【コラム】大原雄の『流儀』

映画批評・いま、ふたつの人生を記録する

大原 雄


・竹藤恵一郎監督作品『涙の数だけ笑おうよ』/蔦哲一朗監督作品『蔦監督』

 試写会で、竹藤恵一郎監督作品『涙の数だけ笑おうよ』と蔦哲一朗監督作品『蔦監督』をそれぞれ観た。連載コラム「大原雄の『流儀』」としては、久しぶりの映画批評だ。ふたつともドキュメンタリー映画なので、合わせて批評を書くことにした。蔦哲一朗監督作品『蔦監督』は、既に全国各地で自主上演を展開している。竹藤恵一郎監督作品『涙の数だけ笑おうよ』は、9月3日から東京の角川シネマ新宿1ほかで全国公開が始まった。

★蔦哲一朗監督作品『蔦監督』は、「高校野球を変えた男の真実」というサブタイトルが付いているように、1971年夏の初出場から1991年夏まで20年間、春夏の40回の大会のうち15回甲子園に出場した、徳島県立池田高校の野球部を率いた蔦文也監督(野球)の人生を孫の蔦哲一朗監督(映画)が描いたものだ。

 池田高校時代の蔦文也監督の甲子園での戦績は、15回出場のうち、優勝が3回、準優勝が2回という輝かしいものだ。通算37勝している。中でも初出場から3年後の、1974年春の選抜大会には、わずか11人の選手で出場し準優勝を遂げ、「さわやかイレブン」として、池田高校、蔦文也監督、それに四国の山間部で育った選手たちを全国に知らしめた。私も覚えているが、鮮烈な印象が残った。高校野球に導入されたばかりの金属バットに注目して編み出した、打って打って打ちまくる攻めの野球。「やまびこ打線」、じっくり腰を据えて不動の姿勢で指揮をとる監督の姿から「攻めダルマ」と渾名された。高校野球は守って勝つが基本だった時代に取り入れた攻めの野球は、今の高校野球のスタイルを作った、と言われる。「打って勝つ」。タブー視されていた筋肉トレーニングを練習に取り入れた。選手の長打力を増した。ゆえに、「高校野球を変えた男」と呼ばれた。蔦文也監督の勲章だろう。

 戦前。蔦文也は同志社大学に入学し、野球部に入るが、途中で学徒出陣となる。特攻要員にさせられたが、まもなく敗戦となり、かろうじて生きて復員。プロ野球の「東急フライヤーズ」に投手として入団するも一年でクビ。1951年地元に戻って、徳島県立池田高校の教員となり、野球部の監督に就任する。

 初めて準優勝した1974年の、さらに5年後の夏の大会でも池田高校は2度目の準優勝をした。やがて、黄金期を迎え、1982年夏の大会の初優勝、83年春の選抜大会の2度目の優勝と、輝ける「連覇」も達成する。83年の夏の大会も勢いはあったものの、PL学園(桑田真澄と清原和博の時代)に準決勝で敗れ、3連覇はならなかった。3年後の1986年春の選抜大会でも3回目の優勝をしたが、6年後の1992年に監督を引退した。映画では、残されていた記録映像も含めて蔦文也監督の選手との公私にわたる生活も記録する映像に加えて、1984年生まれの孫の蔦哲一朗監督ならでは、という視点で、家庭内での「祖父としての蔦文也監督」の公私ともに赤裸々な姿も描いて行く。引退から9年後の2001年4月の病死までが描かれる。蔦文也監督、77歳であった。

