【社会運動の歴史】

木崎無産農民学校と教師野口伝兵衛(4)

阿部 紀夫


◆ 10.高等農民学校の閉校

 高等農民学校は、農民学校解散を条件とする県交渉の過程で開設が認められ、9月1日に開校式が行われた。入学案内は、次の格調高い書き出しから始まっている。

 「無産農民のもつ我国最初唯一の教化機関木崎村に於ける新潟高等農民学校は、幾多の悩みを体験したが、来る10月1日を以て開校することに決定した。混沌たる現代農村の惰弊を排し、真の農村文化建設のために奮起せんとする有為の青少年諸君。暗黒なる農村生活に於いて未だ組織的教化に浴する機会を閉ざされし優秀なる諸君。諸君よ。その叫びその熱求を悉皆(しっかい)容れ得るもの、それはこの高等農民学校のみである。
 農村無産青年諸君よ。奮って第1期本科生として応募せられんことを望む。」

 本科は、1ヵ年で入学資格は小学校卒業程度で若干名を募集した。高等農民学校規則によれば、本科以外の研究科は1ヵ年以上、専修科4ヵ月で、入学は本科、研究科が10月から、専修科が12月1日で、10月の入学者は30名余だった(諸説あり)。
 案内では、校長は賀川、専任教師は野口、黒田、原、武内、西山武一その他講師は大宅、木村、三宅、稲村などとしている。

 しかし、新潟新聞は開校式の様子を「盛大ならざる開校式 参列者僅か50名」との見出しをつけて、次のように報じた。

 「高等農民学校の開校式が1日挙行され、参列者は、生徒20名、教師4名と組合幹部30名で主任教師野口伝兵衛の式辞、川瀬新蔵氏の学校協会経過報告、生徒総代阿部正太郎の答辞等あり、当日は、大袈裟な前触れに似合わず頗る物寂しかった。教師は、野口伝兵衛、黒田松雄、西山武一、原素行の4氏、生徒の申込みは既に定員の50名に達しているが、農繁期のため2日からの出席者は14名に過ぎない。12月1日には2、3千人を集めて専修科の就業式を挙行し気勢を上げると言っている。」(10月2日付)

 野口は、早速文芸誌「創成時代」を発行、創刊号で次のように訴えた。
 「諸君よ。よく凝視することだ。焔(ほのお)のように熱い、錐(きり)のように鋭い眼光を持つならば、あらゆる醜悪な事実や不合理のからくりが鏡に映すが如く分かりその飾りも魔術も仮面を剝(は)ぐことができるだろう。そしたら諸君の熱情は自ずと正しい道に奔流するに違いない。」 

 生徒の一人清野正は、創成時代の作文にこう書いている。
 「我々の学校は、正義の心からつくられたもので、あちらこちらから応援に来てくれて一心に叫んでいるではないか。我々もこれから一心に勉強を続けましょう。この学校と同じく正義の心と新しい心をもって青年となり運動をつづけ、このまちがった社会を小作権確立するまではこの戦いから一歩もしりぞかんという覚悟をもつものである。」

 生徒の市川正二も「法律でも地主や資本家の都合のように出来ている。法律を改正するまで農民運動に従事しましょう」などと同様なことを書いている。
 同じく生徒の三善十一は「農民学校に行っていた当時はやっぱり本校に行っているよりは気が楽だったですね。気の合ったものばっかりいましたし、面白みがありました。」と回想している。(「近代教育の記録」)

 専修科に長野から来た由井茂也がいたが、在籍はわずか3人であった。由井の記憶によれば、「布団は川瀬組合長から借りて、宿舎は学校の中で黒田松雄(教師)と一緒だった。稲村は農民史、西山が資本主義の思想、組合の話などであった。教育内容はマルクス主義に基づき、農民組合の活動家を養成しようとしていた。」としている。

 賀川は、名目だけの校長であり、浅沼や三宅が講義することはなく、黒田、稲村、西山が教育を担っていた。また、由井は、「学校で演説会があって浅沼や三宅が来るんだけれど、先生と組合が対立して先生たちは出迎えなかった」と語っている。由井は翌年の3月に長野に帰って、青年団活動に入る。(「新潟高等農民学校から青年団自主化運動へ」大串隆吉論文) 

 高等農民学校は、1928年(昭和3)10月25日に、経営難と生徒不足のために閉鎖されたという。しかし、野口は、すでに前年12月には新潟市に移っているのでその頃に閉鎖されていたのではないか。3・15事件で、教師陣の稲村、原が検挙されており、西山武一も逃亡した。野口は転居後に新潟市で検挙されているので、それ以後に教壇に立つ教師はほとんどいなかったと思われる。

 実際に、高等農民学校の開校から閉鎖までの資料は、合田氏の著書のわずかな記述や新聞報道以外になく実態は不明である。
 農民学校が閉鎖される時、教師の深海のところに3人の母親が来て「私どもは読み、書き、そろばんがちょっとできればいいんだ。大事なことはごまかされない人間になることだ。その教育を農民学校は大いに続けてくれた。だからもっと続けてほしい。」と言っている。 

