■ 最近の沖縄情勢を元県知事大田昌秀氏に聞く        編集部

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 オルタ編集部は1月25日に、那覇市の大田平和総合研究所で元沖縄県知事大田昌秀氏に、2時間にわたって最近の沖縄現地情勢についてお聞きした。
  編集部からは加藤宣幸・船橋成幸・竹中一雄・荒木重雄・初岡昌一郎が参加し
た。
 
◇編集部
  沖縄県民は先の名護市長選挙・県知事選挙・県議会決議などで基地の県内移設
  反対の意思を明確に表明したと思いますが、菅政権は日米合意に理解を求める
と称して閣僚をつぎつぎに訪沖させ説得しようとしています。基地の県内移設は
果たしてできるものなのでしょうか。ご意見を伺いたいと思います。

■■大田■■
  非常に難しいと思います。移設先に予定されている辺野古では、92歳のおばあ
さんや88歳のおじいさんたちを中心に15年近くも座り込んで抗議をしている人た
ちがいますからね。絶対に基地の新設は認めないと言って。抗議や抵抗のための
座り込みなんていうのは、普通は長くても2か月程度で終わるものですが、辺野
古の場合は、5か年から10年以上も続いていますので、並大抵の決意ではないか
らです。

 以前に基地建設を前提に環境調査をするため工事を受注した業者が海中にやぐ
らを組み立てたところ、反対派の自然保護団体の女性たちが海底に潜って支柱を
引き抜くなどして作業を中止に追い込んだほどですからね。
 
これに手を焼いた防衛省は、海上自衛隊の艦船を送り込んだものです。それで
もまだ一部を除いて工事は着手できないままですからね。座り込んでいる人たち
の中には80代の高齢者たちが少なからずいます。海風が吹き荒ぶ海岸での座り込
みは、体にも悪いにもかかわらず、生活を犠牲にして阻止行動をとっているので
すよ。それというのも沖縄戦の体験があるからですよ。子や孫たちに同じ苦しみ
を絶対に味わわせてはならないと。

 その上、本土ではほとんど議論にもなっていませんが、辺野古近郊の住民が基
地の新設に反対しているのは、それなりの理由があるからですよ。
 
第一に辺野古海域は、付近住民にとって一番大事な生活の源泉だからです。戦
時中から戦後の米占領下にかけて食糧難で飢餓寸前の時、イノーと称される内海
から魚を取ってやっと命をつないだだけでなく、戦後はそこで取った魚を売って
子供たちを学校へ通わせることができたからです。そんな大事な所に基地を作ら
れたらいざという時に生活を保証することができなくなります。
 
また環境問題も無視することはできません。沖縄県は、3か年程かけて沖縄全
域の環境調査をして、3つのカテゴリーに分けてそれぞれの地域を指定していま
す。すなわち「全面的に開発を認める地域」と「一部しか開発を認めない地域」
と「一切の開発を認めず現状のまま保全すべき地域」の3種です。大浦湾一帯は、
「一切の開発を認めず現状のまま保全すべき地域」の1位にランク付けされて
いるところです。そこに基地を作れば、県は自ら決めた環境保護条例や環境保全
指針に違反することになります。
 
さらにまた大浦湾一帯には経済問題も絡んでいます。本土では、実情をよく知
らないまま、沖縄の経済は基地がなければ破綻する、などと勝手に決め込んでい
る人たちが少なくありません。しかし、それは事実に反します。たしかに196
0年代の初め頃までは、基地から入る収入は、県民総所得の過半数の52%ほどを
占めていました。当時は地元から5万人余の人たちを雇用していました。

そのため米高等弁務官や一部の地元経済界首脳は、基地の存在それ自体が沖縄
にとっては一大産業だとして「基地産業論」を公然と唱えていました。ところ
が、1972年の沖縄の日本復帰時点になると、基地収入は県民総所得の15%に
激減したほか、基地従業員の数も2万人足らずとなりました。それが現在では基
地収入は県民総所得の4・6%で、多いときでも5・4%程度です。基地従業員
の数も9004人に減っています。

