朝日新聞出身の政治家 一覧

【戦前/衆議院】
*末広 重恭・鉄腸(1849-1896)
 ・愛媛6区 第1,4回<1890-91、94—96>立憲自由党内弥生倶楽部➡無所属 当2回
 ・宇和島出身。藩校明倫館卒後に舎長・教授を経て、自由民権運動のなか言論を志し曙新聞編集長となり、その投書が讒謗律、新聞紙条例の初の摘発となり禁固刑に。次いで朝野新聞入りし成島柳北とコンビに。国会開設の予告(1881)で板垣退助らの自由党に入り、また政治小説「雪中梅」などを執筆。鉄腸の「政論」(のち大同新聞)は東京朝日の姉妹紙「東京公論」と合併、村山龍平のもとで姉妹紙「国会」を創刊。
 ・長男重雄は京大教授で国際法学者。次男恭二は船舶工学者。その長男恭雄は東大教授で水産学者。次男重二は気象庁長官。

*杉浦 重剛・天台道士(1855—1924)
 ・滋賀1区 第1回<1890-1891辞職> 当1回
  ―大成会<民権派の立憲自由、立憲改進両党に対抗的で、吏党的な院内会派>
 ・大津市出身。東京開成学校卒後英国留学、雑誌「日本人」を発行し国粋主義を唱道。明治25-37朝日論説員、日本中学校校長、東亜同文書院長など

浅野 陽吉(1868-1944)
 ・福岡県久留米市区 第9,10,12回<1904、1908、1915-17> 当3回
       ―無所属から有志会、政交倶楽部、猶楽会、2期目に又新会、
       中央倶楽部、3期目に立憲同志会、憲政会
 ・久留米中、東京商業学校(現一橋大)卒後、信濃日報、九州日報主筆、久留米の商議所前身を結成、久留米商業学校長を経て衆院議員に。この間久留米電灯会社を設立。大阪朝日に入社し、久留米出身の「からくり義右衛門」とされた田中久重(発明家で、のち現東芝となる芝浦製作所創業)の記事を書き、田中を知らしめた。筑後新聞を経営するなどしたが、落選後は郷土史家として著作を残した。
 
石橋 為之助・白羊(1871-1927)
 ・大阪2区 第10回<1908> 又新会から無所属
 大阪6区 第11,12回<1912=補欠当選、1915—17>亦楽会、中正
 ・大阪出身。教員をしつつ英語を学び同志社、明治法律学校(現明大)卒後に米国留学、大阪朝日の記者になったあと、立候補し当選。記者時代は、外報面で活躍、日露講和会議(ポーツマス)では暗号電報を打って特ダネになりかかったが、当局に見つかる。また、朝日後援の南極探検にもテコ入れした(1910)。その後、山陽製鉄社長、広島瓦斯電軌や帝国石油の役員を経て、第6代神戸市長に。第1次大戦後の不況下で解雇、緊縮財政を進めた。議会から関東大震災の慰問金の不当使用を追及された。

川村 曄(アキラ)(1863-1923
 ・三重郡部1区 第10,11回<1909=補選、1912-14> 立憲政友会 当2回
 ・津市出身。漢学、ドイツ語を学ぶ。自由民権を主張。朝日の記者や雑誌記者になる。

村松 恒一郎(1864-1940)
 ・愛媛郡部7区  第10回<1908> 又新会➡立憲国民党
  愛媛郡部6区  第11回<1912補欠当選―14>
  愛媛郡部1区  第13回<1917—20> 純正国民党
  愛媛  3区  第16,17回<28-32> 新政会➡立憲民政党   当5回 
 ・宇和島市出身。同人社卒後、高野山学林の英語講師。関西日報、国会新聞、中央新聞、さらに末広鉄腸の大同新聞が朝日系に合流したことで東京朝日、大阪朝日に入社。日露講和会議に反対して留置されたことも。在社中は新聞紙条例改正に反対したが、議員時代に新聞紙法成立に同調。のち雑誌「大国民」を創刊し、大東通信社社長。落選時には東京市議、麻布区議も。
 ・弟の山村豊次郎は宇和島市長から衆院議員に。長男村松正俊は古代ギリシャ、ローマの文字、ラテン語に通じ、古典劇や戯曲の翻訳が多数ある。慶応大教授。

鈴木 巌(1866-1946)
 ・岩手郡部5区  第11回<1912-14> 立憲政友会
岩手2区    第14回<1920-24> 
岩手1区    第16回<1928-30> 立憲政友会    当3回
 ・盛岡市出身。東京朝日記者を経て郷里で日刊「三陸」を主宰。朝日時代には、広島大本営を担当し、日清戦争開始に伴い、「筆力あり経験ある社員」として特派の一員になった。その後、村議、県議を経て衆院へ。東北鉄道鉱業、盛岡電灯、新岩手日報などの役員を務めた。
  ・二男鈴木彦次郎は作家。新感覚派として川端康成、今東光らと「新思潮」を創刊、舟橋聖一、村山知義らと新劇に取り組み、のち作家に。

小西 和(カノウ)・海南(1873-1947)
 ・香川郡部4区  第11回<1912> 立憲国民党
   同   3区  第12回<1915> 中正会➡憲政会
   同   2区  第13回<1917-20> 憲政会
   同   4区  第15回<1924> 新党倶楽部➡立憲民政党
  香川 1区  第16,17,19回<1928-32,36-37> 立憲民政党  当7回
 ・札幌農学校で植物学を学び卒後、東京朝日記者になり博物方面の記事を担当、「日本の高山植物」(1906年)を著す。日露開戦時に陸軍従軍記者、奉天会戦も取材し、朝日の布陣は絶対優勢だった。小西は得意の写生画でも腕を振るった。 
 日本海洋会理事になり、「瀬戸内海論」(1911)を書く。南満州製糖、亜細亜煙草、中国葉煙草、東亜拓殖興業などの取締役。憲政会党務委員長、立憲民政党総務など。

有田 温三(1865-1927)
 ・広島郡部8区  第11、12回 <1912-17>   当2回
                無所属➡亦楽会➡中正会 2期目に公正会
 ・東広島市出身。早大政経科卒、山陽新報記者などを経て大阪朝日に入社し、広島支局長に。広島県議(広島市義も兼務)を経て下水道建設などに尽力。

小山 松壽(1876-1959)
  ・名古屋市1区  第12、13回<1915,17>    当10回
   愛知1区    第14,15,16,17,18,19,20,21回
  <1920,24,28,30,32,36,37,42-45>
      ―無所属、交有倶楽部、憲政会(幹事長)、15回に新党倶楽部、立憲民政党(幹事長)、20回は無所属、衆院議員倶楽部、翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会、戦後は日本進歩党
 ・長野県小諸出身。東京専門学校(早大)法律科卒後、福建省厦門で貿易など中国を研究し、大阪朝日の戦時特別通信員委嘱を機に採用、名古屋支社を経て、中京新報を譲り受け「名古屋新聞」(現中日新聞)と改題し社長に。普選運動を支持、また女性解放運動の平塚らいてふ を講演に招くなど進歩的論調で、政友会系の「新愛知」と競合。さらに、名古屋市議から衆院へ。社大党の西尾末広が国家総動員法案の賛成演説で、近衛首相に「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、スターリンのごとく確信に満ちた指導者たれ」と述べたことで、小山は懲罰委に付して衆院議員除名を強く主張した。これは、社大党の近衛内閣への与党ぶりに政友・民政両党の反感が憤出したため、という。
 ・加藤、若槻内閣で農林政務次官。1930年に衆院副議長、ついで予算委員長を経て、1937年から衆院議長。