 高等農民学校の閉鎖によって借金が残ったが、戦後の座談会で三宅は「借金は賀川さんが整理してくれた。一生頭があがらない。」と述べている。実際は、賀川が争議の支援に来ていた三輪寿壮(弁護士、労農党)に依頼し、三輪の意を受けた平貞蔵(東大新人会、法政大学教授)が整理した。平は賀川から感謝され、馬肉屋でごちそうになっているが、資金は有島(武郎?)からもらったお金であったという。(「平貞蔵の生涯」)

 全農県連南部地区の書記だった長沢佑(たすく)は木崎争議敗北(和解)の報(1930年、東京控訴院判決)を聞いて、原に「私はこの敗北は自己の敗北、日本プロレタリア階級の全面敗北と考えます。けれど私は、闘争に立ち上がらなければなりません。」と手紙を書き送った。長沢は公立小の教師であった原に会えば、「私の受けた教育はひどい、小作人の子供を教師は人間とは思っていない。日本の革命は何よりも小学校教師の精神革命から起こさねばなりません。」と訴えていた。(「原メモ」)

 農民学校の校舎は、争議終了後も笠柳横井小作組合などの会議に使われていたが、1936年(昭和13)11月27日に取り壊された。全農葛塚地区事務所として移築された写真が残っているが、場所は特定されていない。

<注>
[1]三宅は久平橋事件で検挙、起訴され10月30日に出獄した。その日、農民学校で出所歓迎講演会が開かれたが、三宅は療養のために郷里に帰っているので高等農民学校には関わっていない。12月20日付で日農県連主事の辞表を提出している。
[2]麻生、浅沼、三宅らは、労農党の左傾化に反対し、1926年12月9日に日本労働農民党(日労党)を結成、翌年に全日本農民組合(全日農)を旗揚げした。新潟県連の大半は、日農に残り、浅沼や三宅、今井ら12名が日農を除名された。(日労党系は戦後、社会党結党に参加し、左派、右派に対し、中間派とも呼ばれた。)
[3]病気でも医者にかかれない農民の窮状を見かねていた三宅は、長岡市議時代に産業組合法に基づく医療組合病院(現厚生連長岡総合中央病院)設立を計画し、東京の信用組合から3千円を借りて出資した。保証人は賀川と有馬頼寧(伯爵、貴族院議員、衆議院議員)であったが、三宅に返済能力がなく、後に賀川と有馬が分納で返済している。
  病院設立の時、講演に招かれた賀川は、「三宅君は、気宇壮大で計画倒れになることがある。木崎の農民学校もその一つで私も一役買わされた。医療組合も木崎の二の舞にならないよう皆さんに協力してもらいたい」と苦言を呈した。(「三宅正一」)
[4]長沢は1931年上京してプロレタリア作家同盟(ナルプ)に加盟、多くの詩などを発表。共産党に入党したが、度重なる逮捕、検束による貧困と病苦により、新潟市沼垂の同志の家で死去した(享年23歳)。追悼会では、代表作の「貧農のうたえる詩」と「蕗のとうをつむ子供等」が朗読された。(後段<参考資料>参照)
[5]日農県連南部郷連合会は石田宥全が中心になって、1926年3月25日に結成された。(その後、日農と全日農に分かれ、また合同して全農県連になった。)
  戦前の菅名争議、大蒲原争議などたたかいぬき、戦後も長く県連の中心的な役割を担った。石田の後継として松沢俊昭を4期衆議院に送り、松沢は全日農会長を務めている。

◆ 11.農民学校の評価

 農民学校については、「争議の手段であった。子供を大人の闘争のダシに使っただけで、犠牲者は子供だ」という一方的な評価もある。独特な視点で労作「発掘木崎争議」を著した山岸一章も、「木崎の同盟休校は、宣伝目的の無期限でかなり無理な戦術であった。」と三宅と川瀬の指導性を批判している。

 確かに声明にもあるとおり、学校や教師に対する差別的な教育への抗議の意味もあったに違いないが、農民学校は、争議の過程で生まれ、争議の終焉と共に消滅してしまった。客観的に見れば、長期戦略を欠いた拙速的な取り組みの感は否定できないだろう。しかし、農民学校について評価する著作、論文も次のようにある。

 長期にわたり農民学校を取材、研究した合田氏は、「国家主義教育へ真っ向から思想の差異を乗り越えて挑戦しようとした。様々な思想の持主がこの一点を木崎で実現するべく団結した教育運動は明治から現在までなかったのであるまいか」とし、「農民自らの文化創造の場を創ろうとした。木崎農民小学校は、教育本来の姿、学校本来の姿に立ち戻らせようとする試み以外なにものでもなかった。」と高く評価した。

