【コラム】
大原雄の『流儀』

映画批評『1987、ある闘いの真実』〜抗(あらが)う人たちの青春譜〜

大原 雄                      


 1987年1月、韓国は、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領による軍事政権下にあった。1979年12月、軍事クーデタ。1980年5月、非常戒厳令拡大(「5・17クーデタ」)。野党政治家連行。8月、権力掌握、第十一代大統領に就任。1980年5月、「光州(クァンジュ)事件」後に大統領に就任した全斗煥は、冷戦下、アメリカのレーガン政権の支持を背景に「北朝鮮の脅威」を言い立て、強圧な軍事独裁体制を敷き、言論の自由を封じていた。軍事政権に批判の声を上げた市民を「北の手先」「アカ」などと指弾して拘束していた。以来、6年半、全斗煥の軍事政権が続いていた。

★映画と史実

 全斗煥は、「粛軍クーデタ」で、軍部内の上官を粛清し、軍の実権掌握した上で、官僚出身の大統領を追い出し、権力の座に着いた軍人出身の大統領である。クーデタは、1979年12月12日、ともに陸軍少将だった全斗煥や盧泰愚(ノ・テウ)などが中心になって軍部内で起こした。先に暗殺された朴正煕軍事政権の継承を目指した。

 韓国では、1979年10月26日、朴正煕が暗殺された後、官僚出身の崔圭夏(チェ・ギュハ)が大統領権限臨時代行となり、金鍾泌(キム・ジョンピル)に次期大統領を要請したが固辞された。そのため崔圭夏は、79年12月8日、第十代大統領に就任したが、80年8月16日には、大統領職を辞任した。わずか8ヶ月間余りの大統領在任であった。この在任期間は、韓国の歴代大統領の中で最も短い(大統領権限臨時代行を除く)。

 就任時、両班家系の官僚大統領の崔圭夏は早期の改憲と民主化を国民に約束したものの、民主化運動が高まる中、80年5月17日、全斗煥が非常戒厳令を拡大(軍事クーデタ)し、金大中など野党の指導者を連行、逮捕した。戒厳令下の政権で、強まる軍部パワーを前に、イニシアティヴをほとんど発揮できないまま、崔圭夏は、全斗煥ら軍部の「クーデタ」を追認し、その挙句、崔圭夏は全斗煥に大統領の座を追われてしまった。

 一方、80年5月17日以降、全羅南道の光州市を中心に学生・市民らによる軍事政権反対の民衆蜂起が始まった。18日には、光州市での学生デモが、全斗煥が投入した軍隊に弾圧されたため、19日からは、市民たちもデモに合流した。この結果、民衆蜂起は、全羅南道一帯に波及した。学生・市民たちは「市民軍」を組織して軍部に抵抗した。これに対し、全斗煥が実権を握っている軍部は、21日に光州市を武力で封鎖し、光州市の民衆抗争は27日に鎮圧された。これを韓国では、「光州事件」と呼んだ。「光州事件」では、300人以上と言われる死者・行方不明者が出た、という。

 「光州事件」を鎮圧した全斗煥は、80年8月末、第十一代大統領に就任した。全斗煥は、十一代、十二代大統領として、1988月2月24日まで7年半、大統領の座に居座る。全斗煥から後継者として指名され、政権移譲されたクーデタ派の軍人出身の盧泰愚も、後に、第十三代大統領となる。任期は88年2月25日から93年2月24日まで。つまり、韓国では、80年8月から93年2月まで、12年半もの間、全斗煥・盧泰愚の軍事政権が続く。映画『1987、ある闘いの真実』(原題: 『1987』。以下、基本的に原題の『1987』を使う。2017年公開)は、こうした韓国現代史という歴史の大きなうねりを背景に、全斗煥の退陣から、同じクーデタ派軍人出身の盧泰愚への政権移譲へ、軍事政権半ばの87年1月から88年2月まで、1年余りの韓国の若者たちの姿を描いている。映画は、前半は、ドキュメンタリータッチのドラマ。後半は、ドラマタッチのドキュメンタリー。

