【コラム】
『論語』のわき道(21)

竹本 泰則

 新年のカレンダーに掛け替えた。
 コロナウィルスに振り回された旧年だっただけに、いい加減に落ち着いてくれよと月並みな思いが涌く。

 現代は暦やカレンダーが身の回りにあふれている。印刷物に限らず、時計や携帯電子機器にも組み込まれていたりする。中には自作する人もいるらしい。それだけ必要とする人が多いということだろう。
 暦の必要性はその人と社会とのかかわり方や程度に比例するといえそうである。たとえば、ある程度の期間にわたって入院をしたとする。病院のベッドに寝ていて外に出られない以上、その日が何日であろうが、何曜日であろうがどうでもいいことである。先の予定も日にちを持ち出す必要はない。「明日、検査があります」、「一週間したらお風呂に入れます」などの言い方で大方は済んでしまう。

 古代ローマの最初期の暦は、春分の日に始まって冬至の日で終わっていたそうだ。つまり冬季には暦がないということ。行事や労働がなければ暦は必要ないわけだから、そんな暦も成り立ち得る。
 安気な年金生活をおくっていても暦はいる。医者も予約制をとるところがあるし、床屋だっていつ行っても開いているというわけではない。

 暦という文字は一回だけだが『論語』にも出てくる。さらに告朔(こくさく)という暦につながる言葉も出てくる。
 古代中国の周王朝(紀元前1023年~同255年)が盛んであったころ、毎年の暦は周王から各地の諸侯に頒布されていた。諸侯はこれを自国の宗廟に納めておき、毎月のついたち(朔)に、月が改まったことを先祖に報告し、当月分を取り出して使用していたという。告朔とはそうした儀礼であり、そこではいけにえとして羊が供えられていたという。

 しかし孔子の時代になると儀礼はすたれて形式的なものになってしまっていた。それでも、ついたちに羊が供えられるというしきたりは続いていたらしい。そのことを合理主義者である子貢(しこう)という弟子が問題にする。

  子貢、告朔の餼羊(きよう)を去らんと欲す。
  子の曰く、賜(し)や、なんじはその羊を愛(おし)む、我はその礼を愛(おし)む

    餼羊はいけにえの羊、賜は子貢の名。

 子貢が羊をいけにえとすることは廃止すべきと主張するのに対して、孔子は「お前は羊を惜しがっているが、わたしは礼の方が惜しい」と言って、儀礼がすたれることを残念がるのである。

 浅学ゆえ、この告朔という行事の目的とか意義がいまひとつ理解できていない。
 紙も印刷術もない時代であるから、決められた暦があるとしても、それを誰もが手軽に見るというわけにはいかない。一方、国や役所などは政務を進めるために共通の暦日によって統一を保つ必要がある。そのため月が変わったことを領内に周知させるための儀式だったのかもしれないと想像するだけである。
 以前のことだが、暦について少しばかりの本を読んでみた。中にはややこしい部分もあったが、思いのほか面白かった。

 中国で暦の原始的な形が現れるのは、その存在が史実と認められる最古の王朝・殷(いん;周に先立つ王朝。創建は紀元前16世紀、同1023年まで続いた)の時代だといわれている。そして、少なくとも春秋戦国時代(紀元前8世紀から同3世紀くらい)には完成度の高い太陰太陽暦が編まれていたという。ちなみに孔子は戦国時代に入る直前、春秋時代最末期の人である。

 わが国はというと、7世紀初頭まで暦はなかった。3世紀ころのわが国の様子を記述した中国の古い歴史書には「倭人(日本人)は正確な年や四季についての知識がない。春に農耕をはじめ、秋に収穫するというサイクルで、一年を認識するだけだ」といった意味の文章が見える。
 わが国は古代中国で考案された太陰太陽暦を導入し、その使用は江戸時代まで続いた。

 太陰太陽暦の太陰は「お月さま」のこと、太陽はいうまでもなく「お日さま」である。
 地球の自転周期が一日、月の満ち欠けの一巡りが一か月、地球の公転周期が一年となる。もっとも、古代の人々は「天動説」であったろうから、この表現は適当ではないかもしれないが。それはともかく、これらを時間軸とすることは生活感覚からいってまことに自然である。しかし、この三者の相性は極めて悪いという。