 では何で経済を支えているかといえば、観光産業です。それもエコ・ツーリズ
ムが中心となっていて、大浦湾一帯は殊の外自然がきれいなだけでなく、ジュゴ
ンなど絶滅危惧種の生物なども生息していて、エコ・ツーリズムのメッカとなっ
ています。そこに基地を作られたら経済的にも大きな打撃を受けかねません。こ
のようないくつもの理由があって已むにやまれぬ気持ちで沖縄の人たちは、阻止
行動に立ち上っているのです。
 
ところが、本土ではそうした実情について知りもしないまま、ただ政府が決め
たとおり辺野古に移設さえすれば、万事上手くゆくといった話で終わってしま
う。つまり辺野古に新設される基地の中味についての議論がまるでなされていな
いのです。

 日米両政府の当初の発表では、辺野古に建設予定の基地は、建設期間は、5年
から7年位、建設費用は、約5000億円と発表していました。しかし、米議会
の会計検査院は、建設期間は少なくとも10年はかかる。その上、最新式のMV22
オスプレーを二十数機配備するので、それが安全に運用できるための演習が必要
なので実際に使用できるまでには少なくとも十数年はかかると公表しているので
す。

しかも日米両国の軍事専門家たちは、基地の大きさは関西新空港並みになる
し、建設費用も1兆円から1兆5000億円もかかると推測しています。あまつ
さえ、現在は、2週間に1度ヘリコプターを洗浄しているけれど、海上に基地を
作ったら演習する度毎に洗浄しなければならない。ヘリコプター1機を洗浄する
のに約4トン程の真水が必要だが、沖縄は年中水不足で困っているのにヘリ洗浄
に要する数百トンの真水をどこから持ってこれるか、と疑問を呈しているしまつ
です。
 
在沖米海兵隊の元砲兵隊中隊長のロバート・ハミルトン氏は、辺野古基地は、
日米安全保障問題とは何の関係もなく日本国内の経済・政治問題でしかない、と
言明しています。その上、普天間基地のトーマス・キング副司令官は、辺野古に
作る基地は、普天間基地の代替施設ではなく20%基地機能を強化した基地にす
る、そのため現在の年間の維持費約280万ドルが新基地では約2億ドルにはね
上がるが、それを日本側に負担してもらうと述べているありさまです。

 それどころか、国防総省の報告書によれば新設の基地は運用年数40年、耐用年
数200年になる基地にする、というのです。これでは、文字通り在沖米軍基地
の固定化、恒久化であり、県民にとっては、未来永劫、基地との共生を強いられ
ることになり、たまったものではありません。
 
ところで、日米両政府は、普天間基地は、街のど真中にあって危険だから、よ
り人口の少ない辺野古に移すと危険が防げると折にふれて強調しています。これ
に対し地元の主婦たちは、人間の命は平等ではないのか。都会の人命は大事で地
方の人たちの人命は軽く見ているのか、基地が都会で危険なら地方でも同様に危
険だ。なぜなら基地のあるところでは事件・事故は防ぎようがないから、と主張
しているのです。たしかにそのとおりで、それには言葉の返しようがないのです。
 
事実、1972年に沖縄が日本に復帰してからでも、すでに基地から派生する
事件事故は6000件近くも起きています。政府は口を開けば、日米安保条約は
「国民の生命・財産を守るため国益に適う」とか「アジア・太平洋地域の平和と
安全を維持するために不可欠だ」などと言う。ところが国益な筈の日米安保条約
に基づく基地負担は本土のどこも分かち持とうとはしない。こうして、米軍基地
は沖縄の人々の反対意思を無視して一方的に沖縄に押し付けられているのです。
これでは日米安保条約は、沖縄を手段にし、犠牲にして成り立っているようなも
のです。
 