 猪木武徳は、「こうした無産農民学校の開設は、日本で初めてのケースであり、その後も類を見ない。それは同盟休校をきっかけにしたとはいえ、それ以前から自由な教育の場を求める運動は日本各地にあった。木崎村の場合は単なる学校反対の『農民一揆』ではなく、実際に学校を設置しうるだけの知的エネルギーを持った『文化運動』であった。」と記している。(『戦間期日本の社会集団とネットワーク』第13章 小作争議から農民学校設立運動へ)

 実際に、日農県連と木崎連合会は、どんな長期展望を持って農民学校の設立をめざしたのだろうか。農民学校を構想した三宅は、『幾山河を越えて』で、次のように記している。

 「児童の同盟休校は、野口や原など熱心な人々が応援に来てくれたが、なんといっても設備が貧弱であり、教育水準の低下についての世間の評判が無視できなかった。一方、文部省の画一教育にはかねがね不満を持っていたので(三宅が)特争委員会において提案して賛成を得た。資金に何ら成算があったわけでなく、ともかく創ろうということになっただけである。
 上京して大宅壮一君らの協力を得て賀川豊彦氏に相談したところ、一議に及ばず賛成してくれ、ここで計画は本決まりとなった。(私は)建設者同盟時代から自前の農民学校を作り、もっと生活に密着した夢を持っていた。頭の中にはトルストイが実践した全人教育を行う農民学校があった。農民小学校の建設は、これを模範とした。これほどやりがいのある仕事はないと考え、夜も寝ないで全精力を尽くした」

 戦後30年余、三宅を私淑し、行動を共にした飯田洋は、三宅がトルストイに関心を持ったのは「新しい村を創った武者小路実篤や自分の農場を小作農民に解放した有島武郎の実践がトルストイの影響であることを知ったからだ。」と記した。また、次のように指摘している。

 「この実践が最初から受難の途をたどり結果的に失敗に終わったのは、無産政党の分裂による党派的分断と農民組合の分裂が、木崎争議の最も高揚した時期に重なり組合員の戦う姿勢にひびが入り、当局の弾圧を容易にしたことと、農民自体は、主体的な教育改革にかかわっていく力量が不足していた。」(『農民運動家としての三宅正一』)

 大正新教育を研究した関本京子は、農民学校が最終的に「県と組合側の取引材料になった」ことなどを指摘しながらも独自の意義を次のように触れている。

 「その第1は、農民学校が公教育の抱える矛盾を余すところなく暴露し、内実の貧しさを徹底的に告発したこと。これには、県も文部省も反論できなかった。第2に画一教育は、大正新教育も排撃しているが、農民学校が同じ画一教育批判から出発しながら行きついた地点は、その到達点を遥かに越えていた。大正新教育が都市中間層に依拠して行った画一的批判の実践は、寒村の小作貧民層の中で展開されたところに教育改造が生まれたとした。しかし、農民学校は、どこまでも大正新教育の底流的存在であった。」(「木崎農民小学校が提起したもの」)

 具体的な評価については、元中学校長でもあり、『新潟県農民運動史』を著した市村玖一は、次のような評価を下した。

 「農民学校がどんな教育実績を上げたかは測定しにくい。野口、原のような正規な師範教育を受けた実践家は、ともかくとして教壇に経験のない、にわか教師に熱情の他多くの実践成果を期待するのは無理であると指摘し、また、今まで抑え付けられていた教育方式から解放された子供たちが、のびのびと教育され図画や作文がかなり進歩したことや、野口、原が確固たる思想信条に基づき、既成の形式教育を打ち破る教育革新を目指していたことは評価をされるべきである。」

 農民学校が課題と欠陥を包含しながらも、短期間とは言え公教育のあり方を巡って大きな論議を巻き起こした点からいえば、教育運動史上に残る特筆すべき取り組みであったことは間違いない。また、同時に木崎争議は農民学校建設や鳥屋浦事件、女宗吾などによって全国に小作問題の実情を訴え、県内や全国の農民運動を高揚させる大きな役割を果たしたことも間違いないだろう。