高松 正道(1877-1939)
 ・大阪郡部1区 第13回<1917-20> 立憲国民党、純正国民党、➡無所属           当1回
 ・大阪府堺市出身。文学寮高等科(現龍谷大)卒後、中央公論社、中央新聞社を経て、大阪朝日記者に。佐世保に特派され、日露戦争時に対馬から漁船を雇って第2艦隊旗艦「出雲」に乗り込み、日本海海戦までの4ヵ月間艦内に食客したという。足尾銅山の坑夫暴動事件など労働争議多発のころ(07)、別子鉱山の暴動で坑夫側に単身乗り込み、彼らの要求、生活状態を取材した。その後、大阪新聞通信社社長。
 ・普選を主張したが党議に敗れて離党。大阪府立憲青年会幹事長など。

一宮 房治郎(1884-1948)
 ・大分郡部1区  第13回<1917> 立憲政友会
  大分5区 第14回<1920-24> 24年政友本党
  大分1区  第16,17,19,20,21回<1928,30-32,36,37,42-45> 
当7回
        ―28年立憲民政党、40年衆院議員倶楽部、41年翼賛議員同盟、
           42年翼賛政治会、45年大日本政治会➡日本進歩党
 ・大分県日出町出身。東亜同文書院卒、北京で順天時報記者から大阪朝日通信員を経て盛京時報を創設、その後内地に戻り大阪朝日記者に。東亜同文書院理事。
 ・著書「赤露より帰りて」(1925)、「大東亜海戦論」(1943)
 ・当選後、山本達雄農相(高橋是清内閣)秘書官、内務参与官(浜口雄幸内閣)、海軍政務次官(第1次近衛文麿内閣)。

中野 正剛(1886-1943)
 ・福岡1区 第14,15,16,17,18,19,20,21回<1920-43> 当8回
         ―1920年無所属、22年革新倶楽部、24年憲政会、27年新党倶楽部か立憲民政党、32年国民同盟、35年無所属、36年東方会
 ・福岡市出身。早大政経科卒、東京朝日入社し政治評論執筆。石川啄木、丸山幹治らと同期入社(09年)。その後東方時論社に移り、社長兼主筆に就任のあと立候補落選。日本外交批判の「講和会議を目撃して」(1919)はベストセラーに。
 ・1931年安達健蔵と民政党を脱党、国民同盟を結成しファシズムに。36年全体主義政党の東方会を結成し総裁としてアジア・モンロー主義運動を展開、南進論、日独伊三国同盟を主張。大政翼賛会総務となるも、17年脱会。「戦時宰相論」(18)を書き東条内閣を批判、憲兵隊の取り調べのあと割腹自決。
 ・妻は三宅雪嶺の娘。弟の秀人は詩人、評論家、4男泰雄は読売政治部長、よみうりテレビ社長。

清瀬 規矩雄(1878-1944)
 ・鳥取4区 第14回<1920-24> 立憲政友会       当5回 
  大分2区  第17,18,19,20回<1930-42>40年衆院議員倶楽部、41年翼賛議員同盟 
 ・大分県宇佐市出身。欧米各国に留学し法学、経済学を学び、サンフランシスコで日米新聞記者。帰国後に東京朝日記者に。その後南満州鉄道の総裁秘書に。
 ・当選後、山本達雄農商務相(原敬、高橋是清内閣)秘書官。大蔵政務次官(阿部信行内閣)。

奥村 千太郎(1877-1954)
 ・滋賀4区  第14回 <1920-24> 庚申倶楽部     当1回    
  ・滋賀県蒲生郡日野町出身。東京専門学校政治経済学科卒後、大阪朝日記者、客員を経て中国に渡る。大朝のコラム「天声人語」に対する朝コラム「東人西人」最初の担当記者。天津取引所常務のほか、天津信託会社を経営し天津商議所評議員。

石川 安次郎・半山(1872-1925)
  ・東京13区  第15回<1924-25> 憲政会  当1回 
  ・岡山市生まれ。通称石川半山。慶應義塾卒後、庚寅新誌記者、ついで信濃日報主筆、中央新聞経済部長、東京毎日新聞主筆、ついで報知新聞で北京に5年滞在し北清事変に従軍、中支那の外交機密暴露で話題に。次いで特派員としてポーツマス会議を取材。報知新聞主筆を経て東京朝日に在籍。最終的には万朝報の主筆。「政界ゴシップの天才」と言われた。このあと国会へ。幸徳秋水と普選期成同盟会に参加。足尾銅山鉱毒抗議の田中正造の直訴に参画。著作多数にのぼる。

清水 長郷(1888-1961)
 ・岡山3区  第15回<1924-28> 政友本党➡新党倶楽部➡立憲民政党
  岡山1区  第17回<1930-32> 立憲民政党 当2回
 ・岡山県井原市出身。早大政経科卒、同県農会雑誌編集主任、国民新聞記者、読売経済部長、を経て東京朝日の経済部長。のち神田銀行調査部長、国政調査会理事長など。
 ・著書に「北方観察」(1918)、「農村財政」(1925)

三浦 數平(1871-1929)
 ・大分1区 第15,16回<1926-29> 政友本党➡無所属➡立憲政友会 当2回
 ・大分市出身。明治法律学校卒後、朝日記者に。判検事試験に合格し司法官試補となって、大分に戻り弁護士、特許弁理士になる。三浦家の養子になり、大分町議、同市議、県議を経て大分市長を10年。その後衆院に。
 ・著書「 公民必携選挙法規と判決例」
 ・長男の三浦義一は「室町将軍」の異名を持つ国家主義の右翼活動家で、政財界などのフィクサーとして知られ、東条首相に近く戦犯となるが釈放。戦後GHQに接近。

神田 正雄(1879-1961)
 ・栃木3区  第15回 <1924>  立憲民政党
  栃木2区  第16回 <1928-30>           当2回
 ・栃木県那須塩原市出身。東京専門学校政経科卒後、四川省学堂に教育顧問兼教習として招聘され地理の教科書を著す。米コロンビア大、英オクスフォード大に留学後、東京・大阪朝日新聞に入り、北京特派員を経て、政治部員とデスク、のち支那部長、政治、外報各部長。美土路昌一、緒方竹虎らと編集局幹部を務めた。議員のあと、雑誌「海外」社長兼主筆。戦後、石川県内灘の米軍基地反対闘争に参加。
 ・著書「西清事情」(1905)、「謎の隣邦」(28)、「リットン報告書全文解剖」(32)、
「上海から巴蜀へ」(35)、「満州から北支へ」(36)、「中国社会と民族性」(49)、「内灘:日本の縮図 軍事基地反対闘争の実態」(53・共著)など多数。

兼田 秀雄(1880-1937)
 ・青森3区  第15回<1924-28>    政友本党➡新党倶楽部➡立憲民政党
  青森2区  第17,18,19回<1930—37> 立憲政友会➡無所属➡昭和会 当4回
 ・黒石市出身。早大政治経済科卒後、渡欧。帰国後に中央新聞、東京朝日政治部記者、政治部長。その後南満州鉄道入り、内務官僚出の川村竹治社長のもとで秘書役、参事。
 ・岡田内閣参与官(1934-36)