 贅言;1980年の「光州事件」をテーマにした韓国映画では、全斗煥軍事政権の市民虐殺を取材するドイツ人ジャーナリストとそれを助ける韓国人のタクシードライバーを描いた『タクシー運転手 約束は海を越えて』(チャン・フン監督作品。2017年公開)がある。光州事件を契機に盛り上がった学生運動。翌年の1981年、全政権が学生運動を弾圧したため、それに抵抗した学生たちの冤罪事件(通称・「釜林事件」)の救援活動をした弁護士を描いた『弁護人』(ヤン・ウソク監督作品。2013年公開)がある。『弁護人』となる若き日の弁護士は、盧武鉉(ノ・ムヒョン。後の大統領)がモデルと言われる。

 映画では、「南営洞(ナミョンドン)対共分室」(当時の警察)の「所長」(脱北者ながら、警察=治安本部に入り所長にのぼりつめた)の日常が描かれる。「所長」は、軍事政権の最優先課題である北分子(北朝鮮の同調者)を徹底的に排除すべく、連日、取り調べの陣頭指揮を取っていた。こうした日々の中で、部下たちの行き過ぎた取り調べによってソウル大学の学生を警察内で「死亡」させてしまうという事件が起きた。警察は事件を隠蔽しようとする。この事件の処理を巡って、警察と検察は、反目する。さらに、軍事政権は、事件の幕引きを図るが、現場に関わった医師、検事、新聞記者、刑務所看守らが、事実を明らかにするためにそれぞれが動き出す。殺された大学生の仲間たちの学生も立ち上がる。1987年の事件は、1988年、韓国全土を巻き込む民主化闘争という事態へと展開していく。映画の時空設定の約7年前の「光州事件」が、大きなモチーフとなっていることは、言うまでもない。映画は、自由を求めて軍事政権に反旗を翻した学生や市民たちが、生命を賭して民主化運動へ突き進んだ史実を踏まえている。スクリーンには、多数の実在の人物を登場させるとともに、それに加えて設定された架空の人物もまじえて、87年から88年の1年余りの韓国の若い男女の姿を追って行く。私の小論に、「抗(あらが)う人たちの青春譜」とサブタイトルをつけた所以である。

 ところで、ジェット機で、3時間もあれば着いてしまう隣国の緊急事態を当時の日本人のうち、どれだけの人たちが認識していたであろうか。映画は、日本人の観客に、今も、改めて韓国と日本という問題を突きつけてくる。

★朴鐘哲の拷問死

 1987年1月14日、韓国・ソウル大学の学生が死んだ。朴鐘哲(パク・ジョンチョル)。1987年1月といえば、韓国は、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領による軍事政権(大統領任期は、1980年8月27日から1988月2月24日まで)下にあった。

 一人の大学生が「殺された」;朴鐘哲は、13日の深夜、あるいは14日の未明、指名手配中の大学の先輩の捜査のために、下宿先から治安本部(韓国の警察組織。1974年以降、内務部治安局から治安本部に改組され、1991年以降、 治安本部から警察庁に改編された)に連行される。

 警察の拷問;当時の「南営洞対共分室(ナミョンドン・テゴンブンシル)」(軍事政権下の韓国では、民主化運動の弾圧機構として当時は治安本部・対共分室が設置されていた。以下、「警察」と称する)での取り調べの際、朴が黙秘を続けるため、5人の警察官による殴打や電気責めなどの拷問を受ける。14日午前11時頃、水責めの果てに、朴青年は浴槽の縁で胸部を圧迫されて窒息してしまった。班長が指揮をとり、朴の服を脱がし、手足をタオルで縛った。一人が右腕を、もう一人が左腕を押さえつけた。ほかの一人が朴の両足を抱え、もう一人朴の頭を浴槽の水に数回突っ込ませた。