<注>
[1]三宅は、落選時代の1964年頃、大学院生の飯田洋と一緒に、木崎など全国各地の農民運動の資料を探し歩き関係者から聞き取った。それを基に自伝『幾山河を越えて』を著し、飯田も65歳を過ぎて大学院に入り直し、修士論文を基に『農民運動家としての三宅正一』を著した。
[2]農民学校の授業効果で、特に強調されるのが深海の図画(美術)である。当時の図画教育は国定教科書について臨画することが主であった。後に児童が語るとき、よく図画の授業が話題になったという。深海は一時長野県に在住していたが、そこで山本鼎の提唱する自由画運動と農民美術に大きな影響を受けた。山本はフランスで油絵や版画の修業の際、ロシアの児童の自由画と農民美術運動に大きな示唆を受けたと言われる。
[3]作家住井すゑは、木崎争議を描いた版画「野良の叫び」の作家羽田信彌にあてて「明治以来の日本歴史の中で、最も大きな意味をもつものとして、木崎はこれからも人々に顧みられるべきだ」と記した。『橋のない川』の中で木崎農民学校を登場させている。羽田は、「野良の叫び展」を1986年新潟市美術館で開き、1988年、1998年にも豊栄市博物館で開いた。その際、連作作品38点を豊栄市に寄贈している。1988年の開催時には、生き残りの地主の抗議でタイトルから「木崎争議」の文字を外したいきさつもあった。
[4]住井は、1977年頃に京都で農民学校の教鞭を取ったO氏に会っている。早稲田出身だった同氏は、「僕の一生の中で輝ける時代だった。毎日が楽しくて今も忘れない。」と語ったという。住井は、「木崎農民争議を小説作品として残したいのが、昨日今日の私の夢である」と記したが、夢はかなわず95歳で亡くなった。(『暮しの手帖』歴史を彫る)
[5]上江端農民組合(現阿賀野市)は、1926年4月に日農(関東同盟)新潟県連に加入し、7月の臨時代議員会で、22日から支部の児童56名を同盟休校、25日の農民学校上棟式に10名の出席、大工3名派遣、見舞品として20俵を送ることを決めた。青年部長の二瓶明直は1週間の盟休の際に教師役をしているが「支部同士といっても郡教育会長の真島を憎む余り、罪科もない此処の子供を迄犠牲にして木崎支部に義理立てしなければならなかったのか。子供の1週間の遅れを誰が取り戻してくるのか。果たして盟休が郡教育会長の地位に何程の影響があったのか。」と後に記している。(『五頭郷文化』第20号 土と農民)

◆ 12.野口を巡る人たち

 野口はその頃、日誌にあるように妻と長男徹の三人で鳥屋の公会堂に住み、昼は盟休児童の教室に出かけて、夜は座談会や演説会に走り回っていた。当時のことをきせ夫人は、「組合からの報酬は一銭もなく、蛋白源は組合員からもらう、どじょうや鮒野菜ばかりだった。隣の(清野)弥惣次のおばあさんに徹を見てもらい、農民学校へ和裁を教えに通った。昭和2年7月、突然徹が病で帰らぬ身となり、幾日も悲しみの日々を過ごしたことが忘れられない。」と述懐している。

 野口は、在京時の不遇な時でもかつての教え子にハガキの通信は欠かさなかった。その末尾には、必ず愛唱していた石川啄木の歌を添えた。
 「石をもて追わるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし」
 「たわむれに母を背おいて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」
 無明会の運動が挫折し、へき地に飛ばされ、東京で再起を期していた野口の心境が伝わって来る。

 小作農民の家に生まれた加茂の鶴巻辰次郎は、子守のため高小1年でやめ、後に七谷小に併設された農業補修学校に通った。そこで野口先生から「貧乏人だから駄目だという考えを持ってはならない。人間はみんな同じだから、もっと元気を出さなければならない。」と教えられた。小学校の先生の「孝行、忠義」との話とは大分違っていたという。この時の野口の教えが「私の一生を支配した」と記している。鶴巻は後に農民運動に目覚め、戦後は社会党に所属し、新潟県議を3期務めた。

 戦前、戦後の農民運動に邁進した石田宥全は、野口と同じ川東村笹堀(現五泉市)出身で川東小を卒業している。きせ夫人は石田について「野口の影響を受けて農民運動に入った人です。石田氏は上京するたびに田端に訪ねてきて争議のことを報告したり、今後の農民運動のことを話し合っていました。二人の生き生きとした表情が今でも目に浮かびます。」と回想している。

 木崎争議の直前に、新津事件で懲役6ヵ月の実刑判決を受けた石田は、1928年(昭和3)8月、分裂した日農と全日農両県連が合同して結成された全農県連の執行委員長となった。以来10年にわたり同職を務め、県議2期、川東村長も務めた。

 渡辺(旧姓今井)ユキは、木崎村(早通)の寺で7人兄弟の3番目に生まれた。兄の一(はじめ)が鳥屋浦事件で収監されるが、婦人部のユキも15歳で初めて抗議集会の演壇に立つ。そして、高等農民学校の補習科で野口の国語の授業で心を揺さぶられる。

 「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」
 「やわらかく 積もれる雪にほてる頬を 埋まるが如き恋してみたし」

 後に「この歌に込められた貧しき心は、余りにも当時の農民の苦しさ、悲しさそのものであり、ほてる頬は恋のみでなく貧しさから立ち上がった農民の心意気でした。この時に習った啄木の歌と木崎争議の生々しく体験した木崎争議が83歳までの生きる原点になった。」という。

 また、高等小を卒業して和裁塾に通っていたが、冬季間、農民高等学校で片桐なおの裁縫助手を務めるため「(早通から)梨畑のもがり笛を聞きながら吹雪の日も6キロの道を通った。村始まって以来の争議の過程で、まるで別人のように小作衆が生き生きと変わっていく様子に胸をゆすられた。」との手記も残している。(『風雪越佐』第53号)

 当時の青年部の川崎瀬三(内島見)は、「争議に関心はなかったが、両親に尻を引っぱたかれるように参加した。なによりも大きい動機は、野口先生が家に来て一晩中『なぜ農民学校か』を話してくれた。それがきっかけであった。」と語っている。