三宅 磐(1876-1935)
 ・神奈川1区  第15回補選< 1927-28> 立憲民政党
  神奈川1区  第16,17,18回<1928,30,32-35死去>  当4回
 ・岡山市出身。東京専門学校政治科卒後、大阪朝日経済部に入社、関西労組期成会結成に参加、その後大阪同志会設立。7年後に東京日日新聞に移り経済部長、さらに横浜市政顧問に。「横浜貿易新報」社長兼主筆、横浜市議、神奈川県議を経て衆院へ。
 ・著書「都市?」(1906)、「都市の研究」(1908)、「国民を盗む:金再禁止の非違」(32) 

鈴木 文治(1885-1946)
 ・大阪4区  第16回<1928-30>    社会民衆党➡第一控室 
   東京6区  第19,20回<1936-42> 36社会大衆党➡無所属、40衆院議員倶楽部➡同交会 当3回  
 ・宮城県栗原市出身。10歳、父とキリスト教入信。現古川高校から旧制山口高校へ。本間俊平伝道師の影響で社会問題に目覚める。東京帝大法科大学政治学科入学後、同郷の先輩吉野作造と海老名弾正の本郷教会(組合派)に所属。社会政策学者桑田熊蔵の社会改良主義に共鳴、草分け期の社会運動家へ。吉野の活動を裏で支える。
 卒業後、秀英舎(現大日本印刷)を経て東京朝日に入社、貧民問題を取材。社会部長渋川玄耳により、記事重複掲載の責任を問われて鈴木ら4部員が退職処分に。在社1年半ほど。翌年には統一基督教弘道会(ユニテリアン派・安部磯雄会長)の幹事に就職、労働者の地位向上を目指し「友愛会」を発足、労働争議の調停、啓発に取り組む。
 2回渡米後、当地の労組事情を学び、麻生久ら若手初期の影響もあり、団結権、ストライキを主張、労働組合化を進める。「大日本労働総同盟友愛会」(1919年)と改称、政府、財界主導の労使協調団体「協調会」に参加せず、体制とは対決的に。「日本労働総同盟」(1921)に改称。実権を松岡駒吉、西尾末広らに譲り、ILO総会、普選運動に取り組む。社会民衆党結成(1926)に参加、中央執行委員に。
 ・28年の男子普選初の衆院選に、総同盟の拠点大阪から出馬、無産政党議員8人の一人として当選。40年反軍演説の斎藤隆夫(民政党)除名問題で、党議に反して採決に棄権、書記長麻生久により、党首の安部磯雄、西尾末広、片山哲、水谷長三郎らとともに党を除名。戦後初の46年衆院選の立候補届け出の翌日、急逝。

伊豆 富人(1888-1978)
 ・熊本2区  第18,19,20,21回 <1932-45>    当4回
        ―1932年立憲民政党➡国民同盟、37年第一議員倶楽部➡時局同志会➡翼賛議員同盟、42年翼賛政治会、➡大日本政治会➡日本進歩党
 ・熊本県八代市出身。早大専門部政経科卒後、九州日日新聞論説委員を経て東京朝日入社し2,3年で退社、2年後復社して在社6、7年。安達謙蔵逓信相秘書官。
 ・当選3回の1940年、九州日日新聞社長、翼賛選挙で当選するが、戦後に公職追放。阿部信行内閣の文部参与官。

春名 成章(1883-1952)
 ・静岡2区 第18,19,20回<1932-42>  当3回
      ―1932年立憲政友会、➡無所属➡昭和会、37年第一議員倶楽部➡立憲政友会➡衆院議員倶楽部➡42年翼賛議員同盟
 ・静岡県富士市出身。鳥取一中から早大政経学科卒。時事新報、東京朝日、東京日日で記者。
 ・床次竹二郎鉄道相(第1次近衛内閣)、床次逓信相(岡田内閣)秘書官。外務参与官。

*池田 秀雄(1880-1954)
 ・佐賀1区 第18,19,20,21回<1932-1945>  当4回
       ―1932年立憲民政党、40年衆院議員倶楽部、41年翼賛議員同盟
➡翼賛政治会、45年大日本政治会、45年日本進歩党、改進党
 ・佐賀県出身。五高、東京帝大法科大学英法科卒後に高等文官試験(行政科)に合格するが、 朝日新聞入社。すぐに辞めたようで、内閣拓殖局属、同局書記官、長野県理事官、広島県同、宮城県視学官、岐阜県警察部長、外務兼内務書記官、広島、宮城各県内務部長、24年秋田県知事、朝鮮総督府殖産局長、さらに北海道庁長官で退官。退官後、京城日報社長。
 ・商工政務次官(広田内閣)。戦後に公職追放。松本清張によると、A級戦犯容疑の大川周明を巣鴨に見舞っていた。

神尾 茂(1883-1946)
 ・福島2区  第21回<1942-45> 翼賛政治会➡大日本政治会➡日本進歩党
 ・福島県須賀川市出身。早大政経科卒、東亜同文書院商務科卒後、大阪朝日南京通信員、上海、北京各特派員。大阪朝日の支那部長、東亜部長、編集局顧問、論説委員
  陸軍梅機関(影佐禎昭機関)に配属、大使館嘱託にも。大陸新報社顧問、大阪東方文化連盟理事、大日本興亜同盟運動第3局第4部長。
 ・1期当選したが、戦後に公職追放となり、追放直後死去。

頼母木 真六(1899-1968)
 ・東京3区 第21回<1942-45> 翼賛政治会➡日本進歩党
 ・東京出身。慶大独文科中退後、カリフォルニア大学に留学、同州の日米新聞記者、大阪朝日サンフランシスコ特派員、東京朝日記者に。その後NHKに入り国際課長、部長に。頼母木桂吉の養子となり、衆院に出馬したが、1期だけで終戦。公職追放のあと、戦後も改進党から2回立候補したが落選。NHK経営委員などを務めた。
 ・養父頼母木桂吉は実業界のあと、報知新聞に入社し夕刊を出すなど活躍、松村謙三、羽仁もと子は部下だった。欧米視察し新聞事業を研究、生フィルムなどを輸入し成功。東京市議を経て、広田内閣の逓信相、立憲民政党幹事長などを務め、さらに報知新聞社長、東京市長などになった人物。

【戦前/貴族院】
下村 宏・海南(1875-1957)
 ・勅選 1937-46(朝日退社後)
 ・和歌山市出身。東京帝大法学部政治科卒、法学博士。逓信省に入り貯金局長、台湾総督府民政長官を経て、大正10年朝日新聞入社、専務、副社長、緒方竹虎と共に朝日の近代化に寄与したが、昭和11年退社。同18年日本放送協会会長。
 ・国務相(鈴木貫太郎内閣1945年4-8月)、戦後参院選に落選。
 ・著書「新聞に入りて」(1926)、「終戦秘史」(1950)、歌集「芭蕉の葉蔭」など。
 ・子息の下村正夫は演出家、孫の下村宏彰は数学者で福井大教授。

前田 多門(1884-1962)
 ・勅選 1945年2月—46年6月
 ・大阪府出身。東京帝大法科大学独法科卒、内務省都市計画課長などのあと東京市第三助役、東京市政調査会設立。ILO政府代表のあと、昭和3年朝日入社し論説委員、同13年退社し 、ニューヨークの日本文化会館館長、新潟県知事など歴任。
 ・文相(東久邇稔彦、幣原喜重郎内閣)。公職追放後、東京通信工業(現ソニー)社長、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長など歴任。
 ・著書「国際 労働」(1927)、「地方自治の話」(30)、「アメリカ人の日本把握」(40)など。
 ・長男前田陽一は仏文学者で東大教授。長女神谷美恵子は精神科医。二女勢喜子はソニー社長井深大の妻だったが、のち離婚。

