■ 【横丁茶話】
春は馬鹿になって: 母語と外国語 西村 徹
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Amazon で買いものをすると、セールスメールが来るようになる。釣られて買
ってしまうこともあるが、見るだけで気晴らしになることもある。広告はたのし
い。週刊誌の広告は中身よりおもしろい。「選択」という雑誌の広告など残らず
読む。さて Amazon のメールのひとつは Philip Pullman の The Ruby in the
Smoke (Sally Lockhart) という小説の紹介だった。内容紹介はこんな風だ。
Soon after Sally Lockhart's father drowns at sea, she receives an
anonymous letter. The dire warning it contains makes a man died fear at
her feet.
サリー・ロックハートの父親が洋上で溺死して間もなく、サリーは匿名の手紙
を受け取る。手紙に記された凶々しい警告が一人の男を・・・???
makes a man died fear at her feet・・・??? いったいどうなっている
のか・・・??? makes a man dieなのか? それとも makes a man dead ・・・
? いや、fear も宙に浮いている。
英語話者ならば、あるいは英語の達人ならば、文脈のエネルギーが意識中枢を
貫いて強力に働き、ほとんど自動強制的に軌道修正してしまうのだろう。自然科
学の世界でも時空の大小無限については uniformity assumption(斉一性の仮
定)に立って未知の領域を推理推定するらしい。extrapolation(外挿)とか
interpolation(内挿)とかするらしい。
シャーロック・ホームズなどもそうだし、囲碁や将棋の世界もそうだろうと思う。
しかし推理だから、名手名人であればよいが暴走すると悲惨なことにもなる。原
発の事故は想定外だったし、裁判などでも証拠もないのに「推認」してしまうト
ンデモ判事があらわれたりする。
日本語の新聞記事などでも、時々ヘンな文章があって推定を必要とすることが
ある。新聞は演出効果を狙って、わざとヘンな言葉をそのままにすることもある。
松井という現職の大阪府知事が「シャコイ」という言葉を使うのを、朝日新聞は
そのまま報じていた。「シャコイ」というのが日本語であるのかどうかも分らな
かったので、その意味を朝日新聞大阪本社に問い合わせたところ、「社内でもそ
の意味を知る者は1人もいないが、知事が頻繁に発するので松井氏のたたずまい
をつたえるために、わざとそのまま記事にした」らしい。新聞もなかなか味なこ
とをするものだ。
そんな仕掛けを知らなかったとしても、それはそれで、日本語だから言わんと
するところはなんとなく分ってしまう。だから英語についても、アタマのいい人
なら日本人でも英語話者並みの類推が出来るのかもしれない。悲しいかな私のア
タマも英語力も、その水準に届かない。ここで固まってしまう。アタマまっしろ、
目がテンになってしまう。しかし暴走して想定外のトンチンカンになっても困る
ので、困ったときは達人に訊くにかぎるということになる。
昔は同僚に私より3歳(?)くらい若い、無類の多言語達人がいたので重宝し
た。幼年学校ではロシア語がずば抜けてできるのでロスケという渾名だったとい
う。ヨーロッパの言語はサンスクリットに帰納すると分りいいみたいなことを言
っていた。
ヤン・コットの『シェークスピアはわれらの同時代人』を翻訳するとき、共訳者
がフランス語版でテキストを読んでいる間にポーランド語を(ロシア語と近いか
らでもあるが)マスターしてしまい、仕上げ段階に彼がポーランド語原典と照合
した。その人は50歳の若さで胃ガンになって死んだ(合掌)ので、その後は同
僚のイギリス人に訊くことにしている。今度もそうした。今サバティカルでマレ
ーシアにいるが、電子メールはありがたい。直ぐさまこんな返事が来た。
「Amazon のページで確認した。"died" は "die" の文法ミス。"at her feet"
もヘンだ。"drop dead at her feet" とすべきだろう。なぜなら an action の
叙述だから。"died" はダメだ。この文章は急いで書いて校正などして
ないのだろう。こんなこと Amazon にはよくある」
なんだ。単純に die の誤りだったのか。そうと決まれば fear に前置詞だの前