その結果、沖縄の人々は、生命財産を守ってもらうどころか、夜となく昼とな
く人間の受忍の限度を超える爆音に晒され、日常的に生命の危険に脅えて暮らす
外はないのです。その上、財産権の侵害にも泣き寝入りを余儀なくされているの
が実情です。 こうした実情を、見れども見えずと対岸の火事視しているのが本
土の政治家であり、大手のマスコミではないでしょうか。

◇編集部
  知事の権限といえば、大田さんは知事時代に毎年アメリカに出かけられ、国防
総省(ペンタゴン)・国務省・議会・シンクタンクなど米国側要人に直接沖縄基
地の実情を説明され、返還要求を随分強く働きかけられてきたと聞いております
が。

■■大田■■
  おっしゃるとおり、私が県にいたときは、毎年アメリカへ通い続けて基地問題
の解決について要請しました。おそらく他の都道府県の知事と私たちとの基本的
な違いは、私たちが十代の人生で最も多感な時に自ら銃を執って戦場に出た実体
験を持っていることだと思います。そして私は、自分の目の前で多くの恩師や学
友たちが非業の死を遂げるのを見てきました。私のクラスメートは125人いま
したが生き残れたのは40人そこそこでしかありません。

その事実が戦後、軍事基地に対する私の言動をずっと律してきたように思いま
す。本土のマスコミは、1995年9月に起きた少女暴行事件以降、私が基地に
反対するようになったと報じましたが、それは事実ではありません。同年2月に
ジョセフ・ナイ米国防次官補が「東アジア戦略報告」を発表、今後30年から50年
以上にわたって東アジアに米軍10万人体制を維持する旨、公言しました。そのた
め、私は、在沖米軍基地がいつまでも固定化される恐れがあるとして、それ以
後、沖縄には一切基地を受け入れるべきではない、と決意したのでした。

そしてすぐに「基地返還アクション・プログラム」を策定して翌96年1月に
公表しました。すなわち2001年までに一番返し易い所から10の基地を返して
ほしい。ついで2010年までに14の基地、さらに2015年までには嘉手納飛
行場を含め残りの17の基地を全部返してほしい、というものでした。それができ
たら2015年には、沖縄は「基地のない平和な社会」を取り戻せると考えたの
です。
 
では何故、2015年をすべての基地返還のターゲットにしたか、と言います
と当時、アメリカでは『2015年の世界情勢』(2015 : The Global Trend)
といった2015年を一区切りの目標に設定した未来予測の本が何種類かでてい
たのでそれに準じたわけです。ちなみにそれらの著作によると、各種の資料を分
析した結果、2015年までには朝鮮半島や台湾海峡の問題もほぼ落ち着いてい
るだろうから在沖米軍も必要なくなると予測されていたからです。
 
こうして私たちは、この県が策定した「基地返還行動計画」を日米両政府の正
式の政策にして欲しいと強く要請しました。すると、96年4月の日米両政府首
脳の会談を前にして当時の橋本龍太郎総理から私のところへ最優先に返してほし
い所はどこか、と問い合わせがありました。そこで私はすぐに「普天間です」と
応じました。普天間は周りに幼稚園から大学に至るまで16の学校がある他、病院
や公共施設などがあって自他共に「世界一危険な飛行場」と称していました。当
の普天間基地の海兵隊員たちでさえ、何時事件・事故が起きてもおかしくないと
の観点から「時限爆弾」と呼んでいたほどだったからです。

 事実、宜野湾市役所によると、普天間基地所属のヘリ部隊は、過去30年間に15
件の墜落事故を起こし、米兵の死者・行方不明者43人、負傷者14人を出していま
す。また2004年8月13日には、同基地所属のCH53D大型ヘリが隣接する沖
縄国際大学(学生数5700人)の本館ビルに墜落、炎上して3人のパイロット
が重軽傷を負っただけで、奇跡的に民間人の犠牲は免れました。その前年11月に
空から同基地を視察したドナルド・H・ラムズフェルド米国防長官は、「事故が
起こらない方が不思議だ。3~4年以内に閉鎖しなさい」と部下に指示した、と
報じられたほどです。
 