 往診医師の機転;なぜか、警察は病院に緊急往診の要請をした。その結果、拷問の現場に警察病院から医師が呼ばれ、この往診医師によって、朴青年の死亡が確認される。この際、警察は「水の飲み過ぎで倒れた」と虚偽の報告をした。しかし、朴が全身ずぶ濡れの下着姿で横たわり、床一面も水浸しだったことから、往診医師は警察の説明が虚偽であると見抜いた。その場で医師は、心肺蘇生術や強心剤を打つなどの措置をしたが、朴青年が回復しなかったことから、死亡診断を下した。14日午後4時頃、死亡診断書の作成を求められた医師は、変死扱いになり司法解剖されることを狙って「死因不詳」と記入した。

 警察対検察;14日午後7時頃、警察がソウル地検に「案件」の当日中の処理を要請する。しかし、検察はこれを拒否する。遺族との対面もないまま火葬することを知った検察の公安部長(検事)が直感的に拷問死を悟り、これを拒否したのだ。警察の担当者を2時間も説得をして観念させた。その上で朴の遺体の保存命令を下した。15日午前、公安部長は、司法解剖を指示する。これを知った警察の治安本部長は、検察の公安部長に「夜道に気をつけろ」などと脅迫をした、という。警察病院を懐柔し遺体を渡そうとしない治安本部長に対し、公安部長は公務執行妨害で逮捕するという意思をちらつかせて解剖に同意させる。なおも、警察病院での解剖実施を主張する治安本部長に対し、公安部長は民間病院を主張し他結果、大学病院での解剖実施となった。

 虚偽の発表;遺体を火葬し証拠隠滅を図ろうとした警察は、国立科学捜査研究所(科捜研)の解剖医に対し、解剖を行わずに所見書の偽装をしろと命じる。この時、口止め料として100万ウォンを手渡した。解剖医は一晩熟慮の末、命令に逆らうことを決意する。15日午後8時頃、別の検事の指揮で、朴青年の叔父の立会いのもと司法解剖が行われた。15日午後、当時夕刊紙だった中央日報のスクープ報道を受けて警察が記者会見をし、「朴の死因は持病による心臓発作」であると虚偽の発表をした。治安本部長は、「机をタッと叩いたらオッと叫んで死んでしまった」と、言ったという。

 スクープ;警察発表の前日、14日、死亡診断を下した往診医師は、病院のトイレで中央日報の記者に事件を知らせる。翌15日、中央日報は、「捜査中の大学生ショック死事件」としてスクープした。他紙も、後追いをする。警察の記者会見後の16日、東亜日報は、朴青年の遺体の状態(あざ・出血、水で膨れ上がった胃など)を明らかにするスクープ記事を掲載し、取り調べに当たった警察官による拷問死疑惑を訴えた。

 警察の再捜査;刑務所に収監された元警察官やその同僚との面談記録を残す刑務官、別の事件で収監されていた受刑者の活動家、現役刑務官の協力などで、朴青年の拷問死の真相が次第に外部にも伝えられ、明らかにされた。真実の持つ力に追い詰められた警察は、再捜査をしないわけにはいかなくなった。ここでも警察の上層部は、「隠蔽指示」を否定していたが、再捜査の結果、3人の警察官が改めて逮捕された。

 1988年の抗議運動;1988年1月12日、東亜日報が、解剖医の日誌を公開する記事が掲載された。15日に警察の元治安本部長が隠蔽操作などの容疑で逮捕された。野党や在野の金大中元大統領らが政権の対応を激しく批判し、警察発表に信頼性がないとして真相究明のため国政調査権発動の決議案を野党が提出するなど、事件は、国会の場へ移って行く。2月7日、全国で朴鐘哲を追悼する集会が開かれる。釜山でのデモを主導した中には、弁護士時代の盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領や文在寅(ムン・ジェイン)大統領らもおり、彼らを含む798人が連行された。その後もソウルを中心に抗議デモが続き、それ以前からの大統領直接選挙実施と改憲運動と相まって軍事政権反対の機運は、拡大していった。

 贅言;2007年、警察の旧治安本部対共保安分室(現警察庁人権センター)の一部が改修され、「朴鍾哲記念展示室」として公開された。

★李韓烈とヨニ 〜 抗(あらが)う人たちの青春譜 〜

 朴鐘哲の「死」;大学生の拷問死の真相解明。軍事政権が、取り調べ担当刑事2人の逮捕だけで事件を終わらせようとしていることに気づいた新聞記者や刑務所看守らは、真実を公表すべく奔走する。また、殺された大学生・朴青年の仲間たちも立ち上がり、事態は韓国全土を巻き込む民主化闘争へと展開していく。

