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有閑随感録(24)

矢口 英佑

 「人間、なくて七癖あって四十八癖」などと言う。癖などないような人でもいくつかはあるという意味だ。この数をにわかに信じることはできないが、本人が気づかないまま癖なるモノを持っているものなのだろう。
 それを習慣、個性などと言い換える場合もあるかもしれないが、いずれにしても人間がさまざまな色合いを持っていることはまちがいない。

 私がやっかいになっている論創社には、学歴も資格も問わない(これは社長の物言いだが)編集者が十数人という小所帯ながら、癖というか個性というか、人間ウオッチングの対象には事欠かない。
 編集者は常に原稿用紙やパソコン相手にして、言葉を発しないでできる仕事と見られがちである。しかし、書き手あっての仕事だけに、実際は仕事の半分以上で人間を相手にしなければならず、コミュニケーションがかなり大きな比重を占めることになる。

 私は研究室での仕事に長年どっぷりと浸かってきただけに、他者が目の前に姿を現すこともなく、電話の存在も忘れてしまうことさえあった。授業や会議がない日は大学にいる間、一言も声を発しないなどということも珍しくなかった。

 だが、現在はそうはいかない。
 静寂のなかでの仕事はまずあり得ない。誰かが電話中であり、誰かが他の編集者としゃべり、誰かが社長に相談中(社長室などというものはなく、社長自身、編集者として仕事をしている)、誰かが部屋を移動中といった調子である。さらにコピー機の音も混じり、喧噪とまではいかないにしても、あちらこちらから声や物音が飛び込んできて、よく言えば活気があり、悪く言えば落ち着かない。これに電話の呼び出し音が頻繁に加わり、昼食時間帯などもお構いなしである。

 おそらく電話をかけてくる人物は、論創社の編集者が昼食時に誰も外へ食べに行かないのを知っているのだろう。それというのも、会社は二・三階を占めているのだが、その一階には総菜屋が店を構えていて、昼食はここから届く弁当を全員が食べるからである。基本は「お任せ弁当」だが、メニュ―変更や品目追加もできる。そして、この昼食代はすべて会社負担である。
 ただ、現在の緊急事態宣言のなかで、会社も自由出勤体制になっているため、弁当を食べずに午後出社の者もいるようである。かく言う私などは、第二回目の緊急事態宣言発出のかなり前から午後出社をしていて、弁当なしを続けている。

 話が横道にそれてしまった。
 編集者にとって電話でのコミュニケーションはかなり重要な位置を占めている。もちろんパソコンでのメール往復も併用されるが、おそらくメールではまだるっこしいのだろう、圧倒的に電話でのやりとりが多い。
 編集者の電話の特徴は、そのやりとりがおしなべて長いことである。校正ゲラを見ながらの話もあれは、時にはパソコンに映し出された原稿データや図版を見ながらの話にもなる。長くなるのは当然かもしれない。

 私のように電話が苦手な者は、即断即決ができないため、編集者には向いていないのかもしれない。そのため私が担当する執筆者には、あらかじめ私との通信はメールで、と申し訳ないと思いつつ、お願いすることになる。ところが私と真逆なのが社長で、通信はすべて電話である。どうしてもデータなどが必要なときは社員のパソコンを利用することになるのだが、決して自分で操作することはない。かくして、社内で最長老の二人は執筆者たちからは不便な編集者に見られ、社員からは手のかかる年寄りと思われているかもしれない。

 さてこの電話ウオッチングだが、普段は物静かに話すのに電話となると、なぜか声のトーンが上がる編集者がいる。しっかり受け答えしようとする意識が高まるのか、緊張するからなのかは不明。言葉が非常に明瞭で、聞き間違えなどは起きないだろう。
 一方、まるで内緒話でもするかのように、ひそひそと話す編集者もいる。周囲の人たちに迷惑にならないようにとの気配りからなのだろうが、ときどきクスクスと忍びやかな笑い声などが聞こえると、思わず振り返ってしまう。秘密の話をしているとは思わないが、この御仁の電話はいつもかなり長い。

 また、えらくゆっくりと丁寧に話す編集者もいる。普段、話す時も同じで、私などはすっかり慣れてしまっているが、電話の向こう側で面食らってしまう人もいるようである。丁寧な上に話す速度がゆっくりなため調子が狂ってしまうのだろう。しかし、私などは編集上の不明点はこの編集者に教えを願い出たときが、いちばん頭にすっと入ってくる。なにせゆっくり丁寧に教えてくれるからで、教えていただきながら、この人には自分が担当している仕事はないのか(もちろんそんなことはないのだが)と思ってしまうほど。

 電話のやりとりから、無事に本が刊行されるのか、少々心配になるような話し方をする編集者もいる。編集者主導意識が強過ぎるのかもしれない。執筆者が原稿上での希望を出しているようなのだが、この編集者はそれを認めず、時として緊迫した空気があたりに漂うことが珍しくない。自分が考えるしっかりとした本を作りたいという気持ちが強いことはよく理解できるが、執筆者と喧嘩分かれなどが起きませんようになどとハラハラしているのは私だけなのだろうか。

 そして、先方からの電話がもっとも多いのは、なんと言っても社長である。おしなべて会話時間は短く、結果報告や途中経過の知らせ(と類推できる答え方)や面会の約束などが多いように思われる。コロナ禍のなかで対面方式を避けようとする動きが現在の日常だが、この社長にはあまり関係ないようである。したがって他の編集者のように自分のデスクにとどまっている時間は多いとは言えない。

 たかが電話のやりとりだけだし、他の出版社の事情も知らない私だが、ここの編集者たちの仕事ぶりからは、会社自体に元気があるように見える。活気を失いがちな出版業界だけに、個性的な編集者たちがそれぞれ1カ月に1冊刊行を目標に立ち働く姿を見るのはなんとも頼もしい。

 (元大学教員)
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