【社会運動の歴史】

木崎無産農民学校と教師野口伝兵衛(2)

阿部 紀夫


◆ 5.野口「無明会」に参加

 野口伝兵衛と苦楽を共にしたきせ夫人の手記によれば、野口は労働運動がやりたくて、1925年(大正14)3月に上京し、上野のメーデーに参加した。
 「聞け万国の労働者とどろきわたるメーデーの示威者に起こる足取りと未来を告ぐる鬨(とき)の声」と労働歌を歌いながら行進し感激したという。実際の労働を体験するため印刷工になるが経済的に続かなくなり、5月から尾久高小に勤めた。そこで労働争議に関係し大門小に転任となった。(『一粒の麦は死なない』思い出)

 その頃、新潟市在住の知人田越謙次から木崎小の盟休について、次のような手紙を受け取った。

 「貴兄ノ至急来援ヲ乞ウ。現地農民ノ子弟ハ経験ノ豊富ナル教師ノ教授ヲ切望スルナリ。貴兄ノ同志原素行ハスデニ木崎村ニ滞在、小作農民子弟ノ教育ニ日夜分カタヌ奮闘ヲシオリ。貴兄ヨロシク奮起セラレタシ。」(野口『回想』私家版)

 檄文ともつかぬような言葉で結ばれているが、この時の心境を、後にこう記した。

 「僕はこれを読んでいるうちに、もう言うべらからざる胸の躍りを覚えた。数年来、児童の解放とか無産教育とか言って運動の末流についてきたのだが、このときほど感激に打たれたことはない。よし俺の仕事はこれだ。これが俺の使命なんだとほとんど前後を考慮する暇もなく(木崎行き)を決意した。」

 野口に連絡した知人「田越謙次」は、現在まで教員関係者なのか、日農関係か、また、変名を使ったのかはっきりしていない。
 後年、きせ夫人は合田氏に「野口の決意が固くて反対できなかったが、野口の顔が急に明るくなり眼が光り輝いたことを昨日のように思い出す。」と述懐している。知人の一片の手紙で木崎行きを即断した野口は、本来であれば名門新潟師範学校卒として栄達の道もあったに違いない。なぜ、彼はあえて苦難の社会運動の道に進んだのだろうか。以下に野口の経歴を見てみる。

 野口は、1897年(明治30)3月5日、中蒲原郡川東村笹堀(現五泉市)の開拓地主(庄屋)の岱九郎の長男として生まれている。川東村は早出川の東側にあることからその名がついた。当時、野口家は生活が苦しく、暮らしがよかった叔父の一三郎が伝兵衛の教育を援助した。父岱九郎は、漢学者であり熱心なキリスト信者でもあったと言われているが、政治運動などで財を失ったとの話もある。

 ・1897年(明治44)3月 川東小卒業、4月に新潟附属高小
 ・1916年(大正 5)3月 新潟師範学校卒業、4月五泉小訓導として赴任
 ・1919年( 〃 8)4月 新潟市鏡淵小に転任(無明会に加入)
 ・1922年( 〃 11)4月 七谷小(七谷村、現加茂市)に転任(左遷)
 ・1924年( 〃 13)4月 石曾根小(菅名村、現五泉市)に転任、(きせと結婚)         
 ・1925年( 〃 14)3月 同校を退職、上京する
 ・1926年( 〃 15)5月 木崎争議の支援、一家で木崎村の鳥屋に転居

 野口が鏡淵小に転任した頃は、大正デモクラシーの高揚する中で「大正自由教育」の潮流が生まれた時代でもあった。1919年(大正8)8月に、下中弥三郎(埼玉県)を中心に全国で最初の教員組織と言われる啓明会が結成され、格調高い次の宣言を採択している。

 「我らは教育者なり。教育者たる天職を自覚し、自由を獲得し、万民の味方としてこれが教化と救済とに専念し、人類に対する熱愛に目覚めんとす。」

 新潟県でも、翌年12月に田中惣五郎、井上乙吉など鏡淵小学校の教師を中心に教員を主体にした思想的団体の「無明会」が結成された。啓明会との連絡役は田中が務めた。野口と川東小、新潟師範で同級であった原素行(沼垂小訓導)も参加する。二人は田中らとの出会いで思想的な影響を受けたことは間違いない。そして、稲村との交流も始まる。会員は県下で総勢63名の名簿が確認されている

 無明会は結成に当り次のような目標を掲げた。
  ①教育会を支配している学閥打破。
  ②骨抜きになっている教育界に新しい思想を吹き込む。
  ③貧乏人の子供も教育を受けられるように教育の機会均等を図る。
  ④給与は全国どこの市町村でも一定にして国庫支弁とする。
  ⑤やがて教員も労働組合をつくるような動機をつくる。