ところで、96年4月、橋本総理は、ウォルター・F・モンデール米駐日大使
と普天間飛行場の返還について合意した旨、私の方へじかに電話をして来られま
した。その結果、沖縄県が2001年までに10の基地を返してほしいと要望した
のに対し、普天間を加えて11の基地を返すことに日米双方が合意しました。その
ため私たちは大いに喜んだのですが、随分後になって11の基地を返すけれども、
その中の10までが県内に移設されると分かり、県としてはそれは到底容認できな
いと拒否するに至ったのです。

普天間飛行場についても当初は、移設の話はなく、後に移設計画が表面化した
時点でも辺野古と特定されずに沖縄本島の東海岸と抽象的な発表がなされただけ
でした。これが、そもそも「普天間問題」の始まりとなったのです。

 そこで私は、任期中、毎年アメリカへ通いウィリアム・J・ペリー国防長官や
リチャード・L・アーミテージ元国防次官補らの他、国務省の高官や海兵隊のカ
ール・E・マンディ総司令官らとお会いして沖縄の実情を説明し、基地の返還を
要請し続けたのです。

それに対しアメリカでは、マイケル・J・マンスフィールド元駐日大使やJ・
ウィリアム・フルブライト上院議員、マイケル・H・アマコスト元駐日大使らの
他、ハワイ選出のダニエル・イノウエ上院議員、パッツィー・ミンク下院議員、
同じくニール・アバクロンビー下院議員らに加えて太平洋区域司令部のスミス副
司令官(海軍提督)及び国防情報センターのジーン・ラロック所長(元海軍少
将)や基地閉鎖統合委員会のジェームズ・クーター委員長らがとても厚意的に面
会に応じ何かと力を貸してくれました。
 
さらにまた日本政策研究所を主宰したチャルマーズ・ジョンソン教授(最近死
去された)やオーストラリア国立大学のガバン・マコーマック名誉教授、イギリ
スのシェフィールド大学アジア研究所のグレン・フック所長らに加えてニューア
メリカ・ファウンデーションのスティーブ・クレマンソ副所長、ケイトー研究所
のダグ・バンドー上級研究員ら、著名なシンクタンクの軍事専門家たちが、沖縄
問題に深い理解を示し、多くの論文を発表するなどして大いに私たちを支援して
くれました。

 それに反し日本政府の高級官僚らは外交は国の専権事項だなどと言って冷淡そ
のもの、歴代駐米大使も当方の要望を米側に伝えるのでなく米政府側の意向を当
事者の沖縄側に受け入れさせるのに汲々たる情けない有様でした。そんな事情も
あって私たちは、たんに基地返還を要望するだけでなく、県としても基地の実情
に即して独自に解決策を模索することになりました。何回目かの渡米の時、ペン
タゴンに寄っての帰途、私を案内していた若い国防総省の職員が、さりげなくグ
アムへ寄ってみたら、とヒントを与えてくれました。
 
米連邦議会には、グアム選出のロバート・A・アンダーウッド氏という下院議
員がいました。彼にはいまだ議決権は与えられていなかったけれどもその他の面
では他の議員と何ら変わることなく活動できる立場にありました。私は早速彼の
事務所を訪ねていろいろとグアムの実情について話を聞きました。

そのさい彼は、一度グアムに立ち寄ってみたらと誘ってくれましたので、私は
訪米の帰りにグアムに立ち寄り、ジョセフ・F・アダ知事やそのスタッフらと会
うことができました。幸いにグアムには沖縄県人が少なからずいて県人会も組織
されていて大いに激励されました。グアムにはアンダセンという飛行場があり、
私は自らそこを視察したりしました。

そこは、嘉手納の4倍、普天間の13倍もある巨大なもので、もともとB52の基
地だったのが、B52が残らず米本土に引き揚げてガラ空きの状態でした。それと
は別にグアムにはアプラ湾という海軍基地もありましたが、米軍の世界的な再編
によって閉鎖されたためグアムの経済は非常な苦境に陥っているとのことでした。