 ヨニという女子大生;デモは激しさを増し、大統領選やソウルオリンピック開催を控えて政府は催涙弾や警棒などで弾圧を強める。一方、延世(ヨンセ)大学では、政治に関心がなく「デモをしても何も変わらない」と考える女子学生・ヨニが、同じ大学で民主化運動に励む学生・李韓烈(イ・ハニョル)と出会う。李の誘いで漫画研究会というサークルの集まりに参加したら、7年前、1980年5月の光州事件のビデオを見せられて衝撃を受ける。また、ヨニの叔父の現役刑務官が逮捕されたりしたこともあって、身近に迫ってきた事件に次第にめざめて行くことになる。それとともに、ヨニは、真面目に民主化運動に取り組む李韓烈への慕情を深めて行く。李韓烈とヨニ。民主化運動にきちんと正対しながら、誠実に生きた若い男女の青春秘話。

 贅言;ヨニが見たビデオは、ドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターが撮影した貴重なビデオ。ビデオのコピーが民主化運動家たちの手で出回り、韓国国内で伏せられてきた光州事件が密かに伝えられていた。この体験は、監督自身が、高校3年生の時の実話だ、という。

 ヨニの叔父の刑務官(看守);刑務所に収監された元警察官やその同僚との面談記録を残す刑務官、別の事件で収監されていた受刑者の活動家、現役刑務官の協力などで、朴青年の拷問死の真相が次第に明らかにされた。映画では、これらの人々を一人の人格に結集する形で、ヨニの叔父という架空の人物(刑務所看守)にまとめ上げて、登場させている。

 李韓烈の「死」;1987年6月9日。「拷問致死隠蔽糾弾及び憲法改正国民大会」(6月10日開催)の決起集会に参加した李韓烈が、ソウルの延世大学正門前でデモ隊に加わっていた時、李韓烈に向けて武装警察官が発射した弾で頭部を直撃された結果、一ヶ月後の7月5日に死亡する。倒れた李韓烈の瀕死の身体を後ろから抱きかかえている延世大学の同期(2年生)の学生の、この写真は、韓国の学生運動を象徴するものになった。この有名な写真は、ロイター通信のチョン・テウォンが撮影した、という。李の被弾事件は、拷問死させられた朴の事件とともに韓国の民主化運動の大きな起爆剤となり、さらに、民衆のデモ行動が全国に拡大していった。後に、「6月民衆抗争」と呼ばれるようになった。映画は、朴鐘哲の死から李韓烈の死に象徴される「6月民衆抗争」まで描かれる。

 贅言;李韓烈を殺害した武装警察官は、韓国の警察組織で、「戦闘警察巡警(せんとうけいさつじゅんけい)」と呼ばれる特殊部隊。主に北朝鮮からの潜入工作員の摘発、工作員らによって引き起こされるテロ行為に対処することを目的とする武装警察部隊。また同時に、地方警察に配備される機動隊員として、警備(「デモ整理や暴動鎮圧」など)の任務にもつく。略称「戦警」という。

 「民主化宣言」;1987年6月29日、全斗煥(チョン・ドゥファン)から後継指名を受けた民正党の盧泰愚(ノ・テウ)大統領候補(民正党代表最高委員)による「民主化宣言」という政治宣言が、発表される。翌88年のソウルオリンピックの成功を条件に、大統領直接選挙制度の導入と、金大中ら民主化運動を担った野党政治家や政治活動家の赦免・復権などを骨子とした内容であった。民主化宣言で、激しいデモは取り敢えず終息した、という。実際に87年12月に、直接投票による大統領選挙が実施された。1971年以来、17年ぶりであった。しかし、大統領選挙では、野党勢力を率いた金泳三(キム・ヨンサム)と金大中(キム・デジュン)の間で対立が表面化、金大中が、新党をつくり、選挙に立候補したため、反・軍事政権票が二つに分かれ、全斗煥の後継者である盧泰愚が優位となり、当選する結果となった。88年2月、大統領職は、全斗煥から盧泰愚へ軍事政権のまま移譲されてしまった。