原田 譲二(1885-1964)
  ・勅選 1946年8月―47年5月
  ・岡山県井原市出身。早大卒後、報知新聞を経て東京朝日に入社、社会部長などのあと、大阪朝日で編集局長、専務。緒方体制に反発、社内紛争に。戦後、公職追放にあう。

【戦前戦後/貴族院・衆議院】
村山 龍平・香雪(1850-1933)
 ・衆院 大阪4区 第1,2,3回 <1891補選で当選-94>  当3回
 無所属➡中央交渉部➡大阪派➡無所属  
   貴族院 勅選 1930年12月-33年11月
 ・三重県玉城町出身。紀州藩玉城城に勤番後、大阪へ移住。西洋雑貨商「村山屋」を起こし、大阪商法会議所の議員になり、朝日新聞創刊に参加、上野理一と共同経営に。衆院補選を含め3回当選のほか、大阪府議、大阪市議も。朝日社長として全国中等学校優勝野球大会を創設

緒方 竹虎(1888-1956)
 ・貴族院 勅選  1945年8月-46年1月
 ・福岡1区   第25,26,27回<1952—56>52年10月自由党➡55年11月自民党 当3回
 ・山形市出身(父親の転勤で福岡へ)。修猷館東京高商(一橋大)退学後、早大専門部政経科卒後、大阪朝日入社。修猷館の1年先輩に中野正剛、同期に安川第五郎、また、 右翼玄洋社の頭山満を介して閔妃殺害指揮の韓国公使三浦梧楼はじめ犬養毅、古島一雄らを知る。枢密顧問官だった三浦から元号「大正」をスクープ。論説委員からロンドンに私費留学を経て、第1次大戦後のワシントン会議を取材。整理、政治各部長のあと東京編集局長、取締役、主筆、常務に。
 村山社主家第2代長挙、大阪本社代表原田譲二、鈴木文史朗ら大阪派・社会部などの軟派に対する、東京派の緒方勢・政治、経済部の硬派の対立もあり、また満州事変 、5・15事件以降は政党内閣支持の傾向から親軍的な立場に変わった。2・26事件後「緒方筆政」が広田内閣支持を社の方針にすると、論説の前田多門、関口泰らが退社し、反緒方派の勢力が拡大する。緒方が重んじた尾崎秀実のゾルゲ事件の発生、また親しかった 中野正剛の自決で葬儀委員長を務めた緒方は、東条英機の供花を断るなど、反緒方の動きを強めることもあった。また、編集の緒方と営業を握る石井光次郎が、資本と経営の分離の立場から、村山社長、上野精一会長の退任を求めると、村山、原田、鈴木らが逆に緒方の主筆解任、対外的役職の取り上げなど反緒方の動きを加速した。
 ・緒方は44年7月退社、小磯内閣(国務相、情報局総裁)に入閣、これを機に政治の世界で動くことに。蒋介石・重慶国民政府との和平工作(繆斌工作)を小磯首相のもとで取り組むも、重光外相、軍部(杉山陸相、米内海相)や天皇の反対で失敗し退陣。緒方には軍部の非協力や反発があった。
  敗戦処理の東久邇内閣には、文相に前田多門、首相秘書官に太田照彦(のち木村姓)、緒方の秘書官に中村正吾、内閣参与に田村真作と朝日出身者が並んだ。戦後、緒方はA級戦犯容疑で、51年まで公職追放。
 ・その後52年、福岡の中野の地盤から立候補、吉田内閣に参画、その発言力が落ちた54年、保守合同推進の「緒方構想」を打ち出すが、反吉田の鳩山一郎の後継擁立の動きが強まる。吉田は衆院解散、緒方は総辞職を主張するが、解散説は実らず、吉田退陣となる。後継政権となった鳩山民主党は単独過半数をとれず、緒方自由党の協力が必要となって、保守合同の動きが強まり、55年11月自由民主党が結成されると、緒方、鳩山両党総裁と三木武吉、大野伴睦両党総務会長が総裁代行委員になる。だが、翌年1月、緒方は心臓発作で急逝、初代自民党総裁選出の見方の強いなかでの死は、戦後政治史に大きな変動要素を与えた。
 ・国務相兼情報局総裁(小磯内閣)       1944年7月―45年4月
  内閣顧問(鈴木内閣)             1945年5月―8月
  国務相内閣書記官長兼情報局総裁(東久邇内閣)1945年8月―10月
  副総理兼内閣官房長官(第4次吉田内閣) 1952年10月―53年3月辞任
  副総理・国務相(第5次吉田内閣)     1953年5月―54年7月辞任 
  北海道開発庁長官(同)          1954年7月―12月
 ・著書「議会の話」(1929)、「人間中野正剛」(1951)、「一軍人の生涯―回想の米内光政」(1955)
 ・兄緒方大象は生理学者、3男緒方四十郎は元日銀理事、その妻緒方貞子は国際政治学者で国連難民高等弁務官

【戦前戦後/衆議院】
安藤 正純(1876-1955)
 ・東京7区 第14,15回<1920-28> 無所属➡無所属倶楽部➡立憲政友会 
   同 3区 第16,17,18,19,20,21回<1928-45> 立憲政友会➡衆院議員倶楽部➡翼賛議連に対抗する同交会➡無所属➡日本自由党
  同1 区 第25,26,27回<1952—55死去> 自由党➡日本民主党  当11回
 ・東京・浅草の真龍寺に生まれ、僧籍を持つ。東京専門学校哲学科卒。陸羯南の新聞「日本」を経て東京朝日入社、のち取締役編集局長。
 ・リタイアし衆院選に当選。立憲政友会の鳩山一郎派で一貫した。犬養内閣で文部政務次官、政友会幹事長にも。42年の翼賛選挙は非推薦で当選。戦後、公職追放。52年国政復帰。三木武吉、石橋湛山、河野一郎らと反吉田の「民主化同盟」を結成するが、穏健な党内民主化を求めて鳩山自由党には不参加。第 5 次吉田内閣に入閣し、吉田から鳩山への バトンタッチを前提に、三木、河野ら「8人の侍」以外の鳩山自由党の大半は復党した。だが、石橋、岸信介が除名となり、これを機に鳩山とともに自由党を脱党して日本民主党を結成。 
 ・文部政務次官(犬養毅内閣)   1931年12月―32年5月
  国務相(第5次吉田茂内閣)   1953年5月―54年11月
  文相(第1次鳩山内閣)     1954年12月―55年3月
 ・著書「政界を歩みつつ」(1943)、「政治と宗教の関係」(1923)、「日本の行く道」(1938)など。