 私たちは、在沖米軍基地の削減・撤去については、基地から派生するもろもろ
の痛みを他所に移したくはない、との思いから本土他府県に基地を移せとは、当
初は一切主張しませんでした。基地問題の本質的解決は、米軍が米本国に引き揚
げてもらうことだと考えていたからです。沖縄には、「他人に痛みつけられても
眠ることはできるが、他人を痛みつけては眠ることはできない」という言い伝え
があります。

そのような歴史的背景もあって、私は、(グアムの住民が反対さえしなけれ
ば)との条件をつけて、在沖米海兵隊の一部、とりわけ普天間基地の海兵隊を米
自治領のグアムに引き取ってもらえないか、とグアム政府首脳に打診してみまし
た。すると彼らは経済的苦境を克服するため「歓迎したい」と言ってくれまし
た。そこで私は、アンダーウッド下院議員を沖縄にお招きして普天間基地をはじ
め基地の実情を見てもらいました。

 すると、グアム政府首脳は、話し合った結果、インフラの整備の問題があるの
で、最初は3500人だけを引き受けたいと数字をあげて言ってきました。当時
普天間には全部で2500人位しか兵員はいなかったので、私は普天間の海兵隊
員は全員引き取って貰えると胸をなで下ろしたのでした。
 
ところがその後、この問題は意外な展開となりました。アンダーウッド議員か
ら、3500人の在沖米海兵隊をグアムに受け入れると決めたことにたいし他所
から文句が出て(本人はどこからとは明言しなかった)困っているので、当分数
字の話はそっとしておこうとの提案がありました。そこで私はいかなる意味でも
相手を困らせる積りはなかったので、即座に応諾しました。その結果、普天間問
題は宙に浮く形となっていました。

グアムも戦時中、沖縄と同じように住民が旧日本軍によって大変悲惨な憂き目
に会ったことを知っていたので私は、その後、あえて催促することはしませんで
した。グアムでは先住民のチャモロ族とグアム政府との関係が必ずしも良好とは
いえなかったので、チャモロ族が基地問題についてどう考えているかが気がかり
でした。はからずもグアム政府からの帰途、約100人ほどの先住民らしき人た
ちが赤鉢巻をして丸く輪になって座り込んでいるのに出会いました。

私はそのリーダーに会って座り込んでいる理由を聞いてみました。すると彼
は、グアム政府が彼らの土地を取り上げてその代金を払っていないので抗議の座
り込みだと語ってくれました。そこで私は、グアム政府が沖縄の米軍基地をグア
ムに受け入れたいと言っているけど、どう思うかと訊いてみました。すると彼
は、金さえ払ってくれたら別に異議はない、と言うのでホッとしたものです。
 
ところで宙ぶらりんの形になっていた在沖米海兵隊のグアム移転問題は、ほぼ
11年ぶりに息を吹き返す格好となりました。すなわち2006年5月に日米間で
「再編実施に関するロードマップ(道程表)」が合意され、それに基づいて在沖
米海兵隊の中から8000人の兵員(米側の記録には8600人とある)とその
家族9000人を2014年までにグアムに移すことが決定されたのです。

それどころか、その2か月後にハワイに司令部を置く米太平洋軍が海軍省と話
し合い、独自に「グアム統合軍事開発計画」を発表、グアムに沖縄基地に匹敵す
る一大軍事拠点を構築する旨、明らかにしました。しかも同計画に基づき、早く
も同年12月にはグアムと北マリアナ連邦のテニアン島の8000頁余に及ぶ膨大
な環境影響評価報告書を公表してグアム住民の意見を徴すべく公告縦覧に付す手
際の良さでした。

ちなみに同報告書を見ると、在沖米海兵隊のほとんどがグアムへ移ることが示
唆されていることが判明しました。そのことは、元桜美林大学教授の吉田健正氏
が『沖縄の海兵隊はグアムへ行く』という著作で詳述しているとおりです。した
がって辺野古に基地を新設する必要は全くない、というのが私などの率直な考え
です。

