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有閑随感録(27)

矢口 英佑

 会社は神田神保町にあり、歩いて1~2分ほどのところに地下鉄神保町駅がある。なるべく歩こうと思っている私には、この駅までの近さは有難いような有難くないような気分になる。荒れた天候の時などは無論、有難いのだが、天気の良い日などはこの神保町駅はないことにしている。

 そのため、朝、出社するその日の天気で私の下車する駅が決まる。雨天でなければ、半蔵門駅となり、神保町駅からは2つ手前である。小雨程度ならばやはり半蔵門駅からで、それ以上の雨模様だった時は九段下駅からとなる。九段下駅は神保町駅の1つ手前だが、この駅から歩くのはなるべく避けたいところ。理由は単純明瞭。会社までの距離が歩いたと実感できるほど離れていないからである。ただし、出社時間が遅くなってしまったときには諦めて、この駅から歩くことになる。

 半蔵門駅から会社に向かう道は幾つかあるのだが、私はたいてい内堀通りに向かう。つまり皇居のお堀側に向かって行くことになる。ただ途中の信号の青への変わり具合で、墓苑前交差点か千鳥ヶ淵交差点かのいずれかになる。要するに信号で待たされたくないからだ。

 墓苑前交差点に出た時は千鳥ヶ淵遊歩道を歩く。桜の木が遊歩道を覆うように植えられているため、お花見のシーズンになると自分のペースで歩くことは諦めなければならない。江戸城名残のお堀の水や石垣を見ながらの歩きは心を和ませてくれるが、お花見シーズンは見えるのは人ばかりなので、車道側の歩道を歩き、遊歩道は避けることにしている。

 ここには千鳥ケ淵戦没者墓苑もあるのだが、この遊歩道から出た靖国通り沿いの靖国神社に比べると訪れる人はあまりにも少ない。規模も小さく、神社ではないのであっさりした作りになっていて、あらゆる意味で靖国神社との差は歴然としている。でも私はこの墓苑の雰囲気が嫌いではなく、年に数回は立ち寄り参拝してくる。靖国神社では参拝したことはないのだが。

 もう一つの千鳥ヶ淵交差点に出たときは、代官町通りを真っ直ぐ毎日新聞社方面に向かって歩くことになる。ただ、こちらは車の通りが多く、千鳥ヶ淵遊歩道に比べると排気ガスに見舞われるので、つい早足になって旧近衛師団司令本部のところで北の丸公園内に入り込んでしまう。

 ところで、この「旧近衛師団司令本部」という建物には案内板があって、最初、この文字を見たときには、なぜか危険地帯に入り込んだような錯覚を抱き、暗い気分に陥ったものだった。堅苦しい感じのこの建物、今は見慣れたとはいえ、あまりいい気分でこのそばを通り過ぎることはない。

 北の丸公園の中はいくつかの遊歩道があって絶好の散歩地なのだが、私のようにウオーキングペースで歩いている人は少ない。時間的、精神的に余裕があれば日本武道館を横目に田安門を出て、九段坂を下りる。あとは九段下駅で下車した時と同じ道筋で会社に顔を出すことになる。こちらのコースは千鳥ヶ淵遊歩道を歩いて九段坂に出るより距離があり、それなりに歩いた気分になれる。

 こうして私の編集者としての一日が始まるのだが、考えてみれば大学教員時代では考えられないほど時間に幅があり、気ままな自分がいることに驚いている。また編集業務も私の性格に合っているのか楽しい。ただし楽だというつもりはない。会社からのノルマはあり、それが達成できないことが続けば、あるいは〝肩たたき〟が始まるやもしれないからだ。
 それでも私が気ままだと感じるのは、組織という枠組みによって動かされ、結果的に管理、監視され、没個人に陥りがちな現代社会にあって、まがりなりにも自分の時間を自分の裁量で動かせる余裕がこの会社にはあるからだろう。

 (元大学教員)
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