【社会運動の歴史】
木崎無産農民学校と教師野口伝兵衛(3)
◆ 7.開校前後の授業日記
実際、農民学校の様子は、野口が雑誌「反響」に発表した「開校前後の授業日記」をみるとよくわかる。前記と重複するが紹介する。
・5月25日夜に田端駅を発車するまで一寸の暇もなかった。翌日沼垂駅に下車、知人の田越宅に落ち着く。それから日農県連を訪ね、三宅君に会ったりして27日には自転車で木崎村に走った。
・すでに26日には、早通の農民組合事務所で約50名の子供に教授を開始していたが27日に農民学校建設の前提として私塾開校の実際上のことについて協議をなし準備に取りかかった。
・29日には、更に島見(内島見)、浦ノ入(横土居説も)、樋ノ入、横井、鳥屋の5大字に各青年会館、あるいは個人の家を開放して開校した。出席者約450、教師4名、少年、少女は拍手で迎えてくれた。私服(刑事)が教室に入って来た。
・30日、教授方針事務等一切の実際上のことにつき打ち合わせをした。
・31日、6校出席470、教師7名、授業時間は1学年から6学年まで3時までとした私服(刑事)が教室に入ってきたので追い出した。
・6月1日、子供たちは自分たちで通学団から掃除当番割まで作った。県警察部の刑事、駐在巡査が教室に入ってきたので、その退出を迫って幾たびか争わなければならなかった。
・2日、僕等は二人の刑事に葛塚署に連行された。署長から公安に害ありと即刻任意退去命令を強要されたが、明日中に退去する条件で放免された。
・3日、6校出席児童480、学習状況ますます良好、放課後僕等(教師)7名は、葛塚分署4名の護衛で連行され、うち4名は外来者という理由で夜11時頃署長から退去を言い渡され、2名の警官に護衛され自動車で新潟に放たれた。(その後、野口などは鳥屋などに住所寄留して木崎村の住民となる)
・4日から14日、農繁期(田植え等)でもあり、殊に争議のために作物のしつけが遅れて目の廻るほど忙しいこと、教師不足等のことで産業期休業をした。
・15日、開校式(協会発会式・長行寺)、記念講演会、折からの降雨に関わらず遠近より来たり会するもの約2千、午後の講演会には第1から第4の会場まで聴衆があふれた。子供たちは「おらが学校の開校式だ」というので弁当持ちで集まって来て杉山元治郎、大宅壮一などの講演に拍手を送っていた。(講師の)帰り土産に東京各雑誌社から寄贈の古雑誌をもらって雀躍した。彼等はどれ位嬉しかったのか、常にその時の話を出している。今でも持って来て読み耽っている。ほんとうに農村の子供は古雑誌一冊の恩恵も与えられていないのだ。
・16日、島見、横井、鳥屋、早通、樋ノ入の5か所で教授を開始した。出席児童400教師9名、我らはもう私塾の時代ではない。農民学校の前途に関する教育上、実際上につき協議をせねばならなかった。
・17日、5校出席児童400、教師13名。教室の設備も相当整った。子供はますます油が乗って来た。教師も手が揃った。通学は2部制にして低学年は午前、高学年は午後にした。教授時数は1、2年18時間、3、4年は23時間、5、6年・高等科が24時間とし、出席調査表、教案簿、教授日誌、進度表等も作成した。
・22日、ライト式の校舎はキリスト教産業青年会大工ギルドの武藤福次郎君を棟梁として組合員、青年部婦人部の労働寄付によって工事は進捗して来た。午後から地鎮祭が行われ、鳥屋、島見、横井校の上級生が150名ほど代表として式に列した。子供達の嬉しげな顔を記念撮影した。
・26日、建築工事が進む。子供達は、「おらが学校」が建設されるのを見に来る。それが又彼等の唯一の希望であり楽しみであった。この日執達吏が警官数名の援護の下、校舎建設中の敷地の中央に工作禁止の立て札4本を立てて去った。付近にいた婦人達、子供達は馳せつけて、そして泣いた。彼等は日が暮れても、この無情の立札の側を去ろうとしなかった。地主や官憲は、我等の営みを見くびっていた。しかし、我等の計画が力強く実行され、農民学校も開校した。「痴人の夢」位に冷笑していた校舎が、6月末に落成する段取りに進んだことは、如何に地主や官憲ども心胆を脅かしことであろうか。彼等は、狼狽し血迷った。逆宣伝や反動団体の操縦に官憲の弾圧に手段を尽くしている。