 蔦哲一朗監督は、2002年東京の大学に入るために上京するまで、生前の祖父と一緒に暮らす。蔦文也監督没後、老化のため認知症になって行くキミ子夫人(蔦哲一朗監督の祖母)の姿も含めて、「老いるとは、どういうことか」という、もう一つのテーマもスクリーンから浮き彫りになってくる。池田は山間部の街らしく山坂が多い。上りにくそうに歩く老いた蔦文也監督の生前の姿。蔦哲一朗監督が撮影を開始する前の映像などは、蔦文也監督のドキュメンタリー番組を作った民放からの提供だろう。キミ子夫人は、自宅を野球部の合宿所にし、文字通り、寝食を共にして選手育成に励んだ蔦文也監督を裏側からガッチリと支える、「肝っ玉母さん」であったことが判る。そのキミ子夫人が、4年間の撮影の中で、次第に認知症の症状が進んで行くのが判る。孫の蔦哲一朗監督が柔らかい視線で祖母の「老い」を包み込む。

 蔦哲一朗監督は祖父の死後10年になる2011年からこの映画の撮影を始めたという。撮影は、主に蔦文也監督と関わりのあった当時の選手たち(高校の教え子)を始め、当時の高校の同僚、家族、親戚、地元で常連だったスナックのママ、飲み友達、学徒出陣した同志社大学時代の同級生(「特攻」仲間でもあった)などのインタビュー映像が主体となる。大酒飲みの蔦文也監督の高校教師らしからぬ振る舞いを告発する投書なども紹介する。

 インタビューに応じた人々は語る。例えば、2015年、夫の4年後に亡くなったキミ子夫人は、夫のことを「先生」と呼ぶ。大酒飲みだった蔦文也監督を探して子供たちとともに夜の街を歩いたエピソードを語る。「先生」とともに生きた人生だったことが、彼女の晩年の言動からよく判る。

 池田高校の野球部員にもなった長男は証言する。父親は父というより蔦監督だった、という。普通の「高校の先生という雰囲気では」なかった、という。「父から野球と酒を取ったら、何も残らん」「でも、酒より野球が好きだったみたいです」。野球部廃部の危機の時に断酒をしていたらしい。「野球あっての酒だった」と息子は言う。「最初に、酒に手を付けたのは戦時中の特攻隊時代に酒を覚えたのだと思います。恐怖心から逃れるためだったのだと」。戦争の負の体験を戦後の生活で変換させた。監督になって目が出るまで20年近くかかった。「なかなか野球が勝てない時の悔しい酒だったりしたのかもしれません」。池田高校と甲子園で競い合った帝京高校の監督は「ベンチにいる時とは裏腹に、ユニフォームを脱げば人を惹きつける笑顔と、独特の話術がたまらな」かった、という。「度重なる修羅場をくぐり抜け、自分自身を鍛え上げてきた人」だ、と証言する。蔦文也監督の熱烈なファンだというある作家は、「負けたときのなんともいえない姿に、えもいわれぬ魅力を感じていた」という。連覇の時代の選手たちの中には、その後、プロ野球にドラフト1位などで入団をし、活躍した選手もいる。

 高校教師としての最後の授業の映像も提供されている。やはり、蔦文也監督は、教師というより、生涯を通じて、ひとりの高校野球部「監督」であり続けた人だった。高校生の野球部員を指揮し、甲子園で全国大会を勝ち抜く。敗者復活戦のない戦い。一方、実人生では、高校教師は「失格」というか、そういう「埒」外に自由闊達に生き、大酒を飲んだ。しかし、高校野球部監督として復活した。
 テーマに即したタイトルは、「ある人生。高校野球部監督」か。

★竹藤恵一郎監督作品『涙の数だけ笑おうよ』の主人公は、落語家である。七代目橘家圓蔵の弟子として入門。1980年師匠没後は、兄弟子の先代林家三平に弟子入りするが、4ヶ月後に三平も逝去、林家こん平の弟子になる。なんとも不運な落語家は、橘家六蔵こと、後の初代林家かん平である。今月(9月)で67歳になった。

 歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』六段目の勘平は、己を「義父殺し」の下手人と早とちりをして腹切(浪人の「はらきり」。武士の作法に基づく「切腹(せっぷく)」ではない)してしまうが、落語家・かん平は、真打昇進披露で、初代林家かん平を名乗ってから5年後の1990年、先代林家三平追善興行の打ち上げの席上、脳溢血で倒れてしまう。41歳だった。主な後遺症は、言語障害と右半身不随。