 野口は、川崎について「物わかりの早い青年であった。啄木の『はたらけど はたらけど』の歌を引用して話した時、『先生やりましょう。おれの考えは間違っていた』と言った」と日誌に記した。戦後、病気などもあって沈黙を守っていた川崎は、顕彰運動が始まると貴重な体験を語り始めた。また、「特に青年部の中堅は野口を講師にして学習会を開き、海綿の如く科学的社会主義を吸収した。」と当時の様子を記している。

 野口は、住んでいた鳥屋の青年たちにも影響を与えた。実際、鳥屋から(野口の)一番弟子の中野勉(後に木崎村議)、日農県連の役員を務めた岩橋藤吉、渡辺一治(鳥屋浦事件で収監)などの活動家が生まれ、支部は鳥屋浦事件後も一糸も乱れることはなかった。戦後も伝統の力で小集落ながら笠柳と連携し、長期にわたり豊栄市議会に代表を送り続けた。

 無明会時代から運動を共にし、先輩格であり一番身近な同志でもあった稲村は、野口の思い出を『一粒の麦』などに多く書き記している。
 「彼はどんな困難な時でもニコニコしていた。また偉大な教育者だった。石田宥全や鶴巻辰次郎も彼の影響で農民運動に入った。木崎村の青年には多くの感化を与えた。(中略)彼は迫害と貧窮の中で終戦前に死んだが、生きていたならもちろん代議士になっていたろう。」(『稲村隆一の軌跡』)

 また、和田村争議などを支援し、戦後、衆院副議長を務めた杉山元治郎の秘書を務めた沼田政治はこう記した。
 「彼は争議の第一線で活躍することは少なかったが、事務的に有能でしかも明るい円満な性格と人をそらせぬ穏やかな態度は、組織内部のまとめ役としてうってつけの人であった。私たちは「伝兵衛さん」と呼んでいた。名書記長の名に恥じなかった。(中略)社会的、政治的なはなばなしい表舞台には立たなかったが、堅実な組織人として彼を知る同志の敬慕のうちに一生を終えた。」(『榛の木のうた』)

<注>
[1]石田は戦後、日農再建に取り組み、全日農常任委員、書記長を経て1969年会長となる。社会党の衆議院議員として当選5回を重ねた1972年に建立された木崎村小作争議記念碑の刻銘は石田によるもの。
[2]1922年5月、治安警察法第5条が改正され、女性が政談演説会を傍聴し、また、主催できるようになり、翌年の木崎連合会創立大会に女性も参加した。1926年の鳥屋浦事件以降に村の演説会に女たちも演壇に立った。今でも内島見などで話題になる。
[3]1982年の木崎争議60周年記念に出席したきせ夫人は、伝兵衛の形見として『農村青年読本』を持参した。読本は「昭和8年発行、編集人野口伝兵衛」とある。争議当時、それらの内容で野口が青年との学習会に使用したと思われる。後に実行委員会で復刻した。

◆ 13.3・15事件で一斉検挙

 きせの手記によれば、長女映子は、1927年(昭和2)10月19日に鳥屋で生まれたが、一家が新潟市の営所通の日農県連事務所に移ったのは同年12月4日としている。
 しかし、新潟に移っても貧乏暮らしは変わらなかった。きせによれば「台所に大きな米びつがあったが、お米が一粒もなく、醤油も味噌もなくびっくりした。お金に事欠き、バイオリンをお金に代えた。」という。

 1928年(昭和3)3月15日、2月の第1回普通選挙の結果から左派勢力の台頭を恐れた警察は、全国一斉に、共産党関係者を治安維持法違反で検挙した。全国では1,568名、県下では182名が検挙され、日農県連関係では、稲村や野口、原、佐藤佐藤治など16名が起訴、収監された。木崎連合会の各支部の幹部が全員検挙されたが、佐藤他1名以外、翌日釈放されている。

 野口は新潟刑務所に留置され、半年後にようやく野口と接見通信が可能になる。警察が監視目的で、日農県連事務所に長く居座る中、きせは実家にも帰らず、ひたすら長女と夫の帰りを待ち続けていた。その間、きせが県連事務所をしっかり守ったことが新聞に報道されるなどして、後の語り草になっている。

 野口は、当時実家に出入り禁止となったきせにあてて「お前も社会運動するものの家族として覚悟が大切だ」「春の弾圧以艱難の本部に籠っていてくれたお前の健気さと映子の達者なのは涙が出るほど嬉しい」とはがきに書いている。また、別の手紙には次のような不屈の心境を歌や句に詠んでいる

 「身はたとえ 獄舎の中に繋ぐとも 思いは馳せる無産運動」
 「世を正す疑心に徹す夜深う」「瘦蝿を追い廻しけり牢三畳」

 野口が金50円で保釈になったのは、翌年3月6日であり、約1年間の獄中生活であった。獄中から父やきせ夫人、同志に頻繁に書き送ったはがきや手紙が残っているが活動に触れたものは不許可の印が押されている。それらは五泉の武藤新治が野口に関する貴重な資料集『一粒の麦は死なない』に残してくれた。
 新潟地方裁判所で開かれた第一審では、懲役3年、執行猶予2年の判決となったが二審では無罪となっている。野口はもともと共産党員ではなかったという。