子供達は、官憲の暴圧を恐れないで一心に勉強を続けている。警察は、国定教科書を使って教授している小学校教育に常時臨監を付している。少しの隙でもあると教室に侵入しようとする。近頃は、大抵軒下で朝8時から午後5時過ぎまで付き切りだ。子供達は、これを見て「犬が」などと大きな声で怒鳴っている。無邪気な子供達にかくまで敵意と反感を募らせている暴圧ぶりは、一寸と他にあるまい。(雑誌「反響」1926年8月号)
当時5年生だった小林軍英が次のような作文を書いている。
「僕はこの日ほど警官や地主を憎らしいと思ったことはないのであります。地主の子供は連れ立って立札を見に来ていました。僕はその辺に落ちていた石を拾って地主の子供に投げつけたのであります。子供達は笑いました。僕は涙がこぼれてくるのを止めることができません。今度は、石ころを立札めがけて投げつけました。子供達は、また笑いました。(中略)この悔しさを僕は一生忘れません。無産農民小学校で勉強してどうしてもしはん(師範学校)へ入って、こんな悲しい思いを、僕より貧乏な子供にさせたくない決心であります。」
農民学校に通った川崎俊夫は、後年次のように回想している。
「本校にいた時は、わしらあんまりしゃべるのが嫌いだったし、先生とあんまり話したことはなかったですね。農民学校に移ってからは、先生は、いつも間近におられますから「先生これどういうのだろう」と聞きに行くと、手をとって親切に教えてくれました。そんなことで勉強にはプラスじゃなかったんでしょうか。本校の生徒と同じに朝、家を出るわけですが、途中で本校に行く者と別れる。あの気持ち、変な気持ちだったですね。ほんとうの学校に行けないんだという気持ちがあったですね。それでも本校に行ってる者に負けないで勉強するという気持ちがありましたね。」(「近代日本教育の記録」回想)
<注>
[1]当初、日農本部と稲村が構想した「農民教育のプログラム」は賀川や有島たちの志向する「平和でユートピアンな文化的農民学校を建設」を否定し、階級意識とプロレタリア精神を注入したいとの理念で「資本主義社会における搾取関係」の素案を示した。
(前掲「反響」)その羅列した項目はまるで思想教育のようであり、青年部や現地の教師には受け入れられなかった。開校当初から日農(川瀬、三宅ら)と一部教師団、教師団の内部(野口、原とその他教師)に教育に対する考え方の違いがあったという。(「木崎農民小学校の人びと」)
[2]6か所の教場の責任者は、内島見が茂尾、鳥屋は野口、伊藤、早通は郷司、岩崎、横井が黒田、樋ノ入は山口、横土居は森であった。野口は授業開始を早通が5月26日、他が29日としているが、日誌抄では28日となっている。(28日は開校式との説あり)
新潟新聞は5月20日に森田権平宅で20名、27日から早通青年会館で約60名、6月5日から4ヵ所で私塾を開く予定と報じた。(5月27日付)
6月16日からの授業再開では、横土居(浦ノ入を含む)が載っていない。畠山村長の地元である浦ノ入の組合員が多数脱退のために閉鎖された可能性がある。
[3]各教科の責任者は、国語が野口、山口、数学は原、岩淵、理科は原、大津、修身・国史地理は黒田、山口、音楽・美術は深海、体操は野口であった。高等科の生徒は、この他に随意科目として経済学、争議戦術もあった。
[4]5月30日の授業計画の打ち合わせで、山口は国定教科書の修身の教え方を、深海は新しい図画と音楽の具体的プランを提案するなど各人創意工夫を凝らすことを確認した。
[5]合田氏は、野口、原の教育目標原案について「成城小学校型大正自由教育の主流思想であった」とした。成城型の教育改革運動を評価しつつも、直接小作人子弟に持ち込むのは疑問とした。原案に黒田、深海が反対、佐藤佐藤治や今井一も反対したという。大正自由教育は都市の富裕層に支持されたが、公立学校にはあまり普及しなかったようだ。
[6]1923年の関東大震災の直後の11月「国民精神作興詔書」が出された。「朕惟フニ国家興隆ノ本ハ国民精神ノ剛健ニアリ・・・」で始まる詔書は民主主義の風潮、社会主義の台頭に対処し、震災後の社会的鎮静のために出された。全国に自由教育の中止が通達され、自由教育思想の持ち主は学園を追われたとの説もある。
◆ 8.教師の見た児童たち