 無明会発会式の講演で早稲田大学教授の大山郁夫(後の労農党委員長)は、ロシア革命を称え「やがて日本もロシア風になるだろう」と主張した。このことが警察の知るところとなり、機関誌『無明』は1号で無断発行(出版法違反)を理由にして即座に配布禁止、残部はすべて警察に没収された。
 1921年(大正10)3月に熱心な後援者であった新潟小の豊川善嘩(ぜんよう)校長は、休職となった。翌年3月に鏡渕小の田中、井上は退職させられ、野口らは七谷小などの僻地に左遷された。原は、当局の叱責を受けたがそのまま沼垂小に残っている。

 当時の鏡淵小の君修一郎校長はこう記している。
 「新潟、鏡淵の両校が先駆と見られ極端な自由主義教育を主張した。行動はやや左傾的であり、市教育会に大旋風を巻き起こすようだった。鏡淵校内の空気は、険悪で手の下しようがなかった。校内改革のため関係者の一掃を市当局に力説し、関係者の更迭をした。」(『県教育百年史』)

 その後、田中は上京し、在野の研究家として明治維新史などに業績を残し、戦後明治大学の教授となった。井上は労働運動の道に入り、内島見の農民学校協会発会式で革新労働組合代表としてあいさつしている。後に新潟市議、県議(労農党)も務めた。
 沼垂小に残った原は、東京に出た田中と連絡を取り、潜行して日農の組織化に奔走していた稲村とも交流を続けていた。

 1926年(大正15)5月に原が青年会(新潟市中野山)で「今の小学校の歴史教科書は神話などを無批判に取り上げ、天皇中心思想に結びつけ賛美のみを強調している。そこには多くの偽造がなされている。」と発言したことが、私服刑事から市当局に伝わった。県視学は発言の訂正と詫状の提示を迫ったが、それを拒否したため論旨退職処分になっている。その直後に田中から農民学校開設の報を聞き、一家で木崎村に新天地を求めた。(『木崎村事件の思い出』私家版・原素行)

 七谷小に左遷された野口は、稲村によれば「彼は学校の休暇ごとに社会主義の長老堺利彦を訪問し、その教えを受けて社会主義に対する信念を益々強固にした」と記している。堺と野口を結びつけたのは稲村のようである。

 農民学校を研究した合田氏は、野口が教師をやめた経緯について、「彼は一時教師の世界に絶望を感じたのではないか。無明会当時、同志による警察や校長への密告などの裏切り行為があった。」と指摘している。

<注>
[1]合田氏は、野口について「東京に移住後、原とも音信を断って、しばらく平穏な会社員生活を送っていた。その時、田越の手紙を受け取った」としている。
[2]野口きせ夫人は、新潟市寄居町で生まれた(11人兄弟)。新潟高女を卒業後、検定試験を受け教員になる。七谷小の代用教員として赴任、その後、野口を紹介され結婚する。
[3]1917年9月、政府は内閣の諮問機関として「臨時教育会議」を設置した。皇室を中心とした国家主義教育体制の確立が目的であった。1919年まで教育問題を討議したが、陸海軍現役将校の学校配属制度を決定、実行した。(『木崎農民小学校の人びと』)
[4]啓明会は結成の翌年(1920年)第1回メーデーに参加、9月に「日本教員組合啓明会」 に改称、教育改革構想を打ち出した。国民の教育権思想を確立したとの評価がある。
[5]無明会の会員名簿は、発会式で開会のあいさつをした波多野伝八郎(北蒲原郡安田小)の三男盈(みつる)が、1991年に父の遺品整理で見つけ会員宛「連絡事項」と共に県文書館に寄贈した。連絡事項の内容は「機関誌無明を120部印刷したが残部31部は警察に押収された。16名で今後教員組合をつくることなどを相談した。」などであった。(『五頭郷文化』第33号)
[6]無明会は新潟県内での危険思想団体(4団体)の一つとされ、会員が更迭、退職されるなどしたため退会者が続出し、活動は停止となる。その後、新潟文化学会と合同し、文化活動を目的とする「創生会」として再出発する。
[7]豊川校長は、高等師範卒(現筑波大学の前々身)で、教育方針は「従来の伝統教育を打破して自由主義の基づく新教育の樹立」を掲げ、「教育改造五綱領」を示した。しかし、改造を急ぐあまり市長たちと衝突し、在任わずか1年4ヵ月であった。退職後、新潟新聞に入り市長攻撃の健筆を奮った。その後、朝鮮に移住、そこで亡くなったとの説がある。「県教育百年史」では、無明会との関連には一言も触れていない。
[8]稲村は、北海道の地主の長男で早稲田に進み建設者同盟に所属した。父の出身地の中蒲原郡松崎村(現新潟市東区)をたびたび訪れ、松崎小作組合を関東同盟に加入させた。(組合長滝沢要平、木崎争議を支援)無明会結成前後から田中、野口らと連絡を取っていた。

