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有閑随感録(30)

矢口 英佑

 2020年東京オリンピックが終わった。オリンピックに何らかの形で関わった人びとはそれぞれそれなりの思いを抱いているにちがいない。
 でも、オリンピックがいつ始まり、いつ終わるのかにさえ関心がなかった私は、開(閉)会式も競技の実況中継もテレビで一度も見ることはなかった。そのため、今回のオリンピックでのさまざまな話題についても何も知らない。
 思うにマスコミなどでは取り上げなかった隠れた(隠された)話題は数え切れないほどあるはずだし、それぞれの人びとの物語が誕生しているにちがいない(決して美しく素晴らしい物語だけではないはずだ)。これからパラリンピックも始まる。また新たな物語が生まれるのだろう。

 しかし、それにしても、と思う。コロナウイルス感染が爆発的な状況の中で、オリンピックを1年延期してでも強行した意味はなんだったのだろう。
 いったい何のために、誰のためにこのオリンピックは開かれたのか。決してクーベルタンが言ったように「参加することに意義がある」を実践する場でも、「全世界が平和の精神によってスポーツで手をつなぎあう」を目的とするものでもなかったことは確かである。
 収益を上げるというすさまじい商業主義によって動かされていたのである。その最大の証拠は日本で最も暑い季節にオリンピックを開催しなければならなかったことだろう。なぜこのくそ暑い季節にスポーツの祭典なるモノを行なわなければならないのか。

 理由は簡単だ。マス・メディアや広告代理店に目が向き、マネーファーストのイベントでしかなくなっているからである。もっと言えば、欧米中心のテレビでのスポーツ中継番組の都合でしかない。
 この暑さの中での競技がそもそも無理なのであり、マラソンが東京から札幌に急遽、変更されたのは象徴的と言える。「晴れる日が多く、温暖であり、アスリートが最高の状態でその実力を発揮できる理想的な気候」といった内容が誘致説明にあったようだが、この大ウソには呆れるばかりだ。

 1964年の東京オリンピックは日本の季節では最もさわやかな10月に開催され、敗戦から僅か19年でオリンピックが開催できるまでになった日本を世界に知ってもらう意義はきわめて大きかった。
 それと比べて今回のオリンピックは何のためだったのだろうか。
 震災からの復興をあと押しする一方、被災地が復興した姿を世界へ伝えるためだったはずである。だがいつの間にかこの復興五輪は消えてなくなってしまった観がある。結局は東京オリンピックを誘致するために東日本大震災の復興が大義として使われたに過ぎなかったのだ。もちろんコロナウイルスという予想外の災厄がオリンピックを更に危ういものにしてしまったことも否めない。

 今回の東京オリンピック開催の意義が東日本大震災からの復興を応援し、勇気づけと一緒に頑張ることを世界に発信し、理解を求めるのが目的だったとすれば、被災した人々の期待をみごとに裏切った。これならオリンピック開催までの必要経費をすべて復興支援に回した方が、よっぽど被災者の皆さんを勇気づけたにちがいない。
 金儲け主義が肥大化し、商業主義によるショー化したオリンピックでは、選手たちもメディアからはタレントのように扱われていた。こうしたオリンピックを楽しむ人びともいるのだろう。

 だが、私は今回の東京オリンピックで、つくづく思わずにはいられなかった。このような金儲け主義のオリンピックを更に続けるのは愚の骨頂であり、もう廃止しなければならない時に至っていると。

 (元大学教員)

(2021.08.20)
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