 チャン・ジュナン監督の告白;革新系の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領から後、韓国では、保守系の大統領が2代続く。李明博(イ・ミョンバク)大統領(任期は、2008年2月25日から2013年2月24日まで、任期満了退職)、朴槿恵(パク・クネ)大統領(2013年2月25日から2016年12月9日まで、弾劾辞職)の二人である。保守政権下では、長らくタブー視された、1987年—1988年という時代を描く。このテーマに極秘裏に取り組んでいたチャン・ジュナン監督。ジュナン監督は「韓国の現代史にとって重要な足跡を残す1987年を次の世代に語り継ぐ」(以下、監督インタビューは、朝日新聞「GLOBE+」=2018年9月8日号=シネマニア・リポート(藤えりか)を参照し、概要を引用した)必要があると、決心した、という。チャン・ジュナン監督がこの作品を撮ろうと決めたのは、朴大統領の在任中の2015年、冬。「脚本の初稿を読み、こんな大事なことを語らずにいるなんて、と思った。朴鐘哲や李韓烈について、名前は知っていても詳しいことは判っていなかった。1980年5月の「光州事件」は、それなりに知っていたが、1987年の民主化運動は、光州事件をベースにした運動で、韓国の民主主義の歴史に大きな足跡を残したのに、余り語られてこず、もどかしく感じていた。今を生きる韓国の人たちと次世代の子どもたちに、映画を通してこの話を伝えたいと思った」と、監督は語る。映画製作がスタートしたのは、まだ、朴政権の時代だった。当時は、「表現に対する弾圧が激しく、ブラックリストが存在した時代なので、シナリオ作りは外部に漏れないよう、秘密裏に行われた、という。当時を描いた映画を作っているとバレた場合は完成すら危ぶまれるわけですから」と、危険と隣り合わせだったと打ち明けた。「このほかにも、誰かが演劇で光州事件を扱おうとすると脅迫を受け、政権幹部からも『その話はやめてほしい』と説得を受ける、といった噂がたくさんあった」と監督は語る。

 朴政権の表現への介入;チャン・ジュナン監督の発言は、続く。「朴政権は、まるで独裁体制時代に戻ったかのように文化業界を弾圧、政権に都合のいいことしか言わせようとしなくなり、歯がゆく感じていた。この作品の製作を始めた頃は、「ろうそく集会」が起きるなんて、まったく想像もできない状況だったが、政権からどんな不利益を被ることになっても、勇気を出して映画を作りたかった」。

 さらに、俳優たちの積極的な出演の申し出があり、「ありがたく、本当に奇跡のようだ。たくさんの人たちの小さな勇気が集まって大きな奇跡になるという点で、この作品のストーリーと、とても似ていると感じた」と監督は振り返る。

 贅言;「ろうそくデモ・ろうそく集会」は、2008年、韓国で行われたアメリカ産の牛肉輸入再開反対に端を発した一連のデモや集会のことである。日没後に行われ、参加者はろうそくに火を点して集まったことから、「ろうそくデモ・ろうそく集会」と呼ばれた。約100日間デモが続き、当初の牛肉輸入問題から、李明博政権の諸政策に対する批判と退陣要求へと争点が拡大した。李明博大統領は、任期満了で退職したが、次の朴槿恵大統領の時代になっても、ろうそくデモ・ろうそく集会は、国民の抗議行動として、定着していて、2016年10月から始まったろうそく集会では、大統領の知人を巡る疑惑との関わりから朴槿恵大統領弾劾・失職(2016年12月)へと、国民の運動の輪は広がり、朴大統領を任期途中で、権力の座から引き摺り下ろす力となった。そのため、2016年の「ろうそくデモ・ろうそく集会」は、「ろうそく革命」とも呼ばれる。こういうことは、今の日本では、残念ながらできないだろう。