◆ 6. 農民学校の教師たち

 話が前後するが、家族の慰安講演会が開かれた5月18日から盟休(数は諸説あり)が始まり、翌19日には盟休児童は565名(警察調査)、20日には盟休児童400名余を集め、隣村南浜村の島見浜に遠足を計画した。
 いち早く支援に駆け付けた青山学院生の深海政夫(西蒲原郡太田村、現燕市)や組合役員、青年部10名が引率した。しかし、島見浜に到着した途端、葛塚署の警官に、「公安に害あり」として引率者が検束され、取り残された子供たちは、解散を命じられ右往左往しながら泣きながら帰って来た。

 5月25日に組合側は、内島見の長行寺で3名の講師を招き、第1回の課外講話(童話会)を行った。木村毅(作家)はデンマークの話、富士辰馬(新聞記者)はロシアの童話や民謡、後年、著名な評論家になる大宅壮一(当時新潮社嘱託)は、「磔(はりつけ)茂左衛門」の話をした。その時の児童が本堂を埋めている写真が残っている。

 その夜、争議団本部で、組合幹部、三宅、稲村、大宅、教師団が相談をして、主に次のよう項目を決めている。
  ①農民学校の教場を1か所に集めるため、学校を建築する。
  ②農民学校規約を早急に作成する。
  ③大宅、木村、富士を中心に東京で学校建築資金を集める。
  ④学校と村を一体にし、少年、少女たちのピオニールを結成する。
  ⑤授業に独自の内容を付し、農民教育を豊かにする。
  ⑥農民小学校長には賀川豊彦に就任してもらう。

 課外講話と賀川、安部磯雄などの著名人が随時講話を申し出たことや、農民学校設立が中央新聞に報じられると木崎争議は、にわかに全国の注目を浴びていく。
 後に川瀬が木崎村農民運動史に「師範を出でたる正教員、帝大新人会など総勢18名の多きに及び何れも無報酬にて教鞭をとり、全国に眠れる教育界を覚醒せしめた。」と記しているように、全国から野口らの有志が木崎に馳せ参じて来た。警察はこの教員らに村外退去命令を出したが、いずれも連合会役員宅に寄留届を提出して干渉を免れている。

 野口の木崎行きの動機は前述したが、深海は後にキリスト教的人道主義から「争議や子供たちを見ていたたまれない気持ちから農民学校に参加した」と述べている。
 実際、次のような人たちが農民学校の教師として来た記録がある。

 ・野口伝兵衛、原素行(新潟師範学校卒)
 ・武内五郎、伊藤勝治(早稲田大学卒、建設者同盟、武内は戦後参議院議員)
 ・深海政夫、郷司浩平、茂尾鎗太郎(青山学院生)
 ・岩淵すえ、大津年子(日本女子大学)
 ・岩崎正三郎(拓殖大学、報知新聞)片桐なお(大阪労働学校)
 ・山口隻郎(東京帝大生)、鹿地亘、(当初の時雄は変名、東大新人会、後に作家)
 ・黒田松雄(京都帝大農学部卒、中学校教員)
 ・舟木忠義、大森芳雄、森静雄など

 上記の中で正規の教育を受け、教壇に立っていた経験者は、野口、原、黒田など数名に過ぎなかった。すでに、川東小と新潟師範で同級であった原や深海などの教師が先任していたが、全員一致で野口を主任教師、原を補佐役に選び早速授業の準備に取りかかった。

<注>
[1]大宅は「旧制茨木中学時代から神戸の賀川の家に出入りし、川崎造船争議に関係していた」と随想に記した。(「話」大宅壮一文庫)その時代に賀川から洗礼を受けている。賀川と大宅の関係は、「大宅壮一の賀川豊彦素描」(『雲の柱』22)が詳しい。
[2]三宅、大宅がいつ賀川に正式に校長を依頼したか不明であるが、賀川は「(眼病で)病院に寝ている間に校長にさせられていた。びっくりして農民組合の東京出張所(日農本部)に聞いてみると本当だった。気の毒だから加藤武雄の紹介で新潮社から3千円借りてきて学校を建てることにした。」という。(『雲の柱』7「賀川豊彦と農民運動」)
[3]農林省農商務局調によると被調査者は14名であるが、数名の経歴に誤りがある。教師はこの他にも短期間であるが、多数来村しているようだ。黒田と片桐は組合結婚式を挙げた。後に武内と岩淵も結婚している。
[4]合田氏によれば、「農民学校閉鎖が決まった時、教師陣の中で幹部の背信行為を最も攻撃批判したのは青山学院生の茂尾であった。神学科に所属しながら教案は共産主義的思想が色濃く反映されていた。」という。亡くなるまで茂尾と深海の交流が続いている。  (つづく)

 (木崎村小作争議記念碑保存会)

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