【オルタの視点】

李登輝発言と植民地主義―「戦後」は果てしなく続く―

岡田 充


 李登輝元台湾総統が7月末に来日した。台湾では「過去の人」という評価が定着しているようだが、日本では「アジアの哲人政治家」と持ち上げる声が絶えない。来日中に国会議員ら300名を集めて演説し(写真1)、安倍晋三首相が秘密裡に会ったのもそれを裏付ける。来日中、李は「尖閣は日本領」と改めて明言、日本の雑誌に第二次大戦では「『日本人』として、祖国のために戦った」と書き、戦略的親日カードを駆使して「麻烦製造者」(トラブルメーカー)ぶりを存分に発揮した。一連の言動を政治的文脈で読み込めば、来年1月の台湾総統選で民主進歩党(民進党)の政権復帰が確実視され、自分の存在感と影響力をアピールする。「日台運命共同体」を強調して、北京を挑発することを計算に入れた言動である。ここでは李発言を政治的文脈から見るのではなく、日本の植民地支配を心理的に清算できない日本の政治エリートたちを「ポストコロニアル」の視点から解析したい。安倍は戦後70年の首相談話で、侵略と植民地支配について将来の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせはならない」という本音を強調した。しかし植民地支配を内在的に清算できなければ、「戦後」は果てしなく続く。

(写真1) http://www.alter-magazine.jp/backno/image/141_02-4-01.jpg

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 「あと5年は頑張る」
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 ことし92歳の彼の来日は総統退任後7回目。今回は7月21日から25日まで東京のほか東北、北海道を旅行した。22日に衆院第一議員会館で演説し、23日は日本外国特派員協会で講演。それに先立ち23日、安倍首相がJR東海の葛西敬之名誉会長と都内のホテルで会食した際、同じホテルに宿泊した李が合流し秘密裡に会談した。安倍と官邸は会談の事実を否定しているが、日台関係筋は「会ったのは間違いない」と言明する。
 会談内容を是非とも知りたいところだが、推測するしかない。時期からみて、安倍からは安保法制や首相談話について説明。李は安倍政権と安保法制への支持を表明し、総統選の見通しや民進党政権復帰後の日台関係について意見交換したのだろう。安倍は談話の中で大戦以来「苦難の歴史」を歩んできた国として「台湾、韓国、中国」を挙げたが、北京はこの順番に強い不快感を抱いたという。安倍の台湾重視姿勢の表れである。

 ここで、衆院第一議員会館で行われた演説内容を振り返る。講演は「台湾パラダイムの変遷」と題され、得意の日本語で行われた。李は国民党政権を「外来政権」と位置づけ、国民党の長期支配の結果、「主体性を持った台湾人アイデンティティ」が育ったと強調した。李が自己の存在感と影響力を誇示しようとみられるのは次の二か所である。
 第一は、総統時代に行った憲法修正を回顧して「台湾には憲法改正を含む第2次民主改革が必要。改革を求める声は若者たちの間から大きく上がっている。現在の中華民国憲法では総統は直接選挙で選ばれるが、憲法上は権力の範囲にはっきりした規定はない。権力の分離や権力の抑制を憲法にてらして制限すべき」と述べた。「第2次民主改革のための憲法修正」は、次期民進党政権への呼びかけに他ならない。
 第二に「今や第1次民主改革の成果は極限に達しており、台湾はまさに第2次民主改革が必要。私は現在92歳。長く見積もっても台湾のために働けるのはあと5年ぐらいだろう。残りの人生は、より一層成熟した民主社会を打ち立てるためささげたい」と述べた。あと「5年」というのは、民進党政権の復帰とその執政に「老骨に鞭を打ち」影響力を行使したいとの願望表明と受け取れる。

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 「祖国」と呼ぶ自己矛盾
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 日本の国会議員を前にした演説は、どちらかと言えば「かみしも」を付けた内容だった。日本の植民地支配と自己のアイデンティティの本音が露わになるのは月刊誌「Voice」9月号(8月10日発売 写真2)の「日台新連携の幕開け」と題する寄稿である。概要は次の通り。