 「大原雄の『流儀』」では、適宜、映画批評を書いているが、映画「共犯者たち」批評(「オルタ広場」2019年1月20日号掲載)で、触れたように、李、朴の保守系大統領の二人の政権下では、映画だけでなく、テレビ番組も報道・表現の自由を抑圧・制限された。この時期、KBSやMBCなどでは、解雇に追い込まれたテレビ番組制作者なども多かった。朴政権が続く限り、映画『1987、ある闘いの真実』(原題: 『1987』)は完成したかどうか判らないし、製作スタッフの身の安全もどこまで保障できたか、も判らないと思う。

 朴槿恵政権が続いていたら…;朴政権時代は、政権による弾圧を恐れて投資家も手を引き、映画作りも軌道に乗らなかった、というが、大統領絡みの汚職が発覚して以降、一転して、「向かい風が吹いてきた」、という。ジュナン監督に言わせれば、「汚職が発覚し、世の中がひっくり返ったようになり、投資家たちが次々と手を挙げてくれた。名のある多くの俳優たちも、まだ朴政権が完全に終わったわけではないのに、勇気を振り絞って参加を表明し、私と志を共にしてくれた」、という。この辺りの激変ぶりは、映画『共犯者たち』でも同様で、朴大統領の弾劾、逮捕、辞職、新しい大統領の登場は、同じ時代の空気を伝えてくれていると、評者(大原)も実感したところである。

 チャン・ジュナン監督は、インタビューのまとめで、次のようなことを語ったという。「歴史において仮定は意味がないけれど、もし朴槿恵政権が続いていたとしたら、この映画を作るのは簡単ではなかった。今よりはるかに小さな規模とするか、今より完成度が低いものになっていただろう」。

 韓国での映画公開後、チャン・ジュナン監督は、以下のような話を伝え聞いた、という。

 1987年の民主化デモに参加した女性が、娘とこの映画を観に行った、という。すると、映画を観終わった後、娘が涙を流して「お母さん、ありがとう」と言って母を抱きしめた、という。「2016年から17年に、ろうそくを手にデモに繰り出した若い世代は、1987年とまったく同じ状況ではないものの、政権に立ち向かった意味では似た経験をしている。韓国では世代間の断絶が問題になり、コミュニケーションがうまくとれていないだけに、映画を通じて世代を越えた会話が生まれ、1987年と2017年の違いを話し合うきっかけになればと思う」。

 史実(ファクト)チェック;映画『1987』のベースというか、裾野まで視野に入れて、韓国の歴代大統領の変遷をチェックすることは、大事だろう。軍事政権は、実験掌握者がはっきりしている。保守政権も、輪郭が見やすい。革新政権は、輪郭が見難(にく)い。仮に、「民主化志向」と名付けてみたが、革新から中道まで、この概念は、幅があるように思う。韓国政治に限らず、革新が統一しにくい政治状況は、日本政治でも同じだ、と思う。朴正煕から文在寅まで、韓国大統領の系譜をスケッチすると、以下のようになる。なお、大統領権限臨時代行は、除いている。

 朴正煕の軍事政権(北朝鮮を敵視する反共政権)/全斗煥・盧泰愚の軍事政権(北朝鮮を敵視する反共政権)/金泳三・金大中・盧武鉉(民主化志向)/李明博・朴槿恵の保守政権(非民主的政権)/文在寅(民主化志向)

 映画にも関係する主な史実も記録しておこう。
 朴正煕の軍事政権(反共政権)、朴の暗殺(1979年10月26日)/全斗煥、粛軍クーデタで軍部掌握(1979年12月)、大統領就任で政治の実権も握る。軍事政権継承(1980年8月)/「光州事件」、全斗煥による鎮圧(1980年5月)/朴鐘哲拷問死、「民主化運動」(6月民主抗争)の中で、李韓烈の死(1987年)/全斗煥退陣、全斗煥から盧泰愚への軍事政権(反共政権)移譲(1988年)/李明博政権下の「ろうそくデモ・ろうそく集会」(2008年)/朴槿恵政権下の「ろうそくデモ・ろうそく集会、→ ろうそく革命」、大統領弾劾・失職(2016年10月から12月)。

