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有閑随感録(19)

矢口 英佑

① 6月24日、IMF(International Monetary Fund 国際通貨基金)は、「世界経済見通し」として、新型コロナウイルスによる世界的な大流行で2020年上半期の経済活動が予想以上に大きなマイナス影響が出ていると指摘。

② 5月18日付けの『朝日新聞』。内閣府が18日公表した今年1~3月期の国内総生産(GDP)の1次速報は、物価の変動を除いた実質(季節調整値)で前期(昨年10~12月)より0.9%減り、2四半期連続のマイナス成長。
 年率換算では3.4%減。新型コロナウイルスの感染拡大で営業や外出を控える動きが広がり、個人消費や、輸出に計上される訪日客消費が落ち込んだことが響く。
 消費増税直後の昨年10~12月期は年率7.3%減と大きく落ち込んだ。増税にコロナが追い打ちをかける形で、景気が悪化していることを示す。
 GDP全体の半分以上を占める個人消費が前期比0.7%減で、昨年10~12月期(2.9%減)に続く減少となった。政府が2月にイベント自粛や学校休校を要請し、買い物や外食、旅行が控えられたことが大きく影響。

 この2つのニュースから、コロナウイルスの感染が広がり、世の中の「景気が悪化している」と知らされている私たちだが、この「景気の悪化」を自分に照らして、ただちに実感する人はそう多くないだろう。小売業などでも誰を相手に、何を売っているのかによってかなり受けとめ方は異なるにちがいない。②の記事にあるように「個人消費」が落ち込んだからといって、衣食住に関わる必需品は買わなければならないからで、その意味では「個人消費」が落ち込んでいるという実感を持ちにくい人も少なからずいると思う。
 しかしその一方で、輸出に計上されるという「訪日客の消費」が落ち込んだというのは、ほぼ100%、外国人観光客が来日できなくなっているのだから、その通りだろう。①にあるように、世界の経済活動が「予想以上にマイナス影響が出ている」というのもその通りだろう。

 そして、私などは実感として響いてこないのが「GDP」(Gross Domestic Product 国内総生産)という用語である。②にあるように「政府が2月にイベント自粛や学校休校を要請し、買い物や外食、旅行が控えられた」ことが大きく響き、GDPのマイナス成長を招いたというのである。
 ここでいう「買い物」は日常の必需品ではないだろうし、ましてや外食や旅行などは生活する(生きる)上で、多くの人にとって必要不可欠なものではない。しかし、そのために個人消費が落ち込み、景気が悪化し、GDPもマイナス成長になったという説明は数字的にはその通りなのだろうが、なぜかしっくり私の中に入ってこない。

 実際、サービス業や小売店では業績が悪化し、倒産や閉店に追い込まれた業者も少なくないし、中小企業では給与カットや退職を余儀なくされた人たちも少なくない。パートやアルバイトの仕事がなくなったという人も多い。それによって生活困窮度が高まってしまった人びとには、行政側からの緊急支援が行われなければならないことは言うまでもない。だが、そうした人びとでさえ、「GDP」という用語で指摘される数値にはピンとこないのではないだろうか。

 それにもかかわらず、②の記事にある「GDP全体の半分以上を占める個人消費」という記述、そして、①に記されている「コロナウイルスによる世界的な大流行で2020年上半期の経済活動が予想以上に大きなマイナス影響が出ている」という記述からは、消費者の存在を前提として、市場を確保し、開拓し、自由な競争を保証する世界に私たちが望むと望まざるとにかかわらず生きていることを教えている。

 ここでは暗黙のうちに、経済的な成長を追求し続け、消費を拡大し続け、利潤を獲得し続けることが発展であり、そうでなければならないと誰もが頭のどこかにすり込まれてはいないだろうか。「GDP」という経済力を測る基準が常に持ち出され、比較され、経済的豊かさや貧しさをはかり、時には国力の比較にも使われているのである。
 乱暴な言い方をすれば、「GDP」とは、「国民は金儲けをするために日々働き続け、いかに金儲けができるか考え続けよ。そして、いかに消費するかに目を向けよ。その結果としてあなた方の暮らしは豊かになり、国力を高めることになる。そのための国民に知らせる通信簿」となるのだろうか。

