【コラム】『論語』のわき道(51)

竹本 泰則

 業種によっては店の看板を漢字一字で済ますことができます。その漢字は薬、米、酒、本などです。花、畳などもよさそうです。もっとも畳は現代では見ることが少ないでしょうが。看板を見る側は頭の中で漢字を読み、その意味を瞬間的に、しかも、苦も無く見つけて店の業態を判断します。
 前に挙げた漢字の中で「本」はほかと少し趣が違っています。ほとんどの人は反射的に「ホン」と読むだろうと思います。つまり音読みになるのですが、ほかの字の場合はみな訓読みします。この字を見て浮かんでくるのは英単語でいえばbookに相当すると意味だろうと思います。
 いうまでもなく、この「ほん」はやまとことばではありません。
 漢字が伝わってきたときに、当時の中国の字音をまねた読み方で、他の多くの漢字と一緒に日本語に採り入れたものです。
 「本」は古くからある字で、『論語』はもちろん、中国の多くの古典の文中に見られます。しかし、それらの中にはbookの意味で使われたものはありません。これは当然でしょう。この漢字ができたころは、紙も無ければ印刷術も無い。つまり、bookという言葉で私たちの頭に浮かんでくる対象物そのものがこの世に無かったわけですから。
 「本」という字は「木」という字に根もと、下部を示すための横棒(記号)を加えてできたというのがほぼ定説のようです。つまり、草木の根もと、根本(こんぽん)、基礎、土台などといった意味合いが本来の字義です。訓読みの「もと」とも合致しています。
 漢字を生んだ国、中国ではbookにどの漢字を当てるだろうかと、日中辞典を繰ってみると「書」のようです(総称として「書籍」のほか「書本」ということはあるようです)。「本」の中国における用例としては根本、基本といった言葉、<そのもの>といった内容を表す本人、本日などが出てきます。中国における「本」の字義は現代でも原初と大きく離れていないようです。
 あちらの人は、「本」と書かれた看板を見ても書店とはわからないのではないでしょうか。
 わが国は「書」も「本」(book)とほぼ同様の意味で使います。読書、図書館、〇〇白書などの類です。聖書、辞書、蔵書などは本そのものと言えそうですし、本屋さんも正式名称は「〇〇書店」としているのが普通でしょう。
 
 紙が発明される以前の古代中国では、経典・史書など書籍の形態は、文字が書かれた細長い札を順序に並べ、糸で綴じています。「のり巻き」を作るときに使う巻き簾みたいなもの。巻き簾は細い棒(ひご)ですが、書籍は短冊状の板がつながっているのです。読むときに広げられ、普段は巻かれた状態で保管されます。書籍の数などを数えるとき一巻、二巻と「巻(かん)」を使うのはこれがルーツであるようです。
 竹を削ってできた札は竹簡(ちくかん)、木の札は木簡(もっかん)と呼ばれます。文字は1枚に1行という形式が多いようです。簡のほかにも絹布に書くことも行われていたといいます。
 これらの書き物を当時から「書」と呼んでいます。『論語』にも「書云」、「読書」といった表現が見られます。「書云」とは書にいう、つまり書物にこのように書いてあるということ、「読書」はいうまでもなく書物を読むです。
 竹簡・木簡は紙が発明されると次第にとって代わられますが、わが国に文字、仏教などの大陸文化が伝来した時期は紙の発明から何百年も経っています。それでも竹簡・木簡は紙とともに伝えられたようです。朝廷などに納める物品などの送り先を示す古い木簡が出土しています。
 仏教書、王朝文化の諸作品などは紙に書かれるのが普通だったでしょう。
 この時代は、文章などをつづった紙を糊でつないで巻物にしたものと、一枚ごとに紙を重ね糸で綴じたものが主であったと思われます。後者は「さうし」(冊子、草子、草紙、双紙)と呼んだようです。綴じた書籍もまだ本とはよばれていなかったようですね。
 「さうし」といえば『枕草子』が浮かびますが、その第七二段「ありがたきもの」の中に「本」の字が現れます。
 蛇足ながら、「ありがたき」は現代では意味が変化していますが、ここは有り難き、つまり、起こることが稀なこと、めったにないといった意味あいです。
 くだんの文章では(ありがたきものの一つとして)「物語・集など書き写すに、本に墨つけぬ」を挙げています。
 当時は印刷術がありませんので、書き物は著者(編者)のオリジナルが一つあるのみです。手元に置きたい書物はオリジナルを書き写して自分用のものを作るしかありません。その書写をめぐっての叙述です。
 物語や和歌などの歌集を書き写す際に、あやまって本に墨をつけてしまうことなく作業を終えること(そういうことは稀有なことだ)と読みとれます。こんな古くから「本」と言っているじゃないかと小躍りしたくなるのですが、ここの「本」はbookではなく「もと」(書写の対象としているオリジナルの書物)とするのが通説です。
 異を唱えるわけではありませんが、オリジナルを墨で汚さぬように格別に気を配るはずですし、書写している紙とオリジナルの書の位置などを想像すると、特別に「ありがたき」ことのようには思えませんが、どんなもんでしょう。
 
 『論語』には「本」の字が5回出てきます。もちろん、いずれもものごとの根本の意味です。その中で比較的知られた章句を引きます。
 
 君子(くんし)は本(もと)を務む、本(もと)立ちて道(みち)生ず
 
 君子は、まず、ものごとの土台・根本を確かなものとするように力を注ぐ。
 根本が定まれば道、とるべき方針ははっきり見えてくる。
 
 この章句は『論語』の巻頭を飾る第1章(学んで時にならう、またよろこばしからずや。……)に続く第2章の中にある文句で、孔子の高弟・有若(ゆうじゃく;孔子の没後、後継者に推されたとも伝わる人です)の言です。
 辞書の中には後半の「本立而道生」を成句として立項するものもあります。『論語』らしい内容と感じられないでもありません。なにごとにつけ土台をしっかり築くということは大切なことでしょう。しかし、いうほどに簡単な話ではなさそう。目的を達成するために何が土台なのかを間違いなく判断するのは、結構むずしい。また、土台さえできればあとはおのずから進むというほど甘くもないように思えます。

(2023.8.20)
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