬながら、詩としての格調の高さは、おのずからにじみ出
るような句で、これも柘榴という花木の持つ凛とした気品によるものかもしれな
い、と思った。

 釣瓶落としの秋の夜長に、しみじみ、来し方を振り返り、心の痛みに耐えてい
るひととき、ふと眼にする、熟れた柘榴の実。固い実殻が、なかば割れ、割れ目
から、炎のような色をした実が艶やかな光沢を放って一粒一粒並びのぞいている。

 それは、まるで過ぎていった日々のようでもある。ひとは見詰めているうちに、
割れた柘榴の実のように、心の隙間に赤く輝いて覗いている炎に気づくのかも
しれない。口に含むと甘酸っぱい余韻を残し、噛み締めているうちに、来し方へ
の愛惜と、悔いと、痛みにさいなまれ、尚、わが生の結実の少なさにたじろいだ
りするのかもしれない。

 梅雨明けとともに、恐ろしいほどの暑さが日本列島に襲いかかった。「猛暑日」
などという呼び名が生れ、朝ごとに、ビルのあわいから遠く、硬い鉱石のよう
に輝いて見える多摩川は、無事だったが、あちこちの町や村で、洪水が相次ぎ、
死者も出て、多くの被災者を苦しめている。

 長年の無計画で杜撰な森林行政が、大きな付けをつきつけているのである。日
本の山が、もう駄目だ、という声は早くから聞いていたが、
  昨年、ふとしたきっかけから、兵庫県で始められた日本熊森協会の活動の存在
を知り、日本の山林の荒廃の、放置できない実態について、さらに詳しいいろい
ろの実例を知り、少しでもそれを食い止める役に立ちたいと、入会した。

 西宮の中学校で、ひとつのクラスの中学生たちと担任の先生との小さな願いか
ら発足したこの会は、今や会員数、二万五千名に達し、粘り強い活発な活動を展
開している。

 しかし、一団体の力ではどうにもならない。この夏、各地で大きな被害をもた
らした水害は、まさにこの協会が長年主張してきたように、国の方針で、日本の
山林をほしいままに伐採したり、無計画に削り取ったりし、人もお金も注ぎ込も
うとせず、不足したまま、手入れもせずにほったらかしたので、餌や棲みかがな
くなった熊や獣が住めない山となってしまった。安い輸入木材に依存し、日本の
山の植林も手入れも怠り、荒れるに任せ、従来の山の保水力が大きく減退したこ
とも大きい、と聞いている。心痛む話である。最近は東京でも一部住宅地に、猿
が出没したりしている。

 この国の政治が、確固として国を愛し、人を愛するポリシーを持てず、企業の
経済成長をなにより優先させて、都市集中型の国つくりに力を注いできたつけ
が、今じりじりと国民を苦しめているのだ。

 とはいえ、国民の側も、選挙で、自分たちの考えや、希望をきちんと主張する
権利を与えられていることをあまり自覚せずに、そこそこ平安に暮らせることに
自足して、折角の民主選挙の権利も半数以上の有権者が放棄しているし、蔭で細
かいことをぶつぶつ文句だけ言って、あなたまかせにそっぽを向いているので
は、結局いつまでたっても、この国は心豊かにゆったり暮らせる国にはなれな
い。教育も、福祉も、環境も、農業林業といった国の基幹産業も、決して希望の
持てる状況にはない。

 みんなが個人的なことに気をとられ、全体を見ないで暮らしているような具合
になり、そうこうするうちに、いつの間にか、あらゆる方面で、じりじりと先進
国のランクから、滑り落ちかけている。 

 年をとったら、花や果物の木に囲まれた庭の片隅の、居室の窓から、夕陽を眺
める暮らしがしたい、と思っていたのに、気が付くと、都会の一隅の、マンショ
ンの窓から、朝ごとに、水の流れと、空と雲と、林立する高層ビルだけを眺めて
いる。

 「私は時を浪費してしまったが、今は時が私を浪費している」
  シェクスピアのリチャード二世の言葉だ、という。という、と書いたわけは、
実はこの言葉は、私がシェクスピアの作品のなかから、直接拾い上げたわけでは
なく、メイ・サートンの日記の中に引用されていた言葉の孫引きだからである。

 サートン八十二歳の日記の九月二十一日に引用された言葉で、サートンの死の
前年、大病のあと、体の衰えを自覚し、徐々に、いうことを聞かなくなってゆく
肉体の牢獄に、孤独の身で閉じ込められ、気力を振り絞って生きていた時期に当
たる。シェクスピアはさすがに凄い事を言わせる。いったいいついかなる状況で、
リチャド二世にこれを言わせたのか、と思い、翻訳を探して読み直した。

 時は一四〇〇年、イングランドはフランスとの長年の戦いや、アイルランドの
制圧と、相次ぐ戦さに国庫は枯渇し、王は策謀の果てに、従弟(ヘンリー四世)
の反乱で王権を奪われ、ポンフレット城の地下牢に幽閉の身となっている。そし
て、ドラマでは、このセリフを含む長い独白のあと、間もなく、暗殺されてしま
う。

 長いセリフの前置きは、王が、人生を音楽にたとえ、今でも自分は牢獄に聞こ
えてくる調子外れの音楽を聴き咎めるほどいい耳を持っているが、自分の政治や
人生の調子が外れるのを聴きとる耳を持たなかった、と苦い後悔を飲み下す場面
だ。王たるもの、楽ではない、と同情してしまった。

 「時が私を浪費している」というのは、王ならずとも、老いたものにとって
も、心に刺さる言葉である。浪費された果てに、不明期に至る、としたら、辛い
話である。

 昼間は余り外にも出ないでいたが、今朝見ると、暫く見ないうちに、柘榴の実
が直径2,3センチも膨らんでいた。梅雨明け前の風雨で大分落ちたものの、枝
をたわませて、艶やかな光沢を放って風に揺れている。
  このところ毎日晴れが続き、今夜は新月で、鎌の刃のような月が、暗い夜空に
くっきりとかかっている 

            (筆者はエッセイスト・東京都在住) 

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