 では、肝心のグアムの現状は、どうなっているのでしょうか。むろんグアムに
も沖縄同様に基地に反対する人たちも少なくありません。基地の拡大によって人
口が急増するにもかかわらず水道や電気、道路、病院、学校などのインフラの整
備がそれに追い付かない、といったことが問題視され、議論の的になっているか
らです。
 
また文化遺産として先住民が大事にしている歴史上最初の集落跡に米軍が実弾
射撃演習場を2つも作ろうとする計画などもあって反発を買っています。こうし
た事情もあって、本土の『朝日新聞』や『毎日新聞』などは、グアムの人々が在
沖米海兵隊の受け入れに強硬に反対している旨を強調する形で報じています。
 
しかし、グアムの『デイリー・パシフィック・ニューズ』紙は、総じてグアム
政府首脳は苦境の経済発展を図るため在沖米海兵隊の受け入れに賛同している旨
報じています。一方、米軍はグアム住民の賛否いかんにかかわらず既定の「グ
アム統合軍事開発計画」に基づいて予算を組み着々とインフラの整備にとりかか
っています。

それに危機感をもつ何人かのグアムの女性が沖縄にやってきて地元の反基地運
動をしている女性たちと連帯してグアムの軍事化に反対しています。たまたま3
か月程前に沖縄を訪れていたグアムのフェリックス・カマチョ知事にそのことに
ついて意見を訊いたら、「それはわれわれの内政問題だから他所の人が気にする
ことはない」との返事でした(知事はその後交替した)。

 ともあれグアムでは賛否両論が渦巻く中で米軍は2006年の合意に加えて米
太平洋軍独自の一大軍事拠点化計画を踏まえ、沖縄からの移設に備えて工事を進
めているので、普天間問題の最短最善の解決方法は、政府がこうした米軍の意向
に沿って、さらにはグアムの軍事基地化に伴う急激な人口増加などにも配慮して
インフラの整備に資金を提供することだ、と思います。

ただ懸念があるとすれば、アメリカの財政がかつてなく厳しい状況に陥ってい
て、議会では大幅な軍事予算の削減が議論の的になっているので、果たして当初
計画通り予算の手当ができるか否かという問題があります。

 グアムへの移転が望ましいのは、少なくともグアムは、連邦議会に代表者を送
っているので、グアム住民の賛否いずれかの世論を代弁することは可能だと思わ
れるからです。(もっとも沖縄同様に議会では、マイノリティの声として多数派
から無視されるかも知れませんが…)
 
ではグアムへの移転を着々と進めていながら何故に米軍は辺野古に執着するの
でしょうか。それは一つには、海兵隊の一部が辺野古に留まれば、日本政府から
の思いやり予算が期待できるだけでなく沖縄では熟練した労働者が簡単に得られ
るから基地の維持が他に較べきわめて容易だからです。

 その上、辺野古基地の新設については、じつは一般には知られていない裏の事
情があります。 在沖米軍の主要な基地は、那覇軍港や普天間飛行場、浦添市の
キャンプキンザーなど、嘉手納以南の最も人口が稠密で便利な本島中・南部に集
中しています。そのため基地から派生する油漏れなどの公害をめぐって米軍と地
域住民との間でいざこざが絶えませんでした。

それでも1972年に沖縄が日本へ復帰するまでは、米軍は核兵器から生物化
学兵器に至るまで自由勝手に沖縄に持ち込んでいました。沖縄には日本国憲法も
アメリカ憲法も適用されていなかったので自由に振舞えたわけです。ところが
1969年に沖縄本島北部の久志村の米軍弾薬庫で毒ガスが漏れて二十数名の米
兵が入院する事故が起きました。それをアメリカの『ウォール・ストリート・
ジャーナル』紙が暴露したため大騒ぎとなり、怒った沖縄住民が核兵器や毒ガス
兵器の即時撤去を求める運動を展開しました。