5月30日に教師団は農民学校の経営方針と統一教育方針を討議、国定教科書使用や授業日数などを決めている。特に授業の統一方式については、激論の末に次のように決定した。
①学校の先生は、恐ろしいものでないことを先ず児童に植え込む。
②児童は、誰しも偉く且つ平等であることを観念付ける。
③教授方式は自由奔放とし、逐次一つの線に誘導する。
④国定教科書中、修身は放棄する。
⑤児童の個性は、思い切り伸ばし尊重する。
⑥男女生徒の差別感を与えないこと。
⑦土百姓の子供という卑下心を取り去り、働く農民という誇りを当てる。
⑧階級闘争の理念を逐次盛り上げる。
争議当時、児童は村立木崎小でどのような教育を受けていたのだろうか。教師の一人であった黒田松雄は、授業の様子を「農民学校の教壇に立ちて」と題し、東京朝日新聞に次のような手記を寄せている。
「新しい先生が来たと、ワーワー騒ぐ子供達を尻目に教場に入って受けた第一印象は実に汚い!という感じであった。黒光りのする着物、子供の鼻から流動している二本棒、黒いウロコの生えているような足、ササラのような女児の頭、すっかり初対面でドギモを抜かれてしまった。
青バナ連中が包囲して口々に何事か早口でしゃべっているのを見て、全く野蛮人に包囲されたような泣きたい気持ちになった。女児の竹やぶのような頭を見ると初めは身震いをした。その中にしらみの大軍が潜伏している。休み時間が来ると、各生徒の頭を指でせせり始める。それがしらみ征伐なるを知ってぞっとした。
子供達の学習ときたらまた話にならない。私の分校約80名のうち満足に読本を読める子供は10人といない。他の子供は全く問題にならない。5年生で簡単な割り算をできる子は3、4人しかいない。他の学科も推して知るべしだ。私は当局の態度を奇怪に思っている。当局は無産小学校を攻撃するが、小作人の児童を憐れな状態で放任している。
小学校では児童が本を読めないと教師が児童を叩いたという。その癖が残っていて、私たちが近づくと反射的に手をあげて頭を抱えるのだ。子供達に聞くと学校で子供をたたいたり、物を投げつけたりするのは日常の事だと言っている。一人でもかかる教員の存在を許しておくのは人道問題である。」
(1926年8月18日付)
最初に開設した早通の教場を受け持った岩淵すえも手記を残している。
「どこの子も非常にいじけていて、教室内では、いつもおどおどしてさす場合には泣き出しそうな顔をして黙り込む。小作人の子、貧乏人の子として猫のようにおとなしくわからないことを質す勇気もなくすっかりいじけたのだろう。」(「反響」)
野口を中心にして毎週指導方法の研究が行われたが、教師たちの思想の違いからいつも激論を交わしていた。しかし、児童の個性を尊重し助長を図る点と将来の私立小学校として認可を得たいという希望は、教師たちの一致した見解であった。毎日、農民学校で臨監している県の調査報告は、「授業ハ国定教科書ヲ用イレドモ机ハ自由、嫌ニナレバ水泳、オ菓子、果実ヲ食ッテモヨロシイナドホトンド放任的教授」また「階級的闘争的敵本行為、破壊的行動ヲ鼓吹シタ」などと厳しく批判している。
黒田は、寄稿で「教え方は下手でも熱心によって無産学校の教育の方がより良いことを示している。今までのやり方では木崎村の小作人の子供は永久に浮かばれない。」また「彼らの学業の進歩は著しく、殊に図画、作文の如きは、格段の進歩を遂げた。」とも記した。晩年に「あのキラキラ輝いた瞳を、私は今でも思い出す」と語った。
後に、深海は、「最初は教師に親しまず返事をしない、口を利かないことをよく覚えている。私たちは彼らと遊ぶことですぐ親しくなった。その速度を思うと、今でも感動を覚える。」と述懐している。
合田氏は、木崎の素人教師だった深海などに触れながら、
「私はいつも石川啄木の『林中書』の一節を思い出したものだ。啄木は喝破している。『真の人と真の精神があれば他に何ものがなくても立派な教育はできる。若し夫れ完全な教育学と学制があってもそれを活用する人がなければ、一切のものが無いよりまだまだ危険な結果が陥る』」
と記した。(「日本文学全集」第6巻)
斎藤一郎(須戸)は、5年の時、早通の組合事務所に通って深海に習っている。期間は僅かであったが、二人の交流は終生続いたという。斎藤は、後にこう回想した。
