【コラム】
1960年に青春だった(6)

来日外国人に“ May I help you ? ”はよしましょう。

鈴木 康之

 1964年のオリンピックの最中、ボクはマンハッタンの路上で尿意をおぼえ、「ションベンしたーい!」と、大声ではなかったけれど、声をあげました。あたりに日本語の分かる人間がいそうもない良き時代だったからです。

 英語がまるで駄目なボクをマジソン街の広告代理店の視察に遣らせたボスが無謀でした。海外も初なら飛行機も初めて。緊張のあまり前夜眠れなかったため、パンアメリカンのシートに身を沈めるなり睡魔に襲われ、数時間して高度1万メートルの寒さで目を覚ましました。

 当時のパンナム機に日本人スチュワーデスはいませんでした。ボクはのっぽな女性を見上げて「余は寒さを感じておる。なにか温かき飲み物を所望したい」と、なるべく端的に単語を並べて訴えました。彼女が「はいよ」と持ってきてくれたのは砕き氷いっぱいのコカコーラでした。

 仕事のオフィスがもっぱら都心の銀座や青山でしたので、欧米人旅行者に道や乗り換え駅を尋ねられることがよくありました。背丈の関係でいつも見下ろされます。敗戦国の劣等感まじりだったかもしれませんが、英語で尋ねられることが
次第に不愉快に思えてきて、ボクは一計を案じました。

 パンナム機は英語圏内だと思うからボクは敬意を表して一生懸命、英語で「アイ・フィール・コールド。アイ・ウォント・エニー・ホット・ドリンク」と話したつもり。結果としては逆の意味に聴こえたらしいけれども。

 日本にやって来たあなたがたはどうして日本語で道を尋ねないのか!
 郷に入っては郷に従え、英語でも言うじゃないか、「ホエン・イン・ローム、ドゥ・アズ・ザ・ローマンズ・ドゥ」と。あなたがたはこの旅行者のエチケットどおりに旅ができないのか!

 ボクが案じた一計はこうです。1音ずつ丁寧に「に・ほ・ん・ご・で・ど・う・ぞ」と返すことにしました。すると敵は「ソーリー」と言ったり肩をすくめたりして退散します。これすなわち敗戦国のタケヤリ奇襲戦法。
 いやもとい、これは真の国際化の正論であります。日本では日本語で、ケニアへ行ったらスワヒリ語で、これが世界各地の多様な文化が花咲き続ける知恵、旅先国への敬意、世界平和の基本なのではないかと思います。

 大学の仏文科時代、フランス語会話の点数がギリギリのボクに担任の助教授はパリに行ったらフランス語しか通じないんだぞと脅しました。パリっ子は気位が高いから、カフェでもホテルでも英語では聞いてもらえない、と。
 いまやフランスでもイタリアでも英語で不自由しないそうです。パリ人よ、お前もか、ローマ人よ、お前もか。

 日本に仏教とともに漢字が伝来したのが4世紀。それまでこの国には文字がありませんでした。そして平安時代(794~1185年)に漢字を書きやすく略字化する工夫から創られたのがこの国独自のひらがな、カタカナ。
 周知のとおり「安・以・宇・衣・於」の毛筆を運びやすいように崩したのが、「あ・い・う・え・お」。もっぱら女性用だったそうです。漢字の「安・伊・宇・江・於」を簡略化したのが「ア・イ・ウ・エ・オ」。主に男性が漢文書のメモ取りなどのために用いたそうです。

 後々それぞれの小文字まで創造したのは素晴らしい知恵です。小文字はICチップにも相当する偉大な発明。世界のあらゆる外来語の音を、正確ではないにしても、書き文字として受け止めました。ノーベル賞の百倍にも千倍にも相当する発明だと思います。

 オリンピックで話を始めたので、オリンピックの話で脱線しますが。

 2004年のアテネで北島康介が優勝、水からあがっての第一声が「チョー気持ちイー」でした。あけすけで、幼く、音的で、先輩世代はいささか苦笑気味に受け止めたものでした。その年の流行語大賞になりました。