置詞句だのがあって欲しいという気すらなくなる。メールもfearにはまったく触
れていない。新聞のタイトルを読むような気分で fear は分ってしまうからだろ
う。a man と言った時点で書き手の意識から直前の makes は霧のように消えて、
a man が主語の座を占めたというわけだ。
将棋でコンピュータが名人に勝ったというニュースがあった。負けた名人は、
園遊会で、日の丸、君が代の宣伝実績を天皇に売り込んで、あべこべに天皇から
「強制してはいけませんよ」と、たしなめられた、札付きの東京都教育委員だっ
たことをおぼえている。
札付き名人より上のコンピュータなら、文章のこういう難局も乗り切るのではな
いか。検索でスペルを間違えても正しいスペルにしてくれる。「もしかして」な
どと新たな選択肢を示唆したりしてくれる。「もしかして」と思って Google 翻
訳をはじめて試みることにした。瞬時に現れたのがこれ:
【すぐに海でサリーの父溺れた後で、彼女は匿名の手紙を受け取ります。それに
含まれる悲惨な警告は、男は彼女の足元に不安が死亡したことができます。】
これは想定外ではなかったが期待はずれではあった。コンピュータも翻訳では
将棋の場合ほど進化していないらしい。相変わらずの要素還元主義で、まだ達人
の脳には及んでいないようだ。原文の she receives の receives は、「もしか
して received では」と助言してくれている。ご親切様だが、それなら died も、
「もしかして die では」としてくれればよさそうに思うが、それはしない。後
続部分との整合性が失われるからだろうか。
ただ、おもしろいのは、Google は、この原文の流暢な朗読を聞かせてくれる。
のみならず、この不思議な翻訳日本文をも、訛りのない東京弁発音で聞かせてく
れる。こんなこともできるのにこんなこともできない。ちょっと奇妙な気持ちに
なる。
「100分でわかる名著」という番組で、ブッダの「空」を解説するのに関連
して、認知脳科学の藤田一郎という学者が円と正三角形が重なったような図を見
せて、こんなことを言っていたのを覚えている。実際は重なる部分の線は描かれ
ていないから、円も三角も完全な形では存在しないのに、繋がっていない線と線
との間に、存在しないはずの線分を、人間の脳は認知して三角形の像を完成する、
つまり内挿する脳の働きを語っていた。ここはその逆で makes a man と、本来
繋がっているものを、文法から自由な英語話者は切断してしまっているわけだ。
それにしても die は action の表現には不適切で at her feet と結ぶには
drop dead がいいとは。言われれば後知恵で、なるほどと思いはするが、なかな
かすんなりそういう理屈が思い浮かぶわけにはいかない気がする。英語が禁止言
語であった狂気と暗黒の時代に陰惨な青春前期を過ごした、英語話者ならぬ英語
唖者世代には容易でない。
結局、自分の未熟さがありありとわかった次第を延々綴ることになったが、そ
れはそれ。逆に、makes a man die fear at her feet のようなエーゴを、どん
と開き直って使うことによって、“you know, you know, I mean”と相手に畳み
かけて英語覇権主義の横暴に立ち向かうべきかとも思う。要するにそれも一種の
ブリコラージュなのではないか。なにしろ“If it ain’t broke, don’t fix it.”
(壊れていなければいじらないほうがい)のような英語がまかり通るのだ
から。
そして、おそらく大正末年生まれから昭和初期生まれ数年の間を知のどん底世
代だと規定して(実際それはまったくそれに違いないと私は確信する)、その後
は知的、文化的、体型的に急上昇しているだろうから、そして今や政治家、官僚、
その他、その他、アメリカ帰りがわんさと溢れているのだから、様子はすっかり
違うのかもしれない。
しかしいまだに日本人の英語力は世界でビリだという。やはり「100分でわ
かる名著」で、新渡戸稲造の「武士道」を取上げたとき、明石康氏が言っていた
から間違いなかろう。覇権言語が中国語に変わるまではまだ大分先が遠い。『春
は馬車に乗って』ではなく「春は馬鹿になって」老人はあらぬことを妄想するの
である。 (2012/05/07)
(筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)
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