「私ら同盟休校の児童と同時に農民組合の少年部でしょ。実践の中から叩き込まれました。動員され、佐々木更三とか、いろんな人たちの講演を聞いたのもわからないながら勉強になった。ただ連日警官が見張りに来てジロジロ、にくたらしかったですね。子供が大好きだった浅沼稲次郎さんのでっかい肩に肩車してもらい『うんと勉強しろよ』と言われたのを覚えています。」
また、斎藤は「木崎争議は私の原点です。学問は机に向かって人のいうことをノートに書くだけでないことを学びました。今、土を忘れ、人間を忘れた教育がまかり通っています。嘆かわしいですね。」と語っている。
当時の木崎高小の教育現場は、どんな状況だったのだろうか。新潟県では1918年(大正7)頃から本科正教員が不足となり、正規教員の増員要求の声があがった。1922年(大正15)の新潟県は各郡市の新要求数806名に対し、配当数が271名、北蒲原郡では要求数108名に対し、わずか配当24名と県全体の充足率を10%も下回り、県下最低であった。
また、明らかに市部より郡部の充足率が低い結果が当時の統計に出ている。正教員の不足、代用教員の増加、教員の待遇の悪さから判断すると、木崎小も教員の質の低下教育の低下は免れなかったのかも知れない。実際、木崎小の教員構成は師範学校卒9、検定合格11、準訓導3、代用教員4であったが、師範学校卒等の正規教員は本校に多く配置していた。学区内に地主や有力者が多くいたからではないかとの説もある。
子供たちがよく歌った歌は、農民歌、労働歌、地主真島を歌い込んだ「もしもし亀よ」の替え歌が有名である。農民学校に在籍した川崎直二(後木崎村役場職員)は、
「歌は学校で教えたのかわからない。子供たちが地主を憎み、非組合派の子供たちと対立したのは、家族ぐるみの闘争にいたからだ」と語っている。
しかし、特高警察の資料によれば「元ノ学校ノ先生ニオ辞儀スルナ、元ノ学校ニ行クモノガアッタラ引張テコイ」、「校外散歩ノ時ハ必ズ公立学校ノ前ニ立止リテ農民歌及ビモシモシ亀ヨノ歌ヲ唱ヒ万歳ヲ唱エ」などが「教師ノ指示ニヨッテ」なされたと記されている。(木崎村学校問題ニ関スル調査)
盟休児童の推移を見ると警察の調査では、全校で5月19日の565名、20日に397名、21日426名、1ヵ月後では373名に減っている。学校側でも5月22日と27日6月5日の3回、受け持ち教員が盟休児童の家庭訪問を行った。高橋俊三郎校長名で「謹啓 右は長らくお休みで御座いますが、なるべく早く登校せしめて下さるよう御願い致します。」と保護者宛に出席の督促文を出している。家庭訪問で教師の説得が成功すると校長が点数表に「優」を付け、教師の昇給の目安にしたことが記録されている。(思想研究資料特輯第6号)
6月10日に県当局は、北蒲原郡長に対し盟休児童の出席督励を厳重通達した。木崎村では、7月3日と21日にも、再度校長名と畠山村長名で出席の督促を重ねている。
盟休が始まってから村長側、地主の差配人などから陰に陽に切り崩しは激しかった。特に早通と樋ノ入では、青年たちが村道に出て「組合の学校に行かないよう」と説得にするのが毎朝の行事であったという。
<注>
[1]黒田は、賀川の『死線を越えて』を読んで感激し洗礼を受けた。鳥取で中学の教師をしていたが、木崎に支援に来たのも賀川の要請であった。(賀川は鳥取農林学校卒・合田氏は京都帝大と記述)木崎の寄留宅では、毎夜、青年部を中心に「黒田学校」が開かれた。高等農民学校閉鎖後、兵庫県瓦木村の賀川宅に住む。後年、黒田は合田氏に「小作農民の子弟には、どうしても愛の精神を注入したかった」と繰り返し語っている。
[2]葛塚分署には、本署の新発田と沼垂署からも応援に来て、毎日授業を監視し県知事、関係大臣等に報告していた。教師の退去命令は黒田が6月1日、内島見の教場で高等科1年の国史を担当していた時に、朝鮮合併から関東大震災時の朝鮮人大虐殺の真相を話したことが、警察の介入の口実となった。(葛塚分署の脇を『分署小路』と呼んでいた)
[3]地主の真島は記者に対し「悪地主と言われても弁明はしない。私は小作人と争うのではなく背景となっている関東同盟と戦う心算だ。今回土地返還訴訟を起こしたのは幹部側だけだ。」と語っている。(1926年6月1日付、明星時報)