 以後、療養やリハビリに励み、1年後、翌1991年、林家三平追善興行で高座復帰。以来、四半世紀、以前のような滑らかな話しぶりには及ばないものの、ゆっくりとならしゃべることができるようになった。半身不随は、映像で見ていると、下半身がほとんど動かないようである。しかも、25年の歳月は残酷にも、彼の気力体力を劣化させてしまい、高座も座布団から車椅子に余儀なくされ、得意の古典落語も一席語り終えるのは難しくなってきた。10分もしゃべると、顎が疲れてしまう、という。得意だった古典の人情噺もじっくり聞かせることができない。リハビリを老いが追い越して行く。

 かん平は、独り身、さらに寝たきりの老母の介護もしている。自身と老母の生活をヘルパーの支援を受けながら日々対応している。そういう日常生活がスクリーンに描き出される。兄弟子、芸人仲間、前座時代からの支援者が支えてくれる。決して、独りではない。高座復帰後、高校時代の同級生たちが定期的な落語会を開いてくれるようになった。古典落語が無理なら、新作落語に挑戦してみようと新ネタをこの落語会にかけることにした。映画の中で、かん平を励ますモノマネの四代目江戸家猫八は、映画の完成を待たずに今年(16年)3月に亡くなってしまう。

 心が折れそうになることもしばしばだが、かん平は辛い25年間を乗り越えてきた。最近、テレビドラマで聞いたという科白がかん平の心に灯(ひ)をともしたという。

 「頑張っていれば、きっと神様がご褒美をくれる」。

 以前からかん平と親交のあるプロデューサーがその話を聞き、かん平のこの1年を映画にすることにしたという。言葉を信じて、落語という「一つ所」で、「一所懸命」頑張るというかん平の奮闘ぶりを映像化するのは、同じような障害のある人ばかりでなく、様々な世代、様々な環境で頑張っているハンディのある人たちの共感を得るだろうという思いがプロデューサーの心を揺さぶったのだろう。

 こちらの映画も、障害者となった上で、「老いるとは、どういうことか」という課題を突きつけてくる。老化に伴い衰えゆく体力気力。己の障害ばかりでなく、老母への老々介護とも向き合わなければならない生活環境。世の中の右傾化に伴い、世間では弱者切り捨ての優生思想がナチスのように忍び寄り始めている。そういう時代だからこそ、地味だけれど、こういう映画は、少しでも多くの人たちに観てもらったほうが良い。

 映画は伝える。林家かん平は、41歳で脳溢血の発作に見舞われ半身不随になってしまった。半身不随というか、下半身不随という感じだ。さらにしゃべる商売だったのに、十分に喋ることができなくなってしまった。それでも、残された機能をリハビリで補強し、少しでも落語家として自立したいと思いながら生きてきた。

 好きなことをやり、好きな酒を飲み、高校野球を変える、という偉業を成し遂げた蔦文也監督の人生。好きなことが佳境に入るはずの年齢で発作を起こし、藝人として十全にはできていない、という思いを封じ込めながら生きている林家かん平という落語家。好きなことをして老いて逝去してしまった監督と老いの深まる中で懸命に好きな落語にすがりつこうとする噺家。このふたりの人生をたまたま、ほぼ同じような時期に試写会で映像を観たということだけで、合わせて映画批評を書いているが、ふたりとも、自分にとって大事なものと誠実に向き合い、それを自分のものにしようとしている、あるいはしてきた、という意味では、重なるものがある、というのが私の感想である。
 こちらのテーマに即したタイトルは、「ある人生。障害と闘う落語家」か。

 そして、ふたつの映画の共通タイトルは、「老いて行く中で、生きるということ」。そういえば、天皇の生前退位というご意向も、「老いて行く中で、生きる」ということを考えておられるように受け取れる。憲法問題や皇室典範改正問題に限定せずに、天皇の人権という観点も含めて、この問題は国民的に幅広く検討されるべきことなのだろう、と思う。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)


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