その結果翌70年に米軍は、「レッド・ハット作戦」と称してそれらの兵器を
太平洋上の米軍が管理するジョンストン島へ移送したのですが、全部移送したか
どうかは政府でも県でも確認できた者はいないので、世論調査をすると今でも沖
縄には核兵器があると考えている人たちが6、7割を占めています。

 このような背景もあって、沖縄の日本復帰が近付くにつれて住民の反基地闘争
が復帰運動との相乗効果もあって勢いを増すようになりました。すると、あたか
もこうした情勢を予見していたかのように1960年代初めに赴任したアメリカ
のエドウィン・O・ライシャワー駐日大使が復帰前にさまざまな画策をしていた
ことが米国立公文書館の解禁になった記録から判明しています。
 
すなわち、つとに1962年の時点でライシャワー大使は、沖縄の日本復帰が
実現して、日本国憲法が沖縄にも適用されるようになると、嘉手納以南の主要基
地の運用が困難になると危惧していました。そのため嘉手納以南の都市地域にあ
る主要基地を一まとめにしてどこかに集約する案を在沖米軍と模索し始めていま
した。

そして1965年頃から水面下で復帰の話が進展すると、秘かにアメリカのゼ
ネコンに委託して、八重山群島のいりおもて西表島などを含め沖縄全域を調査さ
せて基地を集約するのに相応しいいくつかの候補地を選択させました。そのあげ
く、翌66年には、風向きや海域の水深など巨大基地の建設に適合するあらゆる
要素を検討した上で、最終的に大浦湾一帯を最適地に選択したのでした。

 そしてアメリカのゼネコンのダニエル・マン・ジョーンスン&メンデンホール
社に委託して集約基地の具体的図面まで描かせていました。同計画によると、キ
ャンプ・シュワブ沿岸に海兵隊の飛行場を設置するとともに隣接する水深30メー
トルの港湾には海軍の航空母艦用の埠頭を設置する上、対岸には陸軍の弾薬庫と
桟橋を設け、陸からも海からも自由に爆弾が積めるような計画となっていました
(現在、普天間では民間住宅地が近接しているため、爆弾は積めなくて嘉手納で
積んでいる)。
 
ちなみに普天間飛行場の代替飛行場については、具体的に滑走路の詳細な図面
なども仕上がっていました。しかし、当時はベトナム戦争の最中で米軍部は巨額
の軍事費を費消した上、折からドルの下落なども重なって財政上計画を実現する
ことが困難に陥っていました。その上、当時は沖縄にはまだ日米安全保障条約は
適用されていなかったので米軍は、基地の移設費から建設費、維持費に至るまで
すべて自己負担しなければなりませんでした。そのため折角練り上げた計画を保
留せざるをえなくなりました。

 一方、ライシャワー大使が懸念した復帰後の基地の自由使用については、日米
両政府が密約を結んで復帰後もそれまで同様に保証されることになったので、そ
の点の懸念が消えたのも当初計画を棚上げする理由となったのです。
 
しかるにそれが今45年ぶりに息を吹き返す恰好となっているのです。なぜなら
現行計画のV字型もI字型の滑走路も、かつての図面と重なるだけでなく、基地
施設の位置もほとんど同じだからです。しかも現在は沖縄にも日米安全保障条約
が適用されるようになった結果、新基地の移設費、建設費、維持費もすべて日本
国民の税金で賄うことになると言われています。

 いきおい、米軍にとって棚上げしていた往時の計画が日本側の資金負担で完成
するとなると、こんな良いことはないのです。それこそが米軍側が辺野古に執着
して止まない理由だと思われます。国民一人当たり700万円余、国として10
00兆円近くに及ぶ借金を抱えている日本政府に、1兆円から1兆5000億円
ともいわれる巨額の費用を投じてグアム移転(日本側は7000億余円負担)と
は別に辺野古への基地を新設する意味があろうとは、私などには到底理解できま
せん。にもかかわらず政府はこれまでの経緯を十分に検証もしないまま事を進め
ようとしているのです。
 