[4]6月8日、日本新聞は「共産小学校教育に対し当局の態度強硬、過激思想鼓吹や赤魔の巣窟となれば断固たる措置をとらん」との見出しで文部当局の厳しい姿勢を報じた。
[5]真島は北蒲原の一斉盟休について「(北蒲原郡)教育会長はその任に非ずと固辞したが、全会一致でやむなく承諾した。日農が辞職勧告に来たが、教育会長と小作問題は何ら関係ないと言って反省を促した。強硬な態度であったので熟考したいと回答した。」と語った。(新潟新聞7月21日付)
[6]7月27日から5日間、4年生以上が松ケ崎村下山で臨海学校を行った。教師の鹿地は、海岸で行進しながら農民歌や赤旗の歌を歌ったり、夜は演説会や芝居をやった体験を雑誌「戦旗」(1929年4月号)に発表した。真島中太郎は、この時のことを「先生が赤旗を先頭に立てた一隊の児童に『もしもし真島桂次郎よ、世界のうちでお前ほど強欲非道のものはない』と唱えながら我が家の周囲を練り歩いたこともあった。それは臨海学校という偽装のもとに行われた。」と記した。(「父を語る」)
[7]7月13日から北蒲原郡内で一斉盟休が始まったが、北日本農民組合会長の須貝快天は、「農村問題が学校問題に影響するようでは遺憾千万、明日から会員を訪問し、その不心得を諭し解決の途をとる。学童の盟休は誤りである。真島教育会長の人格識見について日頃から敬慕しているが、この際、会長の辞任をお勧めしたい」と述べている。(7月30日付、新潟毎日新聞)
[8]木崎小の教師で、木崎に住んでいた近藤ムツは「私は小地主の娘で新潟高女に進学していた。(略)道で会うと、昔は地主様の娘であり、今は先生様になり、(私に)一種の畏れの気持ちで接していた。(争議が進み)道で会うと「しっかりして子供を教育すんだぞ」と逆に励まされた。(略)あなた方(小作農民)の気持ちはよくわかるわ」と励ましの言葉をかけたかった。でもそれが学校の方針でできなかった。」と当時を回想した。
◆ 9.中央新聞などの論調
「女宗吾の出現」などと木崎争議を大々的に、連日報道して来た中央新聞などは、9月1日の開校式を前に連日社説などでとりあげた。それらは、教育政策の根幹を指摘しているが、具体的な解決策にはあまり触れていないようにも思える。
東京朝日新聞は、8月10日付で新潟県岩本学務部長の談話として「既設の公立学校があるから農民学校は認めない。教授法は正常ではなく、児童訓育の精神も認められず階級闘争の一環として児童を引き入れ、ますます深刻に導く。」と報じた。それが文部省と県当局の基本的な姿勢であったが、中立的な立場であった同新聞は、次のようにも指摘している。
「その間、盟休が現実に始まるまで何らの対策も手段を講じなかった事は甚だしき失態だ。その責は村当局にあり、県当局の怠慢に至っては驚かざるを得ない。農民学校建設という容易ならざる事態に際会したら、学務部長自ら組合を訪れて努力をしなかったのか。(中略)無産学校の問題は、事は小ながら現代の教育を刺激した点において確かに意義ある経験であり、教育改善に一つの貢献を与えた。」(8月26日付)
在野精神に満ちた萬朝報は、農民学校に共感を示し「今度の無産農民学校の如きは文部省が深い同情をもって助成すべきだ。無産学校は、教育術は成っていないであろうが、ただ新興階級の魂が輝いている。この魂こそ政府が守り立てて行かねばならない民心作興の酵母である。」と報じている。(8月15日付)
同新聞は8月29日の社説でもこう主張した。
「無産農民学校は大きな問題を世の中に投げつけた。農民学校に馳せ参じた一人の有志は、その児童の無知に仰天した。(中略)農民学校がこうした暗澹たる教育事情を世間の明るみに出してくれただけでも有難い。この機会に一語を教育者たちに呈したい。それは農民学校が創立されたような意気をもって、さらに、深い人生観に出発した積極的な教育運動を起こしてもらいたい。」(8月29日付)
保守的な国民新聞の社説は、農民学校を批判しつつも問題点を指摘した。
「事の起こりは、小作問題であった。ある官吏がこれは少数の扇動者やブローカーの仕業であって小作人の心でないと論じている。だが時代精神は、これら非科学的な浅見者を見捨てている。(中略)新小学校が無産階級思想を全教育の基礎とすることは大部異論がある。しかし、そこには小作人や貧乏人の子を軽蔑し、差別的待遇を与えていることは、日常見聞する所だ。文部当局は、無産階級思想を排すると共に、有産階級思想の湿潤する現代教育について猛省する所がなくてはならぬ。」(8月15日付)