 李韓烈(イ・ハンニョル)とヨニ;映画『1987』は、強烈な軍事政権に反対する韓国民衆の民主化運動を記録しているが、そういう歴史の中で、生き、そして死んだ青年たちの姿も描いている。李韓烈(イ・ハンニョル)とヨニという、若い大学生のカップルの青春物語でもあるのだ。

 李韓烈(20)の死亡を受けて、1987年7月9日、「故李韓烈烈士民主国民葬」が行なわれた。ソウルの延世(ヨンセ)大学本館前を出発した参加者たちは、新村(シンチョン)ロータリーからソウル特別市の市庁舎前(6月10日開催の「拷問致死隠蔽糾弾及び憲法改正国民大会」の会場)を通り、光州広域市望月洞(マンウォルドン)にある「光州事件」犠牲者の墓地まで延々と行進を続けた。全体の参加者は、ソウル特別市で100万人、光州広域市で50万人、韓国全土では、160万人に及んだ、という。2004年6月、ソウル市の麻浦区に「李韓烈記念館」が造られ、2005年6月9日に開館した。記念館は、その後、博物館になったという。

 1987年6月9日。延世大の学生たちは政治の民主化を要求する学内デモを行っていた。 警察は、催涙弾を撃ちまくり、息が詰まるような臭い空気がキャンパス内にも立ち込めた。警察との 一進一退を繰り返していた学生たちは午後4時40分、正門前まで出てきた。警察隊が撃ち続ける催涙弾の音が、雷鳴のように辺りに鳴り響いた。学生たちの隊列が、正門から街頭へ進出しないようにと、直撃弾を撃つ警察官もいた。「白骨団」と呼ばれた「逮捕専門私服警察官」なども校門側に駆け寄ってきた。学生検挙の指示が出されたのだろう。そのうち、歌舞伎の浅黄幕のように視界を遮る催涙弾の幕のようになった煙の中で誰かが倒れた。後ろの列にいた学生が両腕でしっかりと彼の身体を抱きかかえた。警察の撃った催涙弾が直撃したのだ。彼の頭部からは、出血が続いていた。頭から顔に血が流れ、鼻からも出血していた。

 ヨニは、「後(のち)ジテ」;延世大学の新入生・ヨニ。彼女は、普通の女子大生。「そんなことで世の中が変わるの? 」と、映画の中でも、李韓烈に問いかけていた。政治に関心がなく「デモをしても何も変わらない」と思っていたのだが、サークルへの勧誘活動で再会した後、2年生の李韓烈への慕情を募らせて行く。そして、李韓烈の死後は、李韓烈に代わって、民主化運動の集会にも出て行くようになる。そして、映画のラストシーンでは、集会の壇上にすくっと立ち上がるヨニの姿が映し出される。実は、このヨニは、チャン・ジュナン監督が、映画の中で、造形した架空の人物。ということは、ヨニは、没後の李韓烈なのではないか。つまり、ヨニは、能で言うところの、「後(のち)ジテ」の役割を果たしている。李韓烈の霊、あるいは、身代わりという役どころ。そして、ヨニは民主化運動の象徴として、李韓烈の代わりに大空高く、飛翔する。

 贅言;「後ジテ」とは、能または狂言の用語。前後二場ある曲で、中入りの後(後半)に出てくるシテ方(主演者)のこと。

 映画『1987』では、当時2年生で20歳の李韓烈に新入生の彼女・ヨニがいた、という設定になっている。確かに彼に彼女がいてもおかしくはない。民主化運動に取り組みながらも、新入生相手にサークル勧誘活動にも熱心なイケメンの青年・李韓烈を映画の中で演じたのは、韓国の人気俳優、カン・ドンウォンだった。

 チャン・ジュナン監督は、脚本の草稿ができるとすぐドンウォンに見せた、という。「こうした映画に出ると朴槿恵政権から大きな不利益を被るかもしれなかったので、期待はしていなかった」が、ドンウォンは、脚本を見るなり「これは作るべき映画だ。もし迷惑でなければ、李韓烈の役を務めさせていただきたい」と言った。この時期、朴槿恵大統領の疑惑が、マスメディアでも、取りざたされていたが、「政権はまだ続くかもしれない状況だったから、とても驚いた」と、チャン・ジュナン監督は語った。