 そのころからでしたか、マスコミは「チョーかっこいい」をはじめ、「ゼンゼンいい」「ムッチャクチャうま」などの幼稚語を野放しにして生活権を与えてしまいました。そして「ら」抜き言葉の垂れ流し。大学教授、役者、そしてアナウンサーまで口先で仕事する者たちが平気で口から垂れ流します。
 テレビ局は「ら」の抜けていない言葉のテロップで追っかけますが、生放送では為す術もなし。あのテロップの追っかけっこをいつ放送局が無駄な努力だと諦め、お手上げにするか、監視していこうと思います。

 言葉というもの、とくに普通語、日常語は、時代の風に吹かれ、飛ばされ転がされ、変わりゆく運命のもの。国が統制しようものなら非民主主義的暴挙だとブーイングされるのがオチでしょう。

 このあたり独裁国家ではどうなのでしょうか。

 今日までの日本語は幸せでした。

 西洋列強の植民地にならなかったこと。オランダやポルトガルから文化、文明が入ってきても、阿蘭陀、葡萄牙、加須底羅、煙草、チョッキ、ビスケット、ブランコ、ボタン、お転婆、などなどと日本文字で音を受け止めシャレのめしました。先達たちに脱帽、感謝。日本語力万歳です。

 その後も、明治時代には英語の公用語が提唱されたり、第二次大戦後はGHQの漢字廃止政策や漢字主査委員会のふりがな廃止論があったり。商社などではタイプライターの効率化のため漢字廃止運動など、日本語を壊しかかったことがありましたけれども、幸いにして頓挫しました。
 いまのところ日本語の危機を救ったのはワードプロセッサー機能ですが、まだまだ油断はできません。

 英語は論理語だと言われます。読み書き話すがシンプルで、習いやすい便利さがあります。便利だから英語(米国英語)圏は広がりやすいでしょう。広がればみんな入ってきます。通貨のドル圏と同じですね。

 日本語は人間語ではないかと思います。読み書き話すが複雑で、マスターしにくい不便さがあります。そのかわり奥深く、感情的表現に果てしない可能性を秘めています。

 それなのに英語を社内公用語と定め、会議を英語でやる日本企業が少なくない時代です。ぞっとします。そういう企業の思惑が経済効率であることは明々白々です。しかしそこに企業百年の計の重しがないことも明々白々です。
 この場合の英語はかつての大英帝国の英語ではなく、強大資本主義的経済大国米国の英語です。

 浅学のボクでさえ、米国のマネー主義の象徴を三つ四つ、アゲレマス。

 一つは農業。先住民から略奪し、あるいはフランスから超安値で譲り受けた広大な土地を生かした農業を工業にしてしまった。機械化、資本化です。

 つぎに思いつくのは、第30代大統領、寡黙なカルビン・クーリッジがふと漏らしたという地口「アメリカの Business(本分)は Business(商売)だ」と、デトロイトの帝王ヘンリー・フォードが言い放ったという箴言「マネーは主人か下僕か」。どちらも同じ1920年代前半の言葉です。

 その後は世界・宇宙へ勝手のし放題です。暮らしと社会をもっと楽しくもっと便利にと夢を売りつつ、そのマネーと技術開発のすべてを兵器やロケットの開発に集約し、戦争 Business(商売)国家の道を超高速で…。

 とはいえ栄華はまだ百年たらず。早くも息上がって疲弊しきり、アメリカンドリームと讃えられていたハリウッド総天然色の陽気さはありません。
 便利で商売になるからと世界がこぞって米ドル傘下になだれ込んだのと同じ、米国英語傘下にいたほうが便利で商売にはなる。なるでしょうけれども。

 1980年代の初めのころだったと思います、全身黒一色のファッションを競いまとった女性の群れが渋谷の街を闊歩しました。「カラス族」とはよく名づけたものです。一様は異様でした。本人たちの目にも、人の目にも飽きられて、すぐに消えました。

 世界史が教えるとおり社会の一色化はいっときの儚いファッションです。
 便利さになびく同化は、大量生産、大量消費、自然破壊、そして人心の荒廃へ、という巨大な現在進行形の実例をボクたちは目のあたりにしています。

 日本人は日本語を守りましょう。誇りを持って。

 来日外国人には日本語で話しかけましょう。にっこり笑って。

 (元コピーライター)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