 青年部で農民学校の助手を務めた川崎瀬三は、「昭和3年3月21日、川瀬会長が(3・15事件を受け)必ず『関東同盟』(日農)にも解散命令が出ると思うから手を打とうと、各支部長や青年部を集めて関東同盟脱退の議を出したが、誰も発言をするものがなかった。私だけが杞憂でないかと言ったが一蹴された。」と回顧している。(木崎農民運動の回顧)

 野口は新潟刑務所から、兵庫県の賀川豊彦宅に帰った教師黒田に次のようなはがきを出している(その前の黒田宛のはがきは不許可、黒田からの手紙は取り上げられた)。

 「お帰りだそうですね。お別れ出来なく遺憾でした。賀川氏は、只今何をしておられますか。矢張り日労党のために奔走ですか。それにしても例の農民学校校舎の問題如何したらよいか。意見を承りたい。又賀川氏のご意向もお知らせを乞う。略2年間の逆風吹き荒ぶ学校での奮闘は誰も忘れません。然るに兄を遇する頗る□なかった事を私共と雖も斯く考えていますが、私としては、何ともできないのが□□であります。利己的田舎策士の度すべからざるを兄もよくお認めと存じます。
 私共此度(治安)維持法違反被疑で収容されています。益々多事に付きご自愛を祈り申し上げます。奥様に宜しく。」(『一粒の麦は死なない』)

 はがきのコピーが判読不能の箇所があるが、獄中にいて最後まで農民学校に残った黒田に対し、何も報いることができなかったことと、閉鎖された農民学校の校舎を案じる思いがにじんでいる。日付は不明であるが、黒田の返事、賀川の意向はどうだったのだろうか。

<注>
[1]治安維持法は1925年に制定された。背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつある共産主義活動を牽制する狙いがあった。「私有財産制度を否定することを目的として結社を組織したる者、結社に加入したる者」は「10年以下の懲役又は禁固に処す」とした。1928年6月天皇の緊急勅令で、「目的遂行罪」を加え結社を組織したる者は、「死刑又は無期懲役」と改悪した。しかし、実際には、反政府的言論を弾圧する根拠として機能した。法制定後、本土だけで約7万人が検挙されて、その内10%が起訴されたという。(『文化評論』臨時増刊号)
[2]戦前の社会運動を取り締まった法律は、出版法(1893年)、治安警察法(1900年)、行政執行法(1900年)、新聞紙法(1909年)、刑法(大逆罪、不敬罪等1907年)、警察犯処罰令(1908年)、暴力行為処罰法(1926年)などであった。
[3]木崎村連合会がいつ正式に日農を脱退したのか、はっきりしていない。日農の下部機関の形をとっていた関東同盟は、組織の二重性批判から1926年3月の日農第5回全国大会で廃止をされた。木崎では、その後も「関東同盟」と呼ばれていた。
[4]1938年5月頃、川瀬会長は増田葛塚警察署長から呼び出しを受け「時局に照らし連合会を解散し挙国一致体制を整えて欲しい」との要請を受けた。川瀬は幹部会などの協議を経て解散することを決めた。連合会の残金300円余は軍用飛行機献納基金に寄付した。
  当時、木崎郵便局に勤めたばかりの渡辺二蔵(後に豊栄市職員)は、連合会の残務整理のためか、たびたび郵便局に来た川瀬の姿をはっきり覚えていた。 

◆ 14.野口伝兵衛の終焉

 その後、野口は、1929年(昭和4)8月から1935年(昭和10)10月まで、全農県連の書記長として多忙な日々を送る。推されて1932年の新潟市議選に推されて立候補するものの落選となった。同年に次女洋子が生まれたが、きせはお産費用に困って大切な錦紗の着物一揃えをお金に代えている。

 野口は1935年1月から、蒲原医療利用購買組合(現厚生連三条総合病院)の専務理事として活動する。組合の組織作りのため、連日活動を重ねて冬は、たびたび雪だるまのようになって帰宅する。三女柳子が誕生したが、月給ももらえて家族5人で貧しいながらなんとか生活を続けることができた。

 1938(昭和13)に四女緑が誕生するが、収入も絶えて親子6人の生活に困り、野口は養鶏を始めた。鶏舎を造り家族で手伝いながら200羽ほどの鶏の飼育に専念をするが結局成功しなかった。この頃、「はたらけど、はたらけど」と啄木の歌をよく口ずさんでいたという。その後、本を書き窮乏を原稿料で切り抜けている。

 戦時体制下、1940年(昭和15)には農民組合は解散を余儀なくされ、野口は稲村の斡旋で上京し、民間会社に総務部長として勤務する。1942年(昭和17)に次男衛が誕生し、野口は、「おれの後継が出来た」と喜んでいたのも束の間、1944年(昭和19)8月に病魔に侵され東大附属病院に入院をした。透徹した心境、揺るぎなき信念の基に逍遥として終焉を迎える野口の日誌『感懐録』が残っている。