(写真2) http://www.alter-magazine.jp/backno/image/141_02-4-02.jpg

 第一は、植民地支配を振り返り「日本と台湾は『同じ国』だったのである。『同じ国』だったのだから、台湾が日本と戦った(抗日)という事実もない」と書き、さらに、陸軍に志願して高射砲部隊に配属された自身と、海軍に志願して戦死した実兄の李登欽にも触れ「当時われわれ兄弟は、紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦ったのである」とした。植民地統治下にあった台湾を「国」と表現するのはいかがかと思うが、それはひとまず置いておこう。
 論議を呼んだのは、植民地支配者の日本を「祖国」と呼んだ部分である。英植民地下に置かれたインド人や香港人、マレー人は、英国を「祖国」と言うだろうか。台湾同様、日本植民地となった朝鮮半島の人々が日本を「祖国」と呼んだ例を知らない。日本を「外来政権」と規定する李が、それを「祖国」と表現する自己矛盾。
 第二に、馬英九総統が作ろうとしている「慰安婦記念館」について「すでに台湾の慰安婦の問題は決着済みで、いまさら蒸し返すことは何もない」と書いた。
 第三は、馬政権が支持する「92年コンセンサス」について「まったくの虚偽だ」と否定、馬が「終戦70周年記念を利用して中国本土にすり寄ろうとしている」と批判した。

 李発言を政治的文脈から読み込むのは分かりやすい。批判を受けた馬英九は20日「中華民国の総統を12年も務めた李氏から日本に媚びるような意見が出たことに大変驚いている」と反論し、発言撤回と謝罪を求めた。また、慰安婦についても「問題はまだ終わっていない。これ以上慰安婦を傷つけてほしくない」(聯合晩報)とし、「92年コンセンサス」については、「李登輝氏自身が当時示したもので、数カ月前に本人がはっきりと認めている」と反論した。
 国民党の総統候補、洪秀柱・立法院副院長はもっとストレートに「恩義を忘れ義理に背いた『老いぼれ』。中華民国の総統を務めた李からこのような話が出るのは、彼が日本人だからだ」と非難した。
 作家の司馬遼太郎が、李と対談した記事が日本の週刊誌に掲載された1990年代初め、それを読んだ中国の唐家璇・中日友好協会会長(元外相、国務委員)が「彼は日本人ですよ」と語ったことを思いだす。(写真3 wikipedia より 高校時代の李。左は実兄)

(写真3) http://www.alter-magazine.jp/backno/image/141_02-4-03.jpg

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 内発的歴史観で清算を
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 唐家璇や洪秀柱が「彼は日本人」と言い、馬が「日本に媚びている」と非難した論拠は、李が漢民族(客家)である“血脈”に基づくアイデンティティを否定したことを、漢民族の立場から非難したのである。いわば「民族情結」(コンプレックス)からの批判だ。
 しかし李自身はそうした批判には全く動揺しないはずだ。なぜなら自著「台湾の主張」の中で「私は21歳まで(筆者注;日本敗戦まで)日本人だった」と公言している。京都帝大農学部に進んだエリートの李が、応召して陸軍高射砲連隊に配属された時「祖国(日本)のため」との思いを抱いたのは偽りのない感想だろう。彼は「よき日本人になろうとした」あの時代の台湾エリートの一人である。だが彼の主張を、多くの台湾人の対日意識を代表する発言と受け取るのは正しいだろうか。

 問題にすべきなのは、彼が「日本人か」どうかではない。安部首相が秘密裡に会談し、彼の講演に300名もの国会議員とその秘書たちが集まった事実をどう読み込むかこそ、日本側がきちんと整理すべきポイントだ。安倍が首相談話で「侵略」「植民地」「お詫び」を入れつつも、後の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせはならない」と強調したのは、第2次大戦は「侵略戦争でなく、植民地解放のための戦い」「自存自衛の戦い」と位置付ける靖国史観に共鳴しているからではないか。靖国神社の歴史観に詳しい弁護士の内田雅敏は、特に「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」という安倍談話を取り上げ「これは靖国神社の歴史観と軌を一にする」と指摘した。
 しかし安倍や300名の政治エリートたちは、公の場で彼らの歴史観を披歴することはできない。彼らの本音を代弁してくれるのが元日本人の李登輝なのだ。「台湾がなぜ親日なのか」「日本の植民地支配は否定面だけではない」などと、元総統が繰り返す「親日発言」を日本の政治エリートたちは、おそらく心地よくうっとりと聞いているに違いない。