 女子大生・ヨニは、架空の人物であり、モデルがいたのかどうか、つまり、大学2年生の李韓烈に、当時彼女がいたのかどうか、判らない。ヨニは、どういう女性だったのか。もちろん資料もない。来日したチャン・ジュナン監督への朝日の記者のインタビュー記事でも、その点は触れられていない。しかし、韓国の厳しい軍事政権と闘い、政治の民主化を求めた大学生の青春に、楽しい思い出があっても良いじゃないか、と私は思う。もし、李韓烈とヨニのカップルが、30年後のソウルで、若いままの学生で、ろうそくデモ・ろうそく集会に参加していたら、大統領弾劾・失職という民主化闘争勝利も実現させて、自分たちの青春も楽しんでいたのではないか、と思えてくるのは、私(大原)だけではないだろう。その意味で、この映画批評に「抗(あらが)う人たちの青春譜」というサブタイトルをつけさせてもらった。点いては消えるろうそくのように、歴史の節目に灯る韓国の民主化運動。その象徴としての「ろうそくデモ・ろうそく集会」は、ある時は、「ろうそく革命」と呼ばれるほど、権力に対抗するために究極化する力を持った、と言える。

 「歴史は誰にも即断できないもの。皆それぞれの位置で最低限の良心をもつことで、ある真実が力を発揮し、歴史の流れが変わっていくということだと思う」(チャン・ジュナン監督)。そう、それぞれが、生きて上で、最低限の良心という灯をともすこと。それが、消えては、また、点く良心という「ろうそく」なのだろう。

 戦後日本も、韓国に負けずに、平和のために頑張ってきたが、まだ、まだ、力は弱い。韓国の現況の、その底流には、1980年から現在までの、韓国の歴史がともしたろうそくの灯の種火が、生き残っている。何かあれば、彼らは、また、ろうそくに灯をともすだろう。隣国・韓国の歴史を学び、交流を深めよう。

 この映画『1987、ある闘いの真実』は、私の所属する日本映画ペンクラブの2018年度映画ベスト10の外国映画部門で、第7位に入った。

注)映画『1987、ある闘いの真実』の主な登場人物。
(軍事政権)国家安全企画部長/(警察)内務部治安本部長/内務部治安本部対共捜査所長 /同じく対共捜査所班長。(検察)ソウル地検公安部長。(刑務所)永登浦刑務所看守(ヨニの叔父)/ヨニ(延世大学新入生、李韓烈の恋人)/李韓烈(延世大学2年生、催涙弾直撃で死亡)/朴鐘哲(ソウル大学生、警察の拷問で死亡)。逃亡中の民主化運動家。東亜日報社会部記者。収監中の民主化運動家(元東亜日報記者)。神父(民主化運動家)ほか。

 贅言;国家安全企画部(NSP)は、元の韓国中央情報部 (KCIA)の後身。国外情報と国内保安情報の収集、国家機密保持、内乱罪など、特定犯罪の捜査を担当。軍事政権下のKCIA時代には、滞日中の金大中氏を韓国へ拉致・監禁、当時のKCIA部長を首謀者とする朴大統領暗殺などの事件を起した。 1980年、機能を縮小して国家安全企画部と改称。1993年2月、金泳三を大統領とする、いわゆる「文民政権」発足後の93年3月、張世東元部長(全斗煥に最も忠誠、と言われた軍人・政治家。1985年、国家安全企画部長に就任後、さまざまな政治工作に暗躍。1987年の「朴鐘哲拷問致死事件」の政権側の責任者だが、隠蔽工作に失敗、引責辞任した)の逮捕をきっかけに国内の情報収集活動や政治介入から一切手を引いた。以後、スパイ活動や産業技術情報などに活動対象を限定する機構改革を行った。 1999年より、組織の名称を「国家情報院」と改め、特に海外情報の収集・提供を主業務としている。

ジャーナリスト(元NHK社会部記者)。日本ペンクラブ理事。「オルタ広場」編集委員

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