 新月(月の形が見えない闇夜)に当たる日がついたち。それから三日目の晩には「三日月」がのぼり、十五日目くらいには満月になる。「十五夜」だ。その後下弦の月を経て再び新月に戻る。どの月(month)であってもこの繰り返しだから、まことに分かりやすくていいのだが、月の満ち欠けが一巡するのにかかる日数は二十九日と半日だという。半日などという端数は暦に表しようがない。これは二十九日の月と三十日の月、いわゆる「小の月」、「大の月」を作ることで解決した。

 しかし月の日数が平均で二十九日半となっても、その十二か月分は354日にしかならない。一年は365日と四分の一日ほどというから、このままでは暦の一年の方が早く終わってしまい、三年もすれば暦と実際の季節との間に一か月ほどのずれが生じてしまう。このずれをいかに修正するか、その難問が立ちはだかる。
 そこで登場するのが閏月(じゅんげつ)。つまり「うるうづき」を設けて、何年かに一度、一年が十三か月という年を作って調整した。太陰太陽暦のもとでは、十三回も月給をもらえる年があったのだ(月俸制であれば、の話だが)。

 太陰太陽暦の精度を高めるのに貢献したのが二十四節気である。太陽の高度、昼夜の長さなどを不断に観測し続けた成果であろうが、すでに孔子の時代には冬至・夏至、春分点・秋分点が解明されていたという。これらを春・夏・秋・冬の中心とし、四季をさらに6等分して立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨…といった具合に、その時季を表すような名称を付したものが二十四節気である。これは太陽の動きと一致するものだから季節を測る基準となる。それに暦を照らし合わせながら、どの年の、どこにうるう月をおくかを決めていたようである。

 後になると、さらに細かく一つの節気を三つの候に分けた七十二候というものも考え出された。時に応じた自然現象や動植物の行動を短い言葉で表現した「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」、「半夏生(はんげ、しょうず)」の類である。
 ちなみに二十四節気の「気」と七十二候の「候」をあわせて「気候」という熟語になる。

 太陰太陽暦を作り上げるには、ほかにも幾つかの要素があるようだが、門外漢にはややこし過ぎる。何にしても、太陽の動き(地球の公転)が決める一年、月の満ち欠けによるひと月、この二つの時間軸の間にある不整合を調整し、長期的な使用に耐え、しかも実用的な暦を編成することは、想像もつかぬほどの難事であっただろう。
 古代中国では、皇帝直属の役所において天体・気象の観測が行われ、暦の作成も皇帝占有の権限であった。自前で作成することができず暦を分け与えられるということは、属国になるということであった。

 暦としての精度が高まったとしても、太陰太陽暦の1年は平年で354日、潤月が入る年は380日余りとなるから、暦日は季節の基準にはならない。歴史書などでは事象の起こった「とき」を記録するのに暦日が使われているが、一般のくらし、とりわけ農業などの分野では暦そのものではなく二十四節気、七十二候の方が役立ったのかもしれない。
 現代中国の人々にとって重要な休日である清明節も二十四節気が由来である。わが国の祭りやしきたりなどでも二十四節気が基準となっているものが珍しくない。
 ついでながら、二十四節気は2016年11月にユネスコの世界無形文化遺産に登録されている。

 わが国は1873(明治6)年に太陽暦を導入し、それまでの太陽太陰暦は明治5年12月2日で終わる。
 現在、我が国を含め世界的に広く使われているグレゴリオ暦も1年は地球が太陽の周りを公転する期間である。基本的には1年の日数を365日とし、これを12か月に分ける。この暦でも季節とのずれは起こる。ほぼ4年に1回はうるう年を設けることもその故だが、国民の祝日である春分の日、秋分の日も年によって日にちが動く。このため、この二つは国民の祝日を定めた法律においても日にちは決まっていない。その日にちが公式に確定するのは、前年2月初めの官報(国立天文台の発表)によってである。

 冬と春との季節の分かれ目である節分はこれまで2月3日が長く続いたが、2021年は2月2日だそうである。2月3日が動くのは37年ぶりとのことであり、今後しばらくはうるう年の翌年の節分は2月2日になるという。
 動くといっても高が一日二日程度のこと、大したことではなかろうが、うっかり間違え一日遅れで「鬼は外」と声を張り上げれば、ご近所から「三日の豆」と笑われるかもしれない。

 (「随想を書く会」メンバー)

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