・6月15日 我が存在は微々たるもの無双相実相の宇宙からすれば浜砂の一粒に及ばず、無常の娑婆に生を得るも、死するも大したことに非ず。生きて喜ぶも死して悲しむも大海の一小波のみ。
・6月18日 我、茲に終えんするも一つの人生、20年心血を注ぎし農民運動の業績だけでも無駄な人生ではなかりし。

 野口は、1945年(昭和20)1月6日、きせ夫人に見守られながら人生の幕を閉じた。きせは、後に「夫と共に生き抜いた20年は波乱万丈の日々でした。無産者が解放される日を願い、ひたむきに情熱を傾けた主人と共に、私は歩きました。夫は亡くなりましたが私の心の中に今もなお生き続けています。」と回想している。(『一粒の麦は死なない』)

<注>
 1977年10月23日、激動の農民運動や労働運動に献身した人たちを追悼、顕彰するために「新潟県解放運動戦士の碑」が新潟市中央区に建立された(水道町、解放記念公園内)。野口伝兵衛は、その第1回慰霊祭に合祀されている。実行委員会(社、共、県評等7団体)によって第15回(1991年12月)までに1,217名が合祀された。(『望海の灯』)
 翌年、県解放運動旧友会が単独で第16回慰霊祭を開催、23名を合祀しているが、その後の経緯は不明である。木崎争議関連(旧豊栄市)の合祀者は52名になる。

◆ 15.むすびに

 農民学校の上棟式当日、校舎正面に賀川の望みで「黎明の鐘」が据え付けられ、開会を報ずる鐘が鳴ったという。しかし、教育革新を目指した無産農民学校の「黎明の鐘」は、遂に鳴り続けることはなかった。また、その鐘の行方もわからない。

 今、教育勅語を園児に唱和させる森友学園の教育を巡って、教育勅語の議論が再燃している。政府は去る3月31日に「勅語を我が国の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切」としながら「憲法や教育基本法等に反しない形で教材として用いることまでは否定されない。」との答弁書を閣議決定した。

 「君への忠」から始まる教育勅語は、「戦前、戦中の軍国教育と結びつき、国民を総動員体制に駆り立てる支えともなった。」とされ、1948年(昭和23)に衆参院の両院で排除・失効の決議を行った。2006年(平成18)の教育基本法改正で、教育目標に「公共の精神」や「国と郷土を愛する態度」など教育勅語の思想が盛り込まれたとも言われており、来年度から義務教育での道徳の教科化が始まる。

 かつて、木崎の地で官憲の圧迫に耐えながら国家主義教育に抗して情熱を燃やし続けた教師たちは、この現実をどう見るのだろうか。
 昭和史の研究を専門とする作家半藤一利は「特定秘密保護法や安全保障法制、さらには、共謀罪の新設の流れをみると戦前と同じ流れである。」と指摘している。

 社会運動の取締りに猛威をふるった戦前の治安維持法に重なる「共謀罪法案」や教育勅語論議を見るときに、歴史の歯車が「農民学校時代」に逆回転を始めているように思えてならない。
 隣の阿賀野市(旧安田町)出身で『大日本地名辞書』を編さんした歴史地理学者の吉田東吾は、「郷土の地理・郷土の歴史というものはとりもなおさず郷土の未来に向かってその応用を持つものである。」との言葉を残している。木崎無産農民学校の現代的な意義について、改めて合田氏などの先行研究に学びながら検証を進めていきたい。

 ✤ 争議では強面で知られた地主真島桂次郎は、生活謹厳にして漢詩や短歌を詠んでいる。また、生涯農事改良に尽力し、加治川治水工事に功績を残した。1938年(昭和13)5月15日に77歳で逝去したが、奇しくもその数日前に日農木崎連合会の解散を聞いている。争議の際、「生花等一切お断り」にも関わらず木崎の小作組合代表から花籠が届けられた。