風見 章(1886-1961)
 ・茨城3区  第17,18,19,20回<1930-42> 当4回
立憲民政党➡国民同盟➡無所属➡衆院議員倶楽部➡翼賛議員同盟
  茨城3区  第25、26,27,28,29回 <1952—61死去>
無所属倶楽部➡小会派倶楽部➡日本社会党左派➡日本社会党当9回
 ・茨城県水海道市出身。早大予科から政経学部政治科卒。早大の雄弁会で中野正剛、緒方竹虎らと親交。国際通信、朝日記者を経て信濃毎日主筆。岡谷製糸争議に加わるとともに、共産党宣言を評価する「マルクスに付いて」の連載記事を書く。退社後、衆院第16回選挙で落選。
 ・近衛内閣登場数ヵ月前に昭和研究会の支那問題研究会委員長就任。37年6月に近衛は面識ない風見を書記官長に抜擢、1ヵ月余後に盧溝橋事件が勃発。当時、参謀総長閑院宮載仁のもとで、同次長今井清、支那駐屯軍司令官田代皖一郎とも病床にあり、陸軍の機能不全のため戦線拡大には消極的で、近衛も不拡大を唱え、現地での和平が成立。だが一方で、近衛は3個師団の北支派遣を声明、さらに1000万円の予備費支出、さらに陸軍の要求しない第1次北支事変費予算案(9700万円)、第2次分追加(4億円超)を閣議決定した。
 近衛は木戸幸一、有馬頼寧と40年5月新体制運動を始め既成政党解体に動き、11月大政翼賛会を結成し、風見は12月司法相を辞任。その後、ゾルゲ事件で風見の書記官長時代に内閣嘱託に起用した風見の親しかった朝日記者尾崎秀実が逮捕されたこともあり、翼賛選挙に出ず、帰農。戦後、公職追放。52年無所属で当選して政界復帰、55年左派社会党入りし、その後党顧問。護憲、日ソ協会、日中復交などで活動。周恩来首相とも会談。
 ・著作「近衛内閣」(1951)、「風見章日記」(2008)など。
 ・内閣書記官長(第1次近衛内閣) 1937年6月―39年1月
  司法相   (第2次近衛内閣) 1940年7月―12月

河野 一郎(1898-1965)
 ・神奈川3区  第18,19,20,21回<1932-45> 立憲政友会➡衆院議員倶楽部➡興亜議員同盟➡翼賛政治会➡大日本政治会➡日本自由党
  神奈川全県区 第22回<1946年4月-6月辞任>
  神奈川3区  第25,26,27,28,29,30回<1952年10月-65年7月死去>
自由党➡自由党分党派➡日本自由党➡日本民主党➡自由民主党 当11回
 ・神奈川県の現小田原市出身。父親は村長、郡議、県議会議長。
早大政経学部政治学科卒後、朝日新聞入社し政治記者として活躍。1931年山本悌二郎農相(犬養内閣)秘書官から衆院選に出て当選。政友会では中島知久平(革新派)VS久原房之助(正統派)では、久原派に着く。翼賛選挙で非推薦当選。戦後、鳩山一郎総裁の日本自由党を結成、鳩山が公職追放となり、吉田が後継総裁となると、これに反発したものの、河野も追放となる。51年の追放解除後、三木武吉と自由党に復党、反吉田の急先鋒として鳩山政権に動くが、52年衆院選前に吉田は石橋、河野を除名(その後取り消す)。53年鳩山、三木ら21人と分党、内閣不信任案に賛成し、その紛糾下にバカヤロー解散となる。その後、鳩山、石橋らはいったん復党したが、三木、河野ら8人は日本自由党を結成、自由党反主流派、改進党の3派で鳩山総裁の日本民主党を結成し、吉田内閣を打倒した。鳩山内閣で農相となり、河野派を作り、日ソ間で漁業協定、共同宣言を出すなど、鳩山内閣をリード。その後の岸内閣を主流派として支持、経企庁長官、党総務会長に就任するが、59年幹事長就任を拒否され、反主流派に転じ、安保条約改定でも批判的になり、衆院の強行採決は欠席した。岸退陣後、党人派結集を図り、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派の池田勇人に敗退。だが、池田に接近し、東京五輪に向けた建設事業などに取り組む。池田のあと、後継総裁に擬せられたが、結局佐藤栄作に。64年佐藤内閣の副総理になるが、翌年の内閣改造では入閣を拒否、その1ヵ月後に急死した。
・著書「大東亜共栄圏と日本畜産人の覚悟」(1942)、「今だから話そう」(1958)、「河野一郎自伝」(1965)など。
・長男河野洋平は自民党幹事長、孫の河野太郎は外相、甥の田川誠一は元朝日新聞政治記者でのち文相
・農相(第1,2,3次鳩山内閣) 1954年12月-56年12月/第3次では行政管理長官兼務
 経企庁長官(第1次岸内閣)  1957年7月―58年6月
農相(第2次池田内閣)    1961年7月―62年7月
建設相  ( 同 )   1962年7月―63年12月
建設相 (第3次 同)    1963年12月―64年7月
国務相  ( 同 )     1964年7月―11月
国務相(第1次佐藤内閣) 1964年11月―65年6月

河野 密(1897-1981)
 ・東京1区 第19,20,21回 <1936-45>
  社会大衆党➡衆院議員倶楽部➡翼賛政治会➡無所属➡旧日本社会党
  東京2区 第22回 <46辞職>
  東京5区 第25,26,27,28,29,30回 <1952-66> 日本社会党右派➡日本社会党  
  東京9区 第31,32回 <1967-72落選引退>        当12回
 ・千葉県いすみ市(夷隅町)出身。東京帝大法学部独法科卒、在学中新人会に入り、朝日新聞記者を経て同志社大講師。弁護士。日本労農党に参加、さらに社会大衆党に移り衆院へ。戦後、大政翼賛会に参画したことで公職追放。社会党右派から政界復帰し、55年左右社会党統一に参加、翌年鈴木茂三郎委員長下の国対委員長。その後党副委員長。
 ・著書「日本無産政党史」(1931)、「風雲政治史」(1943)、「日本社会政党史」(1960)、翻訳「社会思想八講」(1926)など。

野田 武夫(1895-1972)
 ・神奈川2区 19,21,27,28,29回 <1936-37、42-45>
     36立憲民政党➡翼賛議員連盟から42翼賛政治会➡大日本政治会➡
日本民主党➡自民党
   熊本1区   第30,31,32回 <1955-63>   自民党  当8回
 ・熊本市出身。早大法学部卒後、国民新聞を経て東京朝日政治部。その後、 神奈川新聞社長、町田忠治商工相秘書官から立候補。戦後公職追放。日本民主党で当選後保守合同後は旧民政党系右派の大麻派、ついで岸信介派、さらに河野派へ。自民党中国問題調査会長、中曽根派座長など。日中友好に尽力。
  ・軍需政務次官(鈴木貫太郎内閣)  1945.5-8
   総理府総務長官(第2、3次池田勇人内閣)    1963.7-64.7
   自治相兼北海道開発庁長官(第2次佐藤栄作内閣)1968.11—70.1
   衆院外務委員長2回など。 
  ・娘婿に自民党の野田毅。

羽田 武嗣郎(1903—79)
 ・長野2区 第20,21回 (1937-45)立憲政友会➡衆院議員倶楽部➡翼賛議員連盟➡翼賛政治会➡大日本政治会➡日本進歩党
  長野2区   第25,26、28,29,30,31回 自由党➡58自民党   当8回
 ・長野県長和町出身。東北帝大法文学部卒後、東京朝日に入社、札幌時代に農民大会で演説し本社に召還の際、通りがかりの代議士からアカ呼ばわりされビンタ 。政治部記者に、細川隆元デスクに叱られる。鉄道相の秘書官から立候補。同郷の岩波茂雄の勧めで羽田書店を開業。
 ・農林政務次官(第5次吉田内閣)1954, 9-12。その後衆院建設委員長など。
 ・長男羽田孜はのち首相、孫の羽田雄一郎は民主党から国民民主党議員に。

田原 春次(1900-73)
 ・福岡4区 第20回<1937-42> 社会大衆党➡衆院議員倶楽部➡同人倶楽部➡第一控室 
  福岡2区 第22回<1946-47> 旧日本社会党 
  福岡4区 第25,27,29,30,31回<1952-53、55—58、60-69>
日本社会党右派➡日本社会党  当7回
 ・福岡県行橋市出身。早大専門部法律学科卒後渡米、ミズーリ州立大留学、福岡日日に入社して北・中・南米の海外特派員を経て東京朝日に入社し1年半ほど在社。社会大衆党中央委員、機関誌主任、農民運動に参加し衆院議員に当選。ニューギニア海軍民政府嘱託。戦後日本社会党結成に参加するが、公職追放。部落解放同盟福岡県連員長になる。クリスチャン。

