【投稿】

有閑随感録(36)

矢口 英佑

 ネット上のウィキペディアなるものの内容を信頼し過ぎると大きな失敗をすることにもなりかねないということはかなり知られている。それでもとっかかりの情報として見る人は少なくない。誰が、いつ、どのようにして書き込んでいくのか私は知らないが、今の世の中、当事者が知らないうちに情報だけが一人歩きしていることは珍しくない。
 たとえその情報が誤っていても、本人でも修正できず、消すこともできない異様な世界がネット上ではそう珍しいことではなくなってきている。単純なミスによる誤った情報ならまだ放っておくこともできるが、個人の名誉や社会的地位に関係したり、経済的に損害を与えられたり、意図的にでっち上げられたり、誹謗中傷されたりする情報も少なくない。こうなると何らかの手を打たないといけなくなる。

 その一方で、「個人情報のためお教えできません」というせりふもたびたび聞かされる。この言葉を聞くたびに「何が個人情報だ」と心密かに悪態をついているのだが、本当に個人情報として保護されている個人情報などあるのかと首を傾げたくなるのが今の世の中だろう。

 また個人の行動があらゆる場所で監視されているのも今の世の中である。ここにも個人のプライバシーが守られているとは断言できない危うい状況が横たわっている。それを教えてくれるのが「防犯カメラ」だろう。「監視カメラ」と言わないところが巧みなところ。
 この「防犯カメラ」のおかげで犯罪者逮捕や証拠固めにつながっていて、今の世の中では、防犯上は有効な装置として認知されているように見える。今や人が往来する場所、スーパーマーケットやコンビニエンスストア、銀行などの店内から乗り物まで、想像以上に備え付けられているはず。ただ気がつかないでいるだけで、そのためニュースなどで防犯カメラの映像が映されると「へえ、あんなところにもカメラがあったのか」と驚かされることにもなるのだろう。

 しかも、公共の場所だけでなく、今や個人の家でも防犯カメラを備え、車にも備えるのが当たり前になってきている。だが、繰り返すが「防犯カメラ」は「監視カメラ」であることを忘れてはならない。個人の行動がすべて監視され、プライバシーがほぼなくなる世の中は、もはやSF世界のできごとではない。いつでもそうした社会に変えることができる準備は整っていることを、もっと認識すべきだろう。

 なぜこのような社会になってきてしまったのか。確実に言えることは、社会が共同体として多くの人たちが力を合わせて協働しなければならないという生活スタイルが消えてしまったからである。農業中心の社会でも工業中心の社会でもなくなってしまい、土を相手に、あるいは原材料を加工して物を生産する仕事から遠ざかり、情報を相手にして、物を生産しない人が多くなってしまったからである。

 これまでは、何らかの情報を求めるときは新聞、ラジオ、テレビだった。だが今や、スマートホン、インターネットが主流となっている。前者と後者の違いは、個(弧)の度合いがますます大きくなっていることである。不特定多数を相手にできても、互いの言葉はあくまでも文字であり、相手が何者か、男女の違いさえ判別できないこともあり得る。実体(実像)がつかめないだけに、他者を信用しない空気が今の世の中を覆い始めていて、どこか空疎感が漂っているのだ。

 それなのにスマホやネットは、日常生活を維持するほとんどのことを可能にしようとしてきている。物品の購入、食事の配達、様々な支払いなどはその典型だろう。しかし、それを可能にするには、銀行に預金口座があることをはじめ、自分の個人情報がそれなりに捕捉されることを知っておかなければならない。
 なんのことはない。今や人びとは企業等々によって提供される便利さ、簡便さを求めるあまり、自分の情報を進んで投げ出し、プライバシーを捨ててきてしまっていると言えそうだ。

 こちとら、アマゾンなどのネット通販で書籍など物品の注文を一度もしたことはなく、クレジットカードもなければ、銀行カードも1枚だけ(家に置きっぱなし)、スマホもなければ、運転免許証もない身である。金が必要になるときは銀行窓口へ直接行くのを基本的生活スタイルとしている者からすると、いつの間にかプライバシーが失われていっている今の世の中は、危険極まりないと思わざるを得ない。

 このように書いてきたが、いまどき、私のような生活をしている者は確実に少数であり、私のような考え方をする者は変人の部類に入るのだろうと思う。
 でも、変人を甘んじて受け入れてもなお言いたいのは、「面倒くさい」と思う気持ちを大切にしないと、手間ひまをかける大切さ(わかりやすく言えば、土を相手にしての作物生産)を放棄することにもつながりかねない。他者が作り出した「便利さ」「簡便さ」のシステム享受を追求するばかりで、創意工夫をみずからしなくなった社会からは、新たな階層社会が出現してくる可能性がある。
 それは知能人間階層と非知能人間階層にほかならない。

 (元大学教員)

(2022.2.20)
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