 それではこの通信簿は誰が出しているのか。言うまでもなく、日本という国家である。その国家をコントロールしているのは誰なのか。現在の政治、経済等々を動かしているのが誰かを考えれば、その時の政権であり、それぞれの産業界を支える企業であることは自明だろう。つまり「GDP」の変動は国家によって管理されているのである。政府の介入によって(そこには大資本の企業も絡んで)、賃上げも社会保障の仕組みも税制等々、あらゆる経済活動が円滑に動くことが求められているのである。もちろん人々の飽くなき購買意欲が堅調に維持され、需要の漸次的拡大を持続させることが狙いであるのは言うまでもない。

 たとえば、現在のコロナウイルス感染状況を踏まえて、政府は迷走の末に「特別定額給付金」として、国民一人あたり10万円を給付したが、その主たる目的は国民の消費行動が鈍ることを避けようとしたからにほかならない。
 またコロナウイルス感染症対策についての専門家会議が「当面は1年以上、持続的な対策が必要」との提言原案を政府が削除してしまったのは、経済活動の鈍化、停滞を避けたいという思惑が強く働き、コロナウイルス感染拡大のリスク以上に消費、購買力の低下を避けようとしたことが透けて見える。この会議は4月7日からの緊急事態下で、すでに行動制限を解除すると感染者数の拡大が再び起こることが予想されるから、一定水準に下がるまで、厳しい行動制限を続けるようにとも提言していたのだったが。

 5月25日の自粛解除、6月19日には東京の休業要請が解除された。しかし、7月9日には東京都での感染者は224人にのぼり、4月17日の206人を上回り過去最多になった。もはや東京ではコロナウイルス感染第2波襲来と言える状況にもかかわらず、政府も東京都知事も依然として行動制限処置を取る気配がない。

 こうした事態を見渡せば、私たちは私たちを取り囲む行政、生産、流通、通信、運輸、販売、メディア、教育等々、さらには労働そのものも巨大な管理組織下に置かれ、そこに組み込まれ、あるいは埋もれて生きていることがわかる。
 言い換えれば、管理された社会に生きる私たちには、管理された情報だけが伝えられているのである。テレビから流される情報、宣伝、ネット上の情報、まるでコマーシャルのるつぼに投げ込まれたかのような電車内、これらに私たちはあまりにも無抵抗、無防備と言えないだろうか。
 現在のコロナウイルス感染下で起きている私たちの日常は、管理された社会の一員として管理された情報によって動かされていることは、すでに述べたとおりである。

 「GDP」にがんじがらめになっているとも言える管理者たちは、現在、私たちの消費活動の後退によって生じる数値の下降を抑制するために、感染者が増加の一途をたどっているにもかかわらず、他者との接触を避けるどころか3密を生じさせる施策を次々に打ち出しているのである。

 管理された情報の元で、管理されているという自覚もないままに、管理者の意向に沿って、生きていていいのか、私たちは考えるべきときに至っている。
 多くの人が流されてくる情報を受け入れ、何かを手に入れることで、消費活動はそれによって活発化する、あるいは管理する、統制する側からの情報によって無定見に行動することで社会の安定が得られるという錯覚が常態化している国の仕組みを考えるべきときに至っている。

 巨大な経済力や国民の大きな消費、購買力に頼り、飽くなき発展を追求せずとも、住みやすい安定した安全な社会は作れるのではないだろうか。そして、管理される立場から脱出し、自立した意思とその総和による決定に基づき、経済的豊かさだけを国力の基準としない国の形を夢想してみるのも、このコロナ禍ではいいかもしれない。

 (元大学教員)

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