                           2017年6月12日記

※本稿は『文芸あがきた』第8号~第10号に寄稿した無産農民学校関係の小文を大幅に加筆修正した。

<主な参考文献>

①『木崎村農民運動史』 川瀬新蔵(私家版 1930年)
②『父を語る』 真島中太郎(私家版 1939年)
③『新潟県農地改革資料』(3)(新潟県農地課 1957年)
④『幾山河を越えて』 三宅正一(恒文社 1966年) 
⑤『新潟県教育百年史 大正・昭和前期編』(新潟県教育委員会 1973年)
⑥『日本教育外史』 青木恵一郎(同朋舎 1977年)
⑦『木崎農民小学校の人びと』 合田新介(思想の科学社 1979年)
⑧『木崎騒動と攻防の人々』 小此木朱渓(小柴郁三・元豊栄警察署長) 1980年)
⑨『新潟県農民運動史』増補改定版 市村玖一(創作舎 1982年) 
⑩『一粒の麦は死なない』(資料集) 武藤新治(1987年)
⑪「南部郷の人々」『風雪越佐』第44号 三膳博(新潟県解放運動旧友会 1988年)  
⑫『発掘 木崎争議』 山岸一章(新日本出版社 1989年)
⑬『雪華の刻(とき)をきざむー新潟近代の女たち』(ユック舎 1989年)
⑭『稲村隆一の軌跡』 稲村隆一記念出版委員会(1992年)
⑭『新潟県農民運動史』 池田一男(あかつき出版 1997年)
⑮『農民運動家としての三宅正一 ―その思想と行動』 飯田洋(新風舎 2006年)
⑯『雲の柱』5、6、7、22、30、31 賀川豊彦記念松沢資料館(1986年~2017年)

<参考資料>

◆農 民 歌

1、農に生まれて農に生き

  土に親しみ土の死す
  土の香りに抱かれて
  汗と膏(あぶら)に生くるなる
  我生活の悲愴なる
  我生命は腕と足

2、我故郷は秀麗の

  春を告げなん時なるに
  高き理想を胸にひめ
  しばし眺むる桃が丘
  陽は早や落ちて畑暗く
  可憐や迎うる児の笑顔

3、南海はるかにこがしたる

  陽かはた余波か知らねども
  苦しき真夏のその中も
  雄図は尚も火ともえて
  努力をつくして草を取る
  夢むさぼるは誰が子ぞや

4、あけぼの白く星清く

  鍬を片手に畦伝え
  今日より寒き秋なるに
  ひびしもやけは血に走りて
  皮相の風は血に狂う
  さはあれ休みもままならぬ

5、努力により作りたる

  血涙こもる収穫も
  努力の二字に幻滅の
  悲哀の他に何かある
  遊びつかれたるそれよりも
  辛苦を知らぬは誰が子ぞや
   

6、正義の道に血は煙り

  自由の矛に勇み立つ
  賤が伏屋の軒場には
  泣ける子供を背に負いて
  健気に妻は稼げども
  哀れや糧もままならぬ

7、かくも働きかく努め

  日一日と衰退す
  我が生活をいかにせん
  破れズボンに破れ足袋
  ああ今我等起たたずんば
  混沌の世をいかにせん

8、ああ今吾等起たづんば

  混沌の世をいかにせん
  我等理想の大国家
  理想の国をこいねがう
  正義を唱え邪を排す
  赤き血潮をいかにせん

<注>
 1922年(大正11)11月、日農が農民歌を募集し岡山県の満友万太郎の作品が選ばれた。
 一高寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に」の曲で、木崎でも集会のたびに歌われた。農民学校児童もよく歌ったという。

◆長沢佑 「貧農のうたえる詩」
  春 三月 薄氷をくだいて
  おらの田んぼを打った
  めっぽう冷こい水だ
  足が紫色に死んで居やがる
  今日は初打田
  晩には一杯飲めるバーと気がついたので
  おらあ勇気を出した
  べー!
  手に唾をひっかけて鍬の柄をにぎった
  だがやっぱりだめ
  手がかじかんで動かない
  ちきしょう
  おらあやっぱり小作人なんだ

  それから夏が来た
  煮えかえるやうな田の中で
  俺達は除草機の役をする
  十日も続く 指先から血が滲む
  其のいたいったら
  ちきしょう!
  地主の家の娘っ子が通る
  メンコイ顔した 娘っ子が
  町の女学校に行くんだ
  柄のデッケイこんもり傘だ
  涼しそうなパラソルだな 俺んもな
  妹の野郎がおふくろにしゃべった
  馬鹿野郎 だまって仕事しろ
  俺は呶(ど)鳴った したらみんなだまった
  また今年も半作だぞ
  地主の野郎は今頃扇風機の三つもかけて居やがるだらう
  あゝ暑くて死にさうだ!
  おらあやっぱり小作人なんだ

  渡り鳥が来て秋に成った
  それからすぐ又冬が来た
  親父が又言った
  今年も半作だぞ…
  然し俺達は 今迄の小作人ではなかった
  村では去年にこりて
  組合を作ることにした
  下村の奴達が仲間に成れと云って来た
  だが俺達は一番しっかりした組合
  全国農民組合新潟県連合会南部地区西南部地区西南部小地区
  恐ろしい長い名前だ
  おらあ何度もケーコしたが
  まだおぼえられねい
  そして演説会があった、俺は聞きに行って
  新しい言葉をおぼえた「何たる矛盾ぞ」
  俺は早速帰って来て呶鳴った
  働く者は貧乏する!
  遊んで居やがる地主は金持ちだ!
  「何たる矛盾ぞ!」

<注>
 詩人松永伍一は、有島武郎、宮沢賢治等と並べて無名の詩人長沢佑を高く評価した。33回忌に「痛ましい墓碑銘」と題し「青春の重たい詩を米ごころ越後平野の一角に詩碑として残したいものだ」との一文を寄せている。

 (木崎村小作争議記念碑保存会)

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