政府が沖縄住民の強い反対の意思を無視して辺野古案を強行すれば、必ずや人
命にかかわる事件・事故が起きかねず、そうなると、行政がコントロール出来な
い事態となり、沖縄を犠牲にして成り立っている日米安保体制そのものが崩壊す
る恐れがあることを警告せざるをえません。政府にぜひとも真剣に考えてほしい
点です。


  ◇編集部
  基地問題に対する本土の大手マスコミと沖縄現地二紙の報道ぶりには大きな乖
離があり、本土住民の総論賛成各論反対という世論にも、沖縄県民の感情は反発
していると思いますが。


■■大田■■
  たしかにおっしゃるとおりで、本土マスコミの報道や論評には首をかしげざる
をえません。常に表面的なことにこだわり本質的問題にタッチすることを避けて
いるように思われてなりません。その点、こと沖縄問題に関する限り、本土のマ
スコミと沖縄のそれとの間には、埋めようがないほどの心理的亀裂があるように
みています。

 私は社会学やジャーナリズムを専攻したものとして、地元新聞の投書欄にとく
に注目していますが、以前は知識人やいわゆる投書マニアといわれる人たちの投
書が多かったけれども、最近は漁民や農民など、ごく普通の一般庶民や主婦たち
の投稿が目立って増えています。しかもそれらは、過去のインテリの投書のよう
に物事を婉曲な言い回しでなく、ストレートな表現でずばり要点を突いているの
です。

とりわけ最近は、上から一方的に沖縄に過重に押し付けている基地問題や沖縄
に対する政府の不当な差別への不満の声が際立って多くなっています。とりわけ
本土側の「沖縄差別」へ抗議する意見と「沖縄の自立・独立」を志向する言論が
いわばキーワードとなって紙面に溢れています。

 昔から沖縄の人々は権力に正面から立ち向かわないで、本音を隠して体よく振
舞うなどと言われていますが、必ずしもそうとは限らないと思います。むしろ逆
に我慢の限界を超えると住民感情が一気に爆発しかねず、過去には思いもかけぬ
騒動・事件が何件も起きています。今の基地問題においても同じで、県内には怒
りのマグマが幾重にも溜まっていて、いつそれが表面化するか分かったものでは
ありません。

ですから私は折にふれ、政府関係者には、「行政がコントロール出来ないよう
な事態に県民を追い詰めないで欲しい」と言い続けているのです。その点、本土
の大手マスコミには、ぜひとも真剣にそのような事態を直視して本質的議論をし
てほしいと切に念じて止みません。

◇編集部
  お忙しい中、長時間有難うございました。(了)

(注)大田昌秀(おおた まさひで)氏略歴
   1925年沖縄県久米島に生まれる。1945年沖縄師範学校本科2年のと
き鉄血勤皇師範隊の隊員として沖縄戦に参戦。情報宣伝を任務とする千早隊に所
属する。1954年早稲田大学卒業。その後米国・シラキュース大学大学院終
了、修士号取得。その後、東京大学新聞研究所で3年間研究。1973年ハワイ
大学イースト・ウエストセンターで1年間教授・研究。1979年フルブライト
交換教授としてアリゾナ州立大学で教授。1957年~89年琉球大学教授、法
文学部長。1990年~98年(2期8年)沖縄県知事。2001年~07年参
議院議員。現在大田平和総合研究所主宰。
 
『これが沖縄戦だ』『総史沖縄戦』『沖縄のこころ』『沖縄の民衆意識』『近
代沖縄の政治構造』など共著を含め和英両文の著書80冊余。
最近著は『こんな沖縄に誰がした ~普天間移設問題―最善・最短の解決策~』
(同時代社刊・1900円)

 (編集部と大田氏との話し合いは2時間に及んだのですが、編集上の都合で社
会問題化しつつあるアメラジアン問題その他を載せることが出来ませんでしたこ
とをお詫びいたします。この原稿は編集部が録音・編集し大田平和総合研究所に
校閲して頂いたものですが、文責は編集部にあります)

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