 右派系誌が「安倍政権を潰すな」という特集記事に李の発言を掲載したのも、テレビが毎日のように放映する「日本ほめ番組」の意図とも通底する。「大国喪失感」をどこかで埋めたいという多くの日本人が抱く集団的な社会意識でもある。
 歴史観とは本来、過去の歴史に真剣に向き合い、現在と将来のあるべき道を探る「内在的」なものであるはずだ。首相の靖国参拝問題や歴史教科書などをめぐって、「被害者」の声に耳を傾けるのは、歴史を清算する上で重要な要因だ。しかし外国からの「ガイアツ」に嫌々答えるべきものではない。

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 親日史觀は容認できない
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 朝日新聞は「元総統寄稿に台湾で論争」(8月24日朝刊)という記事で、論争の背景を次のように書く。「戦前に中国から台湾に渡った人やその子孫の『本省人』と、戦後、国民党政権とともに台湾に移った『外省人』の対立がある。人口の8割超を占める本省人には日本と戦ったという意識は薄いが、外省人には抗日戦争で台湾を取り戻したとの考えが強い」。抗日戦争観をめぐり、台湾で「本省人」と「外省人」との差があるのは事実だが、「族群矛盾」を強調すると本質を見失う。
 先に「李の主張を、植民地時代の台湾人の対日意識を代表する発言と受け取るのは正しいのか」と問題提起した。そのことを植民地時代の具体的データを使って立証しようとした台湾人研究者の論文を紹介する。東呉大学准教授の郭正亮(写真4 「維基百科」)が8月24日、インターネット新聞「美麗島電子報」に投稿した「台湾人は李輝的親日史觀を容認できない」である。

(写真4) http://www.alter-magazine.jp/backno/image/141_02-4-04.jpg

 郭は元民進党立法委員で、陳水扁政権時代に総統のスピーチライターをしたこともある。郭はまず「李が一介の平民なら、当時の思いを回顧することは個人の言論の自由として尊重されるべきだ。しかし問題は李が12年間中華民国総統をし、現在も元総統として厚遇されている以上、彼の発言は単に個人を代表するものではない」と書く。厚遇とは、警護人員や専用車の費用など福利が、中央政府から支出されていることを指す。

 一方、次期総統が確実視される蔡英文は「それぞれの人々が個人の歴史を有している。それぞれが経験した歴史をお互いに理解することによって、社会の団結は深まる。台湾は今後も対立を続けていくべきではない」と述べ、外省人vs本省人という「族群対立」を戒めるとともに、李の主張も「包容」すべきと主張した(8月22日 台北での李登輝基金会募金パーティーで)。李発言を私人のそれと見なして尊重すべきという立場だ。選挙となれば李登輝支持票は5%以上あり、これを失いたくない苦しい胸の内が分かる。

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 軍志願と改姓名は少数
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 「李の日本認識は、決して当時の台湾人の主流価値観ではない」と断じる郭は、論拠の一つとして、日本人として参戦した台湾人の割合を挙げた。1943年の台湾人口は659万人。当時日本軍に参加したのは、兵士8万と軍夫・軍属12万の計20万人で「人口の3%に過ぎなかった」と指摘。学徒動員で陸軍に志願した李は3%の少数派だったことになる。
 次いで指摘するのは改姓名の割合。台湾総督府は1936年9月、台湾で皇民化運動を全面展開し、小林躋造総督(海軍大将=写真5 wikipedia より)は「皇民化、工業化、南進基地化」という「台湾統治3原則」を掲げ、台湾人に日本姓名に変えるよう指導するとともに、日本語普及運動を開始した。1940年に公布された「台湾籍民の日本姓名改変促進綱要」によれば、改姓名家庭は必ず「国語常用家庭」であり「皇民資格を持ち公共精神が豊か」という2条件が必要とされた。

(写真5) http://www.alter-magazine.jp/backno/image/141_02-4-05.jpg

 李登輝の父親の李金龍は、警察官として植民政府に忠実であり、李登輝の名前を「岩里政男」に変えた。『岩里』」と言うのは極めて珍しい日本姓だが、これは天照大神の神話に倣い「岩」の字を充てたという。「李氏家族の皇民精神の表れ」と郭は分析する。