高橋 円三郎(1894-1956)
 ・島根1区  第20回<1937-42> 立憲政友会➡衆院議員倶楽部➡翼賛議員同盟
 ・島根全県区 第26回<1953—55>  自由党
 ・島根県出雲市出身。早大政経学科卒後、東京朝日に入社、政治記者に。のち法制局事務嘱託、農相、内閣書記官長の各秘書官。帝国油糧統制会社理事、日本大豆統制常任監査役など。戦後山陰日日新聞社長になるが翼賛議員になったことで公職追放に。緒方竹虎内閣官房長官秘書官。彼のあとに出たのが、のちの首相竹下登。 

【戦前戦後/衆議院・参議院】
大山 郁夫(1880-1955) 
 ・衆院 東京5区 第17回 <1930-32>  新労農党➡第一控室
  参院 京都府  第2回  <1950—55死去> 無所属➡第一クラブ➡無所属
 ・兵庫県相生市出身。早大政治経済学部卒。早大教授〈政治学〉になるが、1917年の早稲田騒動を機に東京朝日に入社、朝日大阪本社の論説委員になるが、翌年の白虹事件で退社。長谷川如是閑らと雑誌「我等」創刊し、また吉野作造、福田徳三らと大正デモクラシー唱道の黎明会に参加。その後、早大教授に復帰。
 労働農民党が結党(1926年)されるが、間もなく右派が社会民衆党(安部磯雄委員長)、中間派が日本労農党(のち麻生久委員長)に割れて、同党の主導権は左派が握る。初の男子普通選挙の第16回衆院選(28年)で大山は香川県から立つが、厳しい弾圧と選挙干渉で落選。この選挙では水谷長三郎、山本宣治の2人が当選。無産政党の分裂で、大山の労農党には共産党が参入、選挙直後に共産党弾圧の3・15事件があり、労農党は結社禁止になる。大山らは新労農党をつくり、共産党勢と一線を画すが、32年に米国に亡命し、ノースウェスタン大学の嘱託になる。
   戦後47年に帰国、早大教授に復職。50年の参院選で京都から社共などの支援で立候補して当選。京都府知事に蜷川虎三、同市長に高山義三の革新側が当選した。平和と自由を雄弁に語り続け、革新側の象徴的な存在に。
  ・著書「大山郁夫著作集 -大正デモクラシー期の政治・文化・社会」全7巻(1988)
  ・妻大山柳子も社会運動家。子息大山聰は都立大名誉教授。

【戦後/衆議院】
石井 光次郎(1889-1981)
 ・福岡1区 第22回<1946-47> 日本自由党
  福岡3区 第23回<1947.4—47.6公職追放>
  福岡3区 第25,26,27,28,29,30,31,32回<1952-72> 自由党➡自民党当10回
 ・久留米市出身。東京高商(現一橋大)専攻科卒。警視庁、台湾総督府などを経て、朝日に入社し営業畑に長く、専務まで務める。戦後政界入りするも公職追放に。
  自由党幹事長として民主党との保守合同をまとめ、自民党総務会長に。緒方竹虎死後、緒方派を継ぐが、31,35年の自民党総裁選に敗退。岸内閣では副総理。日本体育協会長、横綱審議会委員長。
 ・商工相(第1次吉田内閣)   1947.1-5
  運輸相(第4、5次 同  )   1952.10-54.12
  国務相/北海道開発庁長官 、行政管理庁長官(第1次岸信介内閣) 1957.2-58.6
  通産相(第1次池田内閣)  1960.7-12
  法相(第1次佐藤内閣)   1965.6-66.12 
  衆院議長 1967.2-69.7
  ・2女石井好子はシャンソン歌手。長男石井公一郎はブリジストンサイクル社長。二男石井大二郎は昭和海運社長。

志賀 健次郎(1903‐1994)
 ・岩手2区 第23,24,25,26,27,28,29,30,31回 <1947-69>民主党➡民主党野党派➡50国民民主党➡52改進党➡54日本民主党➡55自民党 当9回
 ・岩手県現一関市出身。早大政経学部政治学科卒後、朝日新聞記者になり、42年の翼賛選挙に非推薦で立候補するも落選、戦後政界へ。
 ・衆院公選法特別委員長など 
  労働政務次官(第1次鳩山内閣) 1954.12‐55.3
  防衛庁長官 (第2次池田内閣) 1962.7‐63.7
 ・長男志賀節は三木武夫の秘書などのあと、政界に出て環境庁長官、当8期。

細川 隆元(1900—94)
 ・熊本2区 第23回<1947-48> 旧日本社会党
 ・熊本市出身。旧5高から東京帝大法学部卒後、朝日入社、政治記者から36年政治部長、40年NY支局長、44年編集局長として終戦を迎える。47年熊本県知事選に出て落選、衆院に1期。政治評論家として長く活動した。
  ・著書「昭和人物史」「実録朝日新聞」など多数。
  ・毎日出身で政治評論家になった細川隆一郎は甥。

鈴木 正文(1899—1978)
 ・山梨全県区 第23,24,26回<1947-52、53-55> 
日本自由党➡48民主自由党➡50自由党 当3回
 ・山梨県北巨摩郡出身。早大政経学部卒後、朝日入社し海外特派員、京城支局長、論説委員で退社。山梨日日新聞社論説委員。戦後参院選に出る。
 ・労働政務次官(第2次吉田内閣)  1948.10—49.2
  労相    (第3次 同 )   1949.2—50.6
 ・著書「朝鮮経済の現段階」(1939) 

篠田 弘作(1899-1981)
 ・北海道4区  第24,25,26、27,28,29,30,31,32,33,34回(1949-79) 
49民主自由党➡50自由党➡55自民党  当11回
 ・富山市出身。早大政経科卒後、朝日記者になり、山形、千葉支局長など。経済部長丹波秀伯の勧めで大日本再生製紙(のち国策パルプ)に入社。戦後1946,47年衆院選に落ちるも挑戦を続けて衆院へ。広川弘禅派の闘将として動き、のち緒方派、石井派、岸派、川島派、椎名派に属す。
 ・農林政務次官(第4,5次吉田内閣)  1953.3-11辞任
自治相兼国家公安委員長(第2次池田内閣) 1962.7—63.7
  ほかに、衆院の考査特別、行政監察特別(2回)、建設、国土総合開発特別、懲罰(2回)の各委員長に就任。自民党代議士会長も。

聴涛 克巳(1904—65)
  ・東京6区 第24回<1949-50レッドパージ> 日本共産党  当1回
  ・香川県出身。関西学院大卒後朝日に入社、論説委員など。戦後初代の朝日労組委員長に。全国新聞通信労組、全日本産業別労組会議の委員長に。ソ連から帰国し赤旗の編集局長など。 
  ・子息の聴涛弘は共産党から参院議員に当選。