地元の新聞も連日報道を重ねていたが、新潟時事新聞は久平橋事件の後、次のように報じた。
「県から警察、学務部長が上京となり各省の次官会議が開かれた。しかし、事足らずに三松知事に上京を命じたが、県当局の大いなる失敗を認めざるを得ない。
(中略)今週木崎の女房連が、警察部長に面会して調停を哀願した時に部長は、終始『早く職業争議者の手をはなれろ』の一点張りを以て対したように県当局の方針は、職業争議者を征伐することにあったようである。(中略)県当局が5人や10人の職業争議者を監獄に投じて小作争議を止めさせるようなことを考えることは大間違いの根本である。」(7月29日付)
北蒲原郡内の地主たちが設立した新発田新聞は、「関東同盟を駆逐せよ」との見出しで次のように組合側を痛烈に批判した。
「奇怪千万に思うのは小作騒動である。(中略)他人の作付けを妨害したり、或は真島(北蒲原)郡教育会長に辞職を勧告し、之を容れぬとて郡内の各町村の小学児童を同盟休学運動とまでなって、はては真島某氏の邸宅を襲撃せんと警吏と衝突し流血の惨事を見るに至った。(中略)彼等は事を小作問題に托して反国家的に児童を教育せんとの非謀を企図したものであるからだ。今回の木崎村の出来事は由々しき椿事である。かほどの大事件を国家統治権が如何に今日まで傍観して来たのか。」(8月3日社説)
まるで県当局、警察の主張を代弁しているようでもある。
その他の識者や第三者の教師たちはこの農民学校をどう見ていたのか。講師として木崎に来た富士辰馬は農民学校の誕生について次のように記した。
「農村の学校が村の有志から、実際に鍬と鎌を握っている者のために解放されることは学校本来の規道に立つことである。農村の教員は農村のインテリゲンチャであるが、従来農民の鍬や鎌と近接していながらイデオロギーの上では、非常な遠距離に立っていた。明日の教員は、従来と全く反対の一端から社会を見、歴史を見得る人すなわち農村のふもとから頂上を見得る人が欲しい。言葉についていえば、都会のブルジョアが製造した言葉を農村に注ぎ込むような真似をせずに、その土地に生まれ、その土地に育った言葉で、文化の果実を伝えることが必要だ。」(「反響」)
一方、教育の専門家として東京高師(現筑波大学の前々身)の樋口長市教授は、次のように批判をしている。
「一時的にならんことを実望する。無産農民学校の創設は遺憾の至りなり。かくの如きは益々階級意識を明晰にし、社会争闘を激甚ならしむべし。(中略)小作問題は、正々堂々と合理的に解決すべし。子供を休学せしめて犬糞的な仇討ちは、解するに苦しまざるを得ず。かかる無謀の挙を反省する機も遠き将来にあらざるべし。余は、ただ扇動家が非理を理らしく弁じて一時的にも理知的な我が国民の頭脳を乱さざらんことを希望す。」(啓明会機関誌「啓明」)
上記のように、第三者的立場の教師は、「公教育は中立であるべきで、階級性を教育に持ち込むことは許せない暴挙」であり、「盟休を争議手段にすることはよくない」などとする意見が圧倒的だったという。
<注>
[1]合田氏は一般に社会思想家たちは、富士のように公教育の画一的な教育に反発を示して農民学校の独自な教育に文化創造の芽を見出そうとしたと指摘をしている。
[2]真島中太郎は、報道について「(新潟新聞など)農民側にも(地主寄りと)嫌われたが地主側としても満足はしていない。権威のある新聞が事件の真相も研究、厳正な批判を加えれば、地主といえば必ず横暴、小作人は争議を起こさなければ餓死してしまうなどの誤解を天下に伝えなかったろう」と記した。組合側も会議で「地主側の報道をする新潟新聞」の購読中止を呼び掛けている。新潟新聞の一連の報道は明らかに当局寄りであり、事実に基づかない観測的記事が目立った。
(木崎村小作争議記念碑保存会)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ/掲載号トップ/直前のページへ戻る/ページのトップ/バックナンバー/ 執筆者一覧