 同時に「皇民化は台湾の主流では決してなかった。1943年12月の段階で、日本姓名に変えた者は多くはなく、台湾全体で1万7526戸、人数にして12万6211人とわずか2%弱にすぎない」とする。そして李登輝のような「台湾籍日本皇民」はごく少数の「親日高級台湾人」であり、「多数の台湾人は日本姓名への改名は望まず、日本軍への参加も希望しなかった」と書く。
 続いて郭は、「当時の台湾人には少なくとも三つの歴史的選択があった」とし(1)日本統治を容認し自ら台湾籍の日本皇民になる「親日派」(2)中国の抗日戦争に参加した「親中派」(3)台湾の自治改革運動を推進し日本の植民地支配に抵抗する「本土派」― を挙げる。

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 「ストックホルム症候群」
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 (2)の「親中派」として、華南、華中、華北戦線に国民党軍や八路軍に参戦した数多くの知識人の名を挙げているが省略する。郭は「彼らは紛れもなく当時の台湾屈指の各界エリートであった」とした。
 (3)の「本土派」については、1921年に民権啓蒙運動を進めるため「台灣文化協會」を設立した蔣渭水らの名前を挙げ、1927年に洪元煌、彭華英らエリートたちが立ち上げた「台湾民衆党」を例示する。同党は「民本政治の確立、合理的な経済組織の建設、社会的欠陥を改廃」する三大目標を掲げた。32年に創刊された「台湾民報」は、植民地支配と圧迫に抵抗する最大の華字紙だったが、総督府が推進した「皇民化運動の中で民衆党は解散させられ、台湾民報も華字版の発行を禁止され御用新聞となった」と振り返った。
 そして「台湾の自治改革運動に参加しなかった李登輝一家は『皇民史観』から台湾現代史を改ざんし、『親中派』と『本土派』の日本抵抗運動を抹殺した」と書いた、その上で「李を含む戦後の『親日派』は、国民党という外来政権と大中国史観に反対するため、『日本皇民』がすべてだったと故意に誇大化している。『親日史観』は『大中国史観』同様、唯我独尊である」と批判した。
 最後に郭は「第2次大戦の歴史的正義を処理するこの時期に、米国も受け入れない日本の右翼の観点と同じく『被植民者が植民統治に同情』し、(誘拐の被害者が加害者に共感する深層心理を意味する)『ストックホルム症候群』に台湾を貶め、笑いものにされていることさえ自覚していない」と酷評した。
 論文は、台湾と朝鮮の植民地統治の具体的比較も論じているが割愛する。

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 混合文化から学ぶ
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 李登輝の言説には矛盾が多いが、魅力的な人物でもある。それは大国化する中国や既成の国際環境に「ドンキホーテ」のように一人で立ち向かう姿に、ある種の「小気味良さ」を感じるからだ。陳水扁誕生直後、台湾ジャーナリストの司馬文武を取材した際、李登輝評を聴いた。「李は不思議な人である。台湾人の心を持ち、日本人の思考方法と欧米の価値観を持つ。同時に中国的な社会、文化背景の中で生きている」という興味深い答えが戻ってきた。李に限らず、日本統治を経験した第1世代とその末裔である第2、第3世代の知識人には、同じような傾向がある。中華文化を基礎に、日本文化と先住民文化の混合した台湾人の複合意識を実にうまく表現した言葉だった。

 最後に作家で台湾文化部長の龍應台とのインタビュー(2013年4月)の内容を紹介しながら締めくくりたい。龍は戦後、湖南省から台湾に移住した外省人2世。彼女は「台湾は独立か統一かでいつも喧嘩しているようにみえるが、それは表面的なものに過ぎない」という。台湾では「民主と自由の追求」という共通認識ができ上がり「本省人と外省人の省籍矛盾や、独立か統一かの二項対立を超えたコンセンサスになっている」とみる。
 米国やドイツ、香港で生活した経験を持つ龍は「異なる国家、人種、宗教、イデオロギーを体験することによって、あらゆる価値を相対化する思考方法が身についた」のだろう。台湾の混合文化は、台湾の優位性と強みを象徴している。特にSNSが国境の垣根を低くし、国家の枠組を超えた共通の社会意識が広がっている現在、混合文化の持つ意味を改めて問い直す必要がある。李の「戦略的親日カード」にうっとりとして溜飲を下げるのは、政治エリートの仕事ではない。その心理に甘んじていれば、次世代に謝罪を続けさせたくない安倍の希望とは裏腹に「戦後」はさらに続く。李発言をめぐる論議を、「単一民族」幻想から脱皮できない自身の姿を、鏡に映しだす契機にすべきだろう。

 (筆者は共同通信客員論説委員)


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