橋本 登美三郎(1901—90)
 ・茨城1区 第24,25,26,27,28,29,30,31,32,33,34,35回<1949—80>
     49民主自由党➡50自由党➡55無所属➡56自民党➡76無所属  当12回
 ・茨城県潮来市出身。早大政経学部卒後朝日入社、旧満州に特派、日本軍の南京占領時に現地入り。南京、上海支局長などを歴任したあと外信、東亜各部長に。終戦で退社。1946,47年の衆院選に落選、潮来町長2期のあと衆院当選。
 政界では、保守合同で自民党が生まれる際、これに反発する吉田茂が入党しないことに同調、佐藤栄作とともに無所属を貫いた。39年佐藤内閣の官房長官としてサポート、さらに田中角栄の派閥形成にあたり同調、党の幹事長として支えたが、51年ロッキード事件に連座、受託収賄罪で逮捕、1審で懲役2年6ヵ月、執行猶予3年、追徴金500万円の判決を受け、61年の高裁も有罪となり、落選中に死去した。
 「アバウト」と言われ、大まかで実務等は竹下登に任せるなど、党内の人望はあった。 
 ・建設相 (第1次池田内閣) 1960.7-12
  内閣官房長官(第1次佐藤内閣) 1964.11-66.8
  建設相兼中部圏・近畿圏開発整備長官、首都圏整備委員長( 同 ) 1966.8-12
  運輸相 (第3次 同  ) 1970.1-71.7

田川 誠一(1918-2009)
 ・神奈川2区 第 29,30,31,32,33,34,35,36,37,38,39回  <1960—93>
 60自民党➡76新自由クラブ➡進歩党  当11回
 ・横須賀市出身。慶応大法学部政治学科卒。朝日入社し政治部記者。朝日労組委員長を経て、松村謙三元文相の秘書になり、自民党から衆院へ。ハト派として知られ、1976年自民党を離党、新自由クラブを結成。79年選挙で敗退し、従弟の河野洋平辞任のあと第2代党代表に。
  83年過半数割れの自民党内閣と連立を組み入閣。86年衆院選で自民が圧勝し連立解消。河野、山口敏夫らは自民に復党し、田川は反自民で87年進歩党を結成するが、内紛で離党組が出てごたつき、93年衆院選に出ず引退、代表を務めた進歩党も解散。
 親中派として松村以来の古井喜実、川崎秀二らとともに、両国のパイプ役として復交に努めたことで知られる。
・科学技術政務次官(第1次佐藤内閣) 1965.6—66.8
 厚生政務次官 (第2次  同  ) 1967.2—11
 自治相 (第2次中曽根内閣)1983.12—84.11
  ほかに衆院社会労働委員長 1972—73
・祖父田川平三郎、父田川誠治は神奈川県議、河野洋平はいとこ。
・著書「日中交渉秘録―田川日記14年の証言」「日中交流と自民党領袖たち」「自民党よ、驕るなかれ」など多数 。

小坂 徳三郎(1916-96)
・東京3区 第32,33,34,35,36,37,38回<1969—90> 自民党   当7回
・長野市出身。東京帝大経済学部卒後、朝日入社、10年ほど経済部記者などを経て、49年信州の小坂財閥入り。信越化学工業の副社長を経て社長16年。経済界の若手ホープとして経団連、経済同友会などの役職で財界活動に努める。72年叔父小坂武雄をついで信濃毎日新聞社長を約1年。政界進出の意欲は強く、田中角栄に接近し政界入りを果たす。政策集団「新風政治研究会」を結成するが、他派閥の顔ぶれが多く、派閥作りはならなかった。
・田中派内で、総理総裁に動き出した竹下登系への牽制として、大平・中曽根との間で「大中小」と話題になり、安倍晋太郎・竹下との「安竹小」としてメディアに注目された。竹下と二階堂進の田中派の分裂では二階堂側で動いた。日本テニス協会会長など。
・沖縄開発庁兼総理府総務各長官(第2次田中内閣) 1973.11—74.12
経済企画庁長官 (第1次大平内閣) 1978.12—79.11
運輸相 (鈴木内閣) 1981.11—82.11 
・祖父小坂善之助は信濃毎日新聞を創業した元衆院議員。父小坂順三は同新聞社長、衆院・貴族院議員、電源開発総裁を務めた。叔父小坂武雄は同新聞社長、信越放送顧問、などを務めた地元の有力者。兄小坂善太郎は自民党衆院議員で外相、労相、経企庁長官などを歴任。姉は都知事美濃部亮吉の最初の妻で、のち離婚。徳三郎の妻旦子は、三井家系の出で女子ゴルフ草分けとして知られる三井栄子の長女。甥の小坂憲次も衆・参院議員で、文科相になった。その係累は華やかな人脈を飾る。

野上 徹(1938- )
 ・富山1区 第 36,37回 <1980-86> 自民党 当2回
 ・東京都渋谷区生まれ。 1961年東大仏文科卒後、朝日入社。富山県議2期のあと、1979と86,90,93,96年の6回落選。
 ・長男野上浩太郎は富山市出身で、富山高校、慶大商学部卒後、三井不動産、祖父創業の新富自動車KK勤務。 1999年富山県議1期目の途中から 2001年参院議員、07年落選、10,16年参院当選。その間、小泉内閣財務政務官、参院文科委員長、第2次安倍内閣で国土交通副大臣、安倍内閣官房副長官、農水相。

松島 みどり(1956-)
 ・東京14区 第42,43,44,46,47,48,49回<2000-09,2012>自民党 当7回 
 ・大阪府豊中市出身。東大経済学部卒。大学応援部初代のバトントワラーズ部員。朝日入社し、宮崎支局に勤務後、経済部記者のあと短期間政治部に。国土交通副大臣、経済産業副大臣など。
 ・法相(第2次安倍内閣) 選挙区でのうちわ配布問題で辞任。在任48日間。

山岸 一生(1981-)
  ・東京9区 第49回 <2021> 立憲民主党 当1回
  ・筑波大中高を経て東大法学部卒、2004年朝日入社、10-19年政治部記者を経て同年退社、参院選東京選挙区に立ち次点後に衆院へ。

【戦後・参議院】
佐々 弘雄(1897-1948)
・参院全国区 第1回<1947-48 3年議員・死去> 無所属➡緑風会 当1回
・熊本市出身。東京帝大法学部政治学科卒で、吉野作造、美濃部達吉の薫陶を受ける。新人会に参加。大学に残り欧州留学後、新設の九州帝大文学部教授として政治学を教える。28年3・15事件がらみの九大事件で共産主義者の嫌疑をかけられ、向坂逸郎教授らとともに大学追放。そのため、中野正剛経営の九州日報に論説を書き、上京後は雑誌「改造」「中央公論」などに政治評論を執筆。34年東京朝日に入社、論説委員に。近衛文麿の昭和研究会に参加し笠信太郎、尾崎秀実らとともに中心人物に。近衛新体制運動の理論面を担当し、さらに昭和研究会に関わる昭和塾を設立。42年緒方竹虎主筆のもとで副主筆に。社内紛争による緒方解任で主任論説委員になり、45年3月論説主幹。8月15日の論説「一億相哭の秋」を執筆。
・近衛に血盟団事件の右翼四元義隆を紹介して秘書に就かせ、また5・15事件の三上卓、陸軍皇道派の柳川平助、小畑敏四郎各中将ら右翼人脈と親密になり、太平洋戦争中に海軍省教育局長高木惣吉少将らの東条英機暗殺計画にも関与し東条、憲兵隊から敵視された。ゾルゲ事件発覚時に、息子の佐々淳行が尾崎秀実関連文書などをふろ場で焼却したという。
終戦後、朝日内で緒方派と村山派が対立、村山社長、上野会長らの退陣の際に鍛冶隆一らと編集局参与に降格。また、父佐々友房が熊本日日新聞の社長を務めたことがあり、時の社長伊豆富人(元朝日記者、のち衆院議員)が公職追放されると、弘雄が社長兼主筆に就任した。
・著書「政治の貧困・転換期の政治批判」(1931)、「強力政治の将来」(34)、「日本ファッシズムの発展過程」(32)など 。
・父佐々友房は西南戦争時に西郷側についたあと、第1回衆院選で当選(熊本国権党など)。濟々黌の前身の同心学舎を創立し皇室中心、国家主義を建学の精神とした。長男の克明は朝日記者で歴史作家だったが、晩年は朝日批判を執筆。次男の淳行は防衛施設庁長官、初代内閣安全保障室長。二人の間の紀平悌子は婦人有権者同盟会長から参院議員。

藤井 丙午(1906-80)
・参院全国区  第1回 <1947-50 3年議員> 無所属➡緑風会➡自民党
 参院岐阜県 第10回 <1974—80>
 同    第12回 <1980.7—12死去>
・岐阜県白川町出身。早大政治経済科卒。早大時代に大学当局に対して学生ストを組み、仲介に入った中野正剛、緒方竹虎と知り合い、朝日の政治記者になり、そのあと日本製鉄入社。戦後経済同友会創設に努める。参院選に当選。その後、日鉄が八幡、富士に分割されると、八幡製鉄の総務部長、副社長に。さらに両社合併の新日鉄になり副社長就任。政財界をつなぐ役割を負い「財界の政治部長」といわれた。20余年後に岐阜から参院に出た。
・経済安定本部政務次官(芦田内閣) 1948.4-6辞任
・3男の藤井孝男は参院議員で運輸相 。

*鈴木 文四郎・文史朗(1890—1951)
・参院全国区 第2回<1950-51死去> 緑風会
・千葉県銚子市出身。筆名は文史朗。東京外語学校英語学科卒。三菱合資を経て朝日入社。シベリア出兵時に従軍記者、パリ講和会議、ロンドン・ワシントン軍縮会議など特派され、のち社会部長、編集総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役、常務を経て終戦で退社。戦後の21年、「リーダーズ・ダイジェスト」初代編集長から日本支社長に。NHK理事、日本青年館理事長なども。
・著書「米欧変転記」「文史朗随筆」「心を打つもの」など。

秋山 長造(1917-2010)
 ・参院岡山県 第3,5,補選、7,9,11,13回<1953—89> 社会党(左派)当7回
 ・岡山市出身。東京帝大法学部政治学科卒後、朝日入社。その後岡山二中教諭を経て戦後岡山県議。参院選に当選後、64年岡山知事選に出るため辞職するが、落選し参院選の補欠選挙に出て当選。 社会党参院議員会長、参院副議長。

戸叶 武(1903—82)
 ・参院栃木県 第3,5,9,11回 <1953—65、71—82>日本社会党右派➡日本社会党 当4回
 ・栃木県佐野市出身。早大政経学部卒後、ロンドン大学留学、ついで朝日入社し10年間勤務。大陸新報政治部長兼論説委員長として上海に赴任。42年東方会から衆院選に出るが落選。戦後公職追放、一時宇都宮、東海各大学で政治学を講じた。52年衆院選栃木2区から出馬、落選後参院選に。65,68年参院選、71年同県知事選で落選。
 ・社会党中執、機関紙局長など歴任。衆院では、農林水産、運輸、交通安全対策特別、公害対策・環境保全特別の各委員長。
 ・父の戸叶薫雄(しげお)は、田中正造の政治的後継者とされ、下野新聞社長で、衆院2期で早世。武の妻戸叶里子は国際連盟東京事務所勤務時に武を知り結婚。1946—71年まで日本民党、社会党から衆院当選11回。

二宮 文造(1920—2006)
 ・参院全国区 第6,8,10,12回 <1962—86> 公明党     当4回
 ・高松市出身。東北帝大法文学部中退(卒業との記録もある)。終戦直前に朝日入社、政治経済部記者。34年高松市議、公明党から参院へ。参院法務委員長(1984-86)。公明党副委員長。

和田 教美(1919-2001)
 ・参院比例区 第13,15回 <1983—95> 公明党        当2回
 ・和歌山高商(現和歌山大経済学部)卒後、朝日入社。政治部記者など、テレビ朝日でニュース司会、朝日ジャーナル編集長などを経て論説委員。非創価学会員だが、公明党から出馬。
  参院科学技術特別委員長など。

山本 一太(1958-)
 ・参院群馬県 第17,19,21,23回 <1995-2019> 自民党     当4回
 ・群馬県草津町出身。中大法学部卒後、ジョージタウン大学大学院留学後、ごく短期間朝日福島支局員。父富雄(自民党参院幹事長、農水相)死去により参院選に出て当選。外務政務次官、外務副大臣、参院自民党政審会長、参院外交防衛、予算各委員長など。
 ・内閣府特命担当相(沖縄・北方等担当/第2次安倍内閣)
 ・2019年7月の群馬県知事選に出馬し 当選、参院議員辞職。

安達 澄(1969-)
 ・参院大分県 第25回 <2019―>立憲民主党など4野党支援   当1回
 ・別府市出身。上智大卒後、新日鉄を経て、1990—2014朝日新聞入社し販売局など勤務。2015年別府市長選に落選、同市内で旅行社経営、参院に初当選したが、参院議員を辞めて23年の知事選に出て落ちた。

【戦後・参議院/衆議院】
細川 護煕(1938-)
 ・参院全国区 第9回    <1971—77> 自民党
  同 熊本県  第11回    <1977—83辞任>
   参院比例区 第16回    <1992—93辞職> 日本新党
   衆院熊本1区 第40、41回 <1993—98> 
 ・東京都出身。上智大法学部卒。朝日入社し社会部記者などを経て、69年無所属で衆院選に出たが落選。参院に転じ全国と熊本県で2期務め、熊本県知事2期。参院比例区で日本新党を結成し、1年後に参院を辞職し衆院選に当選。折から自民党田中派の分裂、新党ブームなどで野党が伸び、自民党は下野。野党勢力が日本新党の細川を首班に担ぎ、93年8月に非自民による政権交代を38年ぶりに実現。自社の55年体制が崩壊した。だが、消費税を福祉目的税に切り替え3%から7%に引き上げようと突然に発表、また佐川急便からの借財問題などの追及を受け、94年4月に死に体状態となり辞職。短期政権に終わったが、衆院選制度に小選挙区制を導入し、その後の政治環境を大きく変えることになった。
   細川から副総理・外相の羽田孜に政権(非自民)が変わったが、短期に終わり、社会党と組んだ自民党が息を吹き返すことになった。日本新党は解党、新進党に参加、これも脱退しフロムファイブを結成し代表に。さらに国民の声、太陽党と合流して民政党を発足するなどしたが、再起のチャンスはなかった。
   細川はその後、60歳を区切りに議員を辞し、陶芸や絵画、茶道の道に入り、芸術関係の大学に関与。ただ、2014年の都知事選に脱原発を掲げて出馬、3位で落選した。
 ・熊本・細川家の主流にあり、祖父細川護立は美術収集家で東洋文庫理事長、父細川護貞も美術収集を継ぎ永青文庫理事長(護煕が継ぐ)を務めた。護貞は日中戦争時の首相近衛文麿の 秘書を務め、近衛の二女と結婚したので、護煕は孫にあたる。護煕の弟忠煇は近衛家に入り、日本赤十字社長。護煕の妻佳代子は福祉関係で貢献している。
 ・大蔵政務次官(三木内閣)  1975.12—76.9
   参院エネルギー対策特別委員長(1980) 

                              以 